「名前は?」
「未剣菖蒲です」
「生年月日は?」
「たぶん八月二十日」
「家族構成は」
「父母と兄達三人です」
「異能力については」
「肉体の一部を剣に変化させる力です」
「ふむ……」

 かたん、と診療録カルテに最後の一文字を書き記した羽根ペンを置いて、考え込む素振りを見せた森は目の前で凡ての質問に対して正しく答えた菖蒲を見詰めた。怨恨の縺れによる襲撃を受け家族を失った少女の心を探る質疑応答だったが、調べる限りだと異常は見られず脈拍も血圧も平常の一途を辿っているのだから単に菖蒲の心が強いのか。其れとも。
 診察のために覗かせていた右腕を白襟衣の袖に通し、菖蒲は凝然と自分を見下ろす上司であり主治医である森に首を傾げた。そうすると黙り込んだままの森は苦笑いを零し緩慢な動作で菖蒲の頬へ手を伸ばす。それはまるで、我が子を心配するかのような手つきで。

「凄惨な現場を視認したことによる記憶の障害は見当たらず、悪夢に魘されることもない……けどね未剣君」

 きょとんと目を瞬かせる菖蒲により一層笑みを深くさせ、頬へ遣った手をお行儀よく膝の上で鎮座している菖蒲の手を取り、穏やかな表情かおで微笑んだ。

「余り、自分の感情に顔を背けてはだめだよ。その状態が素だと思い込んでしまえば確かに君にとっては楽かもしれない。でも、君は凪君の息女だ。私が力になれることなら手を貸そう」
「…………」

 一点の曇りすら無い(但し判る人には判る程の澱みがある)翡翠の双眸は与えられた言葉を咀嚼し乍ら、理解ができないといった様子で森を見上げている。先程も述べた通り、否定したい現実を目の当たりにしたというのに記憶の障害もなく、魘されるどころか食欲の減退もない。本気で訳が判らない様子の菖蒲に森は曖昧に疑問符を浮かべる彼女へ言葉を濁し、椅子の背にもたれる。
 菖蒲のことは情報網を駆使して洗いざらい調べ尽くしてみたが何の変哲もない、僅かに経歴が黒い普通の女子おなごだった。家族の愛情を受け、時には返し乍ら育ってきた娘。だからこそ、今の菖蒲は異常だ、、、、、、、、
 有り体に云ってしまえば―――変、なのだ。
 愛し愛された少女が拠り所を失った際、ここまで冷静で何もかもを受け入れられるか。否、注意深く観察しなければ判らない程の微弱な強がりそれは彼女にとって防波堤であり、最後の砦なのだろう。マフィアの部下としてなら兎も角、曲がりなりにも菖蒲の主治医としてなら荒療治でも構わないから治療を施してやりたいぐらいに、菖蒲の心はぐらぐらと足場が覚束ない。琴線にでも些細なことで触れてしまえば取り返しのつかない事態になる予測は、森にとって簡単なことだった。崩れれば、どうしようもなくなることも。

「……あの、」

 思考を止めたのは菖蒲の声。
 二の句を促す言外の仕草に彼女は一瞬目を伏せて、口を開いた。

「もしよかったら、わたしの知らない父さんについて教えていただきたい、です」

 ぎゅ、と手を握り返す力に瞠目しつつ、彼女を見遣る。その顔にあるのは無知を知識に昇華させようとする強い意思を宿す色で。森は喉を鳴らした。菖蒲の年齢が十二歳以下であればだらしのない、締まりのない顔をすぐにでも晒して少女を愛でていただろう。だが、それは十二歳以下であればの話。以上は情け容赦なく守備範囲外なのだ。

「いいとも」

 この場合の知りたいことは、恐らく家庭を持つ前の父親のこと。
 整え切れていない無精ひげを触り、森は先日迄奥底に沈み込んでいた未剣凪との記憶を無作為に掘り起こしていき、珈琲を一口含んで言葉を紡いだ。楽しいやら、悲しいやら、それらとは縁遠くも断ち切れなかった男との思い出と呼ぶかも疑わしい感情を、森は男の娘に話し出した。

「凪君はねえ、私の趣味を悪趣味だ悪趣味だと云い乍らその実、ただの一度も私を否定したことはなかったのだよ」
「ええっと……ご趣味、というのは。その、先日のエリスさんのような……?」
「そうとも、可愛いだろうエリスちゃんは。……悪趣味と云えど、やめろ、とは云われなかったよ」

 住所不明でふらふらと横浜をうろついていた凪と知り合ったのは、互いの地雷原を行き来する銀狼よりもずっと、ずっと前。性格も遊びの趣味でさえ噛み合わない二人だったが何故か突き離せず、彼が妻子を抱えだしてからは疎遠になったものだがどうせ息災だろうなと思っていた。事実、暗殺に適した異能力を先代首領に見出された未剣家が陰で暗躍しているのは森は知っていた。どういうわけか、末っ子の息女だけはガードが硬すぎて調べがつかなかったのだが。

「気にしてはいなかったけれど、彼と過ごし始めたのはちょうど君のような年齢だったかな。もっとも、齢十四にしては達観し過ぎていたと思うけどね」
「…へえ……母さんと出会う前、ううん、それよりも森さんと出会うまでのことは?」
「気になるかい?」
「はい」

 素直に返事をした菖蒲の頭を数度撫でて。

「私も知らないんだ」
「え?!」

 正直に話せば驚いたように声を発する少女に向けて、両手を肩の辺りまで上げ、やれやれといった感じを醸し出す森は、本当に知らない。様々な角度、方角から可也の手を回してみても、生まれた日時、環境どころか存在証明すら危うい、、、、、、、、、。書類上では突然姿を現し、現在まで成長しているのだ。
 情報を得られないのは癪だと思い、手を尽くしてみるも憶測の域を出ないものばかりで。

「凪君が何処からやってきて、何を目的としていたのか。時間で云えば可也の間一緒にいたのだが、実際は彼について知っていることは数少ない。素性も家族のことも話そうとしなかったからね、本人に聞いてもはぐらかされるばかりでね」

 期待をさせてしまっていたようだが、凪に関しては森なんかより菖蒲が本人に聞いた方がまだ可能性はあった。しかし、既に相手は故人。聞きたくても聞けない。
 ごめんね、と謝罪を告げれば菖蒲は至って普通の声音でお礼を述べて、何やら考えるように俯いた。整理も必要だろうと一旦彼女から視線を外し、診療録をデスクの脇に片付け、ふと、思う。久方ぶりに凪のことを思い返してみたが、出逢った頃には彼は異能力に目覚めていたかどうか。うーん、と腕を組み脳内を隈なく探してみるもそれに関するものだけ阻害を受けているのか、いくら探っても塵一つ出現しない。抑も、未剣凪の異能力は何だったか―――。
 かちり。
 子供の遊ぶ積み木の山が完成するような、鉛筆によって塗りつぶされていた箇所が見えるようになった感覚に、森は。

「………ふ、くくっ、」

 笑った。
 前触れもなく笑い声を溢す森に、奇怪な目を向けてくるのには気づいている。
 だとしても、こみ上げる笑いは止められない。今まで如何して不思議に思わなかったのか、それこそが謎を解き明かす鍵であったというのに。
 疑う余地もなくそう、、だと決めつけられていた己の思考を嗤うと同時に、忘れ形見と遺された謎を掴み取る。理解してしまえば簡単だった。確かに未剣家は暗殺一家だ、一代で安定した地位と功績を築き上げ裏社会で知らない人間など居ないに等しい存在。体の一部を剣に変化させ、血飛沫を上げさせる異能力は未剣家の象徴だ。が、婿入りという形で家庭に這入った凪はどうだろう、遺伝で間に生まれた子に異能力が発現することは特に珍しいことではない。未剣家の異能力の起源は母方―――詰まり凪ではない、菫が有するものなのだ。凪の異能力は、曼殊沙華ではない。考えれば考える程に容易な事実に如何して気づけなかったのだと思う。何故凪の持つ力が曼殊沙華だと思ったのか。
 思い込まされたのである、、、、、、、、、、、。手法は判らない。けれど、疑いようのない事実だった。

「森さん……?」
「嗚呼、すまないね。時に未剣君」

 気遣わし気に小さく尋ねられて、森は思考をやめる。
 何処か吹っ切れた様子で、改めて凪の遺した形見を眺め乍らトドメの追撃を放つ。

「父親の異能力は、一体何だったかね」

 最適解を導き出した森の問いに菖蒲は二度三度瞬きをして、答えた。
 母達と同じ曼殊沙華だ、と。
 正解だ。恐らく未剣凪…否、凪という男は何らかの手段で己の異能力を隠蔽し、誰かから隠れるように身を潜めていた。最愛にして心許せる妻子にすら教えていないのが紛れもない証拠だ。誰、なのかは判らない。兎にも角にも情報が少なすぎる。菖蒲も曼殊沙華の異能力に目覚めており、上手くいけば凪の秘密に辿りつく道標になるやもしれなかったが、利用するだけしてしまえば地獄からかの人が這い上がり祟り殺されかねないため、これに対する処遇はお預けだ。

「ところで、あの、今日は居ないのですか?」
「居ない? ああ太宰君なら今日も多分―――」

 太宰の所在に心当たりが無いわけではなく、答えようとした次の瞬間。
 ばんばんっ、ガララばたばたばたばた!

「森医師大変だ!! 首吊り自殺をしようとした餓鬼が!!」
「ああうん理解わかった。連れてきてくれ給え」

 恰幅の良い男が汗水垂らして飛び込んで何事かを告げ、またもや大きな物音を立てて外へと駆け出していく。
 目まぐるしく展開していく光景に背後で唖然と見ていた菖蒲に、苦笑を浮かべ乍らも溜息が出る。

「云ってなかったかね」

 げほ、げほ、と息苦しく喘ぐ部下であり、そうして患者でもある黒い蓬髪の少年を診乍ら森は続けた。

「彼は重度の、自殺未遂患者だ」

 何だか格好よく説明してしまったが、云っているこっちはまたかと倒れたいぐらいだ。子供のように、厭だ厭だと喚き、諦めてしまいたい程に太宰は毎日自殺法を試し編み出している。
 自殺を止めるために、若しかしなくとも自分の命が危ないのではないかと、森はずっと思っている。


 夏に入り本格的な蒸し暑さが煩わしい、そんな日のことだった。



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