酷く匂う、鉄臭い何か。
 半壊した我が家の敷居を跨ぎ乍ら、見た目年齢に比べると達観し過ぎた眼差しを携える少女は容易に血溜まりを踏まぬようゆっくり歩き始め、しん、と静まり返った廊下の先に構える居間リビングの扉を押し開き、視界に這入った二人の男女に向けて、無表情に声を掛けた。
 乳白色の襖には鮮血がこびり付き、至る所に朱が目立つ此処は傍から見れば可笑しいのだろう。けれど、少女は其れらが何の為に行われているのか正しく理解しており、幼い乍らも目を伏せていた。

「嗚呼、そうか。もうこんな時間か」
「思ったより手間取りましたものね。…おかえりなさい、菖蒲。早速だけど今夜は斎さんの家で泊まるから、宿題と枕を持ってきなさい」

 頬に付着した返り血をまるで水を拭うかのように乱雑に布巾で拭く母親に告げられ、菖蒲も何てことないように肯いて、そうして。

「―――ただいま」

 微かに口角を上げ、両親に応えた。



***



 未剣みつるぎ家。其の名を見聞きしたことがある裏社会の人間はいつだって口を揃えて云う異名が有った。
 殺戮の、殺戮による、殺戮の為に生まれた一家だと。
 強ち間違いではない。身体の一部を鋭い刃と変化させ、臨機応変に動ける暗殺一家は菖蒲が生まれた後も其の名を轟かせていた。何時からかは知らない。只生まれた頃から凄惨な現場を眺めてきた菖蒲にとって、家族の仕事、、は自分たちが生きるためのものだと、痛い程に良く判っていた。時には三人の兄と父母が全員で仕留めて血祭りにあげたことだってある。家族を支配下に置いていた男が率いる組織に対抗する敵本部を文字通り血の海に沈めた、、、、、、、日だって覚えている。他の組織に悟られまいと血を落とさずに帰宅した家族の姿も、数えきれない怨恨を背負ってることだって、菖蒲は知っていた。
 ……知っていた、筈なのに。

「可笑しいと、思っていたんです。今日は一番上の兄の誕生日で、どんな時も誕生日だけはみんなで揃ってお祝いするのに、わたしだけ遥か遠い此処にお遣いに出すなんて、可笑しいって」

 目の前で椅子に腰掛ける男に聞かせる訳でもないまま、抱いた違和感が口からするすると出ていく。
 噎せ返るような消毒液の匂いが、此れが夢でも何でもない、現実だと突きつけていた。母が数年前に購い与えて呉れた白の衣服はべったりと自分ではない誰かの血液を吸っていて、菖蒲からは見えないが屹度顔も酷い様子だろう。

「君は賢い。賢い上に、解決法さえ己で導き実行した。実に未剣家のご息女だ。却説さて、君の腕が元通りにならない状況、いうなれば着の身着のまま私の下に来た理由を教えてくれるかな」
「父の遺言です」
「ほう、凪君のか。聞こう」

 一見穏やかな表情を貼り付ける男……森鴎外の視線から隙を見せず、菖蒲は先刻息をするのも困難の中、慈愛に満ちた微笑を浮かべた父が遺した言葉を脳愛で反芻させる。この言葉が真実であれば、独り取り残された菖蒲がすべきことなど一つしかなかった。

「『鴎外を、頼れ。彼奴あいつはこの世の絶対悪を煮込んだような、如何しようもない幼女趣味ロリコンだが、友の置き土産ぐらいは、助けてくれるだろう』……と」

 森の笑みが引きつった。森の様子を意に介さず、菖蒲は齢十四とは思えぬ静かな所作で頭を下げ、言葉を続ける。
 正直、この男と父が友人であることが信じられなかったが、突然押しかけてきた自分を迎え入れた辺り、真実なのだろう。

「異能力を発動させたのは今回が初めてです。ですが、殲滅においては類を見ない異能だと自負しています。……此処に、置いてください」

 菖蒲は聡い。『血の暴政』と称される今のポートマフィアの現状も、父から叩き込まれた森鴎外という男の思考についても、凡ては判らない乍らも己の力の使い道や利点を添えていた。
 暗殺の仕事を請け負い、普通の生活など望めやしなかった日々の中。唯一父の友人だと云った森鴎外であれば、菖蒲を見逃さない。見逃されても、這いつくばってでも食いついてやる。
 沈黙が診察室を包み込む。じわり、と額に汗が流れ落ちて、弾けて消える。
 破ったのは、森だった。

「……善いだろう。凪君には沢山貢献して貰ったからね、君の身柄は此方で預かろう。私の第二の、直属部下として」
「第二……?」
「実は先代首領が病死されたんだ。私に首領の座を継承する遺言を聞き届けた証人が、君の先輩にあたる」

 本当なら今も此処に居た筈なんだけどねえ。
 やれやれと肩を竦めて仕方がない子供を叱る素振りを見せて、彼は立ち上がり、菖蒲の前に歩いて手を差し出した。
 先代首領。つまり、今まで未剣家に指示を出していた男が病死した。しかも、首領の主治医に過ぎなかった闇医者を首領に推薦して―――。
 嗚呼。否、そういうことか。

「歓迎しよう、未剣菖蒲君」

 邪推にも等しい思考回転を敢えて中断し、菖蒲は血塗れの左手を温もりの感じられない森の手へ重ねた。
 身長差故、見上げることになった森の双眸は、矢張りというべきか、昏かった。背筋が凍る程先を読み、策を練り上げるこの男は何処まで予測済みだったのだろうか。菖蒲を守る為に稚拙な云い訳を告げて、送り込まれた刺客と相討ちとなり菖蒲が森の下へ訪れることでさえ、彼は可能性の一つとして折り込み済みのような気がしてならない。
 計り知れない感情を持つ男との握手は、最大にして最後の恐怖を抱かせるものだった。だとしても、生きる為には恐怖を蹴落とさなくてはならない。
 母に教わった笑みを不自然にならない程度につくりあげて、再び頭を下げる。

「此方こそ、よろしくお願いします」

 ―――この日が、黒と手を繋いだ始まりだった。
 一張羅とも云える白衣が血に染まろうとも気にも留めない森が二歩下がった時、建て付けの悪い扉ががらりと音を立てて開かれ、誰かの来訪を菖蒲たちに知らしめた。此処に訪れる人物は其れなりに限られてくる。抗争地域で負傷した怪我人か、若しくは。

「……幼女趣味ロリコンも此処まで来たらいっそ清々しいね、森さん」
「太宰君? 勘違いしてないかい、彼女はそういった対象では」
「薬借りるよ」
「聞いてないし!」

 …若しくは、森と個人的に交流がある人間だ。
 菖蒲は勝手知ったる何とやら診察室の薬棚へ迷いなく向かう少年と思しき後ろ姿を見遣った。白襯衣シャツに黒の上着を肩に掛け、蓬髪の下には片眼を覆い隠す包帯。其れも、見る限り大量に巻かれていた。
 訝しむ様子を察したのか、ああ、と息を吐いた森は大仰に座り直して、がさごそと薬を漁る少年を指差して。

「彼が先刻さっき云った第一の部下だよ。名は太宰治君、とても賢くてね、私は大助かりだ」
「…あの、包帯は」

 菖蒲の疑問に答えたのは聞いていないと思っていた太宰だった。

「また死ねなかったんだよ。人間の体って案外頑丈なんだね」
「……じさつ?」
「そう。首を吊っても寸でのところで周りに止められた」
「ま、まあ……目の前で死のうとしてる人間を見たら、普通は止めると思いますよ」

 人を殺し、あまつさえ裏社会に身を投じる菖蒲が普通を語っても説得力はないだろうが。
 まるで初対面とは到底思えぬ会話の拍子テンポに森は目を瞬かせ、首を傾げて尋ねた。君たち、逢ったことがあるの? と。

「無い。けど、身体の一部を剣に変化させ、尚且つ目も中てられない程の血みどろ。森さんの処に居る時点であらかた絞れるよ。未剣家の人間でしょ」
「相変わらず合理的に頭が回るねえ。そうだ太宰君。未剣君の異能力を無効化にしてくれ給えよ」
「…………」

 鳶色の瞳が菖蒲を気だるげに見遣る。そこで漸く、太宰の眼と菖蒲の眼がかち合う。何処にも光なんて見当たらない。否、抑も其処にないのだと云わんばかりの眼差しに、菖蒲は微かに目を逸らした。
 太宰は呆れたように緩慢な動作で薬を置いて、異能特有の淡い光を放つ菖蒲を見下ろして屈んだ。菖蒲も亦やりやすいように腕を前に出し、小さく頭を下げる。

「――異能力、人間失格ニンゲンシッカク

 柔く刀身に触れて、瞬く間に剣は光を現しながら細腕へと戻っていき、数秒も経たずに菖蒲の異能力が無効化キャンセルされていく。菖蒲は此れまで見た異能力は自分の家族のものだけだった故、無効化の異能力があること自体御伽話のようだった。跡形もなく消え去った自身の異能にきょとんとしていると、太宰は既に興味が失せたのか、知る限りだと余り宜しくない薬を組み合わせてかき混ぜているではないか。
 困惑して森を仰いでも、意味有りげに両手を上げてお手上げだと。

「先代首領が横死したことで、マフィア内もぴりぴりしていてね」
「森さんを次期首領に推して、病死なさったって云っていました。つまり、森さん派と先代派に分かれていると」
「鋭いねえ。じきに収まるだろうが、やることが一杯でてんやわんやとは正しくこのことだよ」

 太宰は無言で薬を混ぜ続けているし、必然的に会話は菖蒲と森のみになる。
 却説、と云い乍らしっかりとした足取りで入口へ向かい、その途中で一心に混ぜていた太宰の器具を取り上げて。

「未剣君は先ず汚れを落としてきなさい。何時までも婦女子が血塗れなのは些か頂けない。太宰く──あ、ちょっ」
「よっと。案内してくれないか、でしょ?」
「会話の先を読み取ってくれる優秀な部下がいて嬉しいよ。着替えも用意させておいで」

 理解が咄嗟に追いつかなかったが、此れは風呂に行けというお達しか。無気力に見える太宰は無言で菖蒲を振り返り、留まっている。こびり付いた血は長時間放置していたせいか固まりつつあり、これならば床を汚す心配もないと安堵していると、森が彼らの名を呼んだ。
 振り返れば、丁度風が吹き、白衣の裾が揺れていた。

「せいぜい仲良くしてくれ給えよ。私の見立て通りなら、君たちは善い関係になれる」

 森鴎外―――能力名『ヰタ・セクスアリス』。

「僕、ポートマフィアに加入するなんて言ってないけど。……まァ、別に善いけどさ」

 太宰治―――能力名『人間失格』。

「で、では……浴室お借りしますね。失礼します」

 未剣菖蒲―――能力名『曼殊沙華ヒガンバナ』。
 置いていく素振りもない太宰の迷惑にならぬよう小走りで追いかけていく菖蒲の後ろ姿が完全に見えなくなった頃。森はふりふりと振っていた手を下ろして、小さな声で呟いた。

「凪君と菫君が何故未剣君を隠したがっていたのかは、凡その理由は判る。だが、自分たちの手で守りきれないと判断した瞬間に私へと託すとは……ふふ、なかなか、君たちも斜め上を行く」

 その声は、菖蒲には届かなかった。



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