夜半だった。
 いつもよりも大きく見える蒼い満月が爛々と輝く星々の合間に浮かび上がり、恐ろしく静けさと闇に包まれている横浜を照らし出していた。ベルトに収まる人殺しの道具に何となく手を遣り乍ら、未だあどけなさを残した少女は今まで見詰めていた蒼月から視線を外し、隣で浅い息遣いで休息を取る今も昔も上司の男を視界に捉える。
 ―――此処は埃と錆にまみれた横浜に存在する、或る倉庫内。違法投棄されたゴミと呼ぶには些か危険な代物がごまんと散らかる空間内で、少女……菖蒲は上司と共に是迄所属していた組織の任務中に逃走を図り、相手の追手の動きを計算して束の間の休息に身を休めている。其の組織は裏社会に根を張り、背信行為たる脱走を見逃し、処罰しないなんて有り得ない。若し居場所が割れ連れ戻されれば、死よりも残酷な結末が菖蒲たちを待っているであろう。愚かにも刃向かい見せしめのように断罪された者の成れの果ては、菖蒲はよく知っていた。皮肉にも、今の自分たちが愚か者に回っているのだが、此れは後悔の無い判断だ。
 鳶色の瞳は開くことなく、りりり、と外で虫の鳴声が響く空間の中、息をつく。まだ完全に追手を振り切れていない現状で、休めと言われて素直に休める訳がなかった。だからこうして合理的な思考で導き出した不寝の番をしているのだ。流石に、目の下に隈が出来るほど寝不足になってしまえば気づかれない筈がないため、指摘されない程度のもの。真逆上司に風邪を引かせる訳にもいかず、自分に掛かっていた布団代わりの黒外套を起こさぬようゆっくり、慎重に掛けようとした。しかし。

「……起きていたんですか、太宰さん」

 ひんやりと冷たい体温が、菖蒲の手首を掠め取った。

「誰かさんが眠らないからね」
「未だ夜明けまで随分とあります。少なくとも付近には影はありませんよ」
「だのに、君は……あやは不安そうな面持ちだ」

 手首を掴んだまま、太宰は真意の読めない笑みを貼り付けて座るようにとんとん、と地面を叩いた。如何やら大分前から目覚めていたらしい。寝起き特有の微かな隙さえもなく、菖蒲は掛けそびれた黒外套を再び胸元に置いて、失礼しますと声を掛けて太宰の隣に腰を下ろした。自分より三手も先を行く頭脳を持つ太宰のことは、数年彼の補佐を務めていても理解が及ばない箇所の方が多かった。太宰は久しぶりに両目で月を見上げた。

「今夜はこれまた大きな月だねえ……」
「……ええ、そうですね。確か、月蝕が近々あるらしいですよ」

 会話は何てことない他愛のないものばかり。逆に其れが有難かった。
 ポートマフィアを抜けると決めたのは他でもない菖蒲自身で、太宰の手を取ったのも菖蒲だ。抱いた感情に嘘偽りはない。人を殺す側じゃない、人を救う側になると決めた。そうすれば胸を巣食う霧が払え、幼少期から知りたがっていたことが判るかもしれないから。
 月蝕についてを話して沈黙した菖蒲を、太宰は続きを促すように二人の間に置かれた手で手の甲を二度三度叩いた。

「森羅万象尽くを照らす月が影に覆われ、わたしを見ないことに、安堵しているんです」

 体内に燻っていた熱が手に寄せられた冷たい体温に溶かされていく感覚に身を委ねて、菖蒲は膝に顔を埋める。まるで凡てを見詰める月光から逃れるように。
 目を閉じても、耳を塞いでも、消え失せない焼き付いた紅は、忘れるなと言わんばかりに菖蒲を蝕む。こんなにも自分は汚れている。

「でも、体内に息衝く心臓はお構いなしに鼓動を刻み、世界は回る。その中で、わたしは見つけたい」

 のろのろと顔を上げ、緩やかに入り込んできた風が菖蒲の伸びた横髪を揺らしていく。僅かに、夜の帳が崩れ始めていくのが見えた。

「意味を、現実を、真実を──あの人の、世界を」

 差し込んだ光に眩し気に目を細め、緩慢な動作で伏せた。
 どんなに願っても夜は明け、朝はやって来る。立ち尽くす菖蒲を置いてけぼりのまま、何者にも平等に光を分け与え、酸化を循環させていく。


 欠片を呉れた人はもういない。
 だから完成した作品は自分にしか見つけることが出来ない。それでも善いと思えた。菖蒲と同じく詛いを背負う人が一緒なら、悪夢のような世界でも生きていける。

 まだ、夜は明けない。



prev next

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -