私が本来であれば知り合う以前にも存在を認知されるはずがないだろうと思っていた、幹部最有力候補たる太宰治という男に出会ったのは、後にも先にも退けぬ血と弾丸の雨が降る修羅場などではない。ポートマフィアに金を献上し見返りに守衛されている一般人ならば気がつかない微かな影がある商店街の一角だった。
 今日も与えられた雑用のような、裏組織の一員としては平和呆けしてしまいそうな程のぼんやりとした仕事をこなす為に頭で回る順番を計算していると、ふと前方に慣れない気配があることに気がつき目を遣る。其処には雑貨店の前で硝子向こうの商品を凝然と見ていたかと思えば、ああでもないこうでもないと延々とまるで子供のように唸る少年が羽織る被筒ジャケットの裾を靡かせ乍ら佇んでいた。…子供のような、とは云ったがその実情はそうではないことはいくら最下級構成員とはいえ私は善く理解していた。沸騰したお湯で溶かした、西洋由来の甘い洋菓子猪口冷糖チョコレイトを埋め込んだ風にも見える色合いの眼差しが、周囲の人間とは何処か違う何かを見ている底知れない暗さがあることも、十分に。
 ―――――太宰治。私が所属するポートマフィアの現首領の秘蔵っ子であり、未来が見えているかのように緻密に練られた作戦立案を叩きだす頭脳を持つ、正しくマフィアになるために生まれてきたような男。正式にマフィアに加入して僅か一年一寸の中、齎した利益は数知れず。彼が歩けば後ろに無数の死体が積み上がることだって、容易くない。――しかし。正規の商店街とは微かに離れた店が建ち並ぶ場とはいえ、マフィアの内情を知る者は居ない。敬遠される事態を快く思っていないのか、太宰は堅気ではないと察され乍らも客として扱う店主に気分好さげに何かを話している。雑貨店で済ますべき事柄を後に回し、至って自然な動作で彼らの背後を通り過ぎる。…しようとした瞬間。声がした。「―――織田作之助」足が止まる。久々に背筋が凍るような感覚に、緩慢な動きで振り返る。矢張り底の見えない双眸を携えた男が、目の前で笑っている。

「邪魔をする心算ははなからないし、その衣嚢にある用事、済ませちゃいなよ」

 にっこりと、包帯の巻かれた指で示された衣嚢から取り出した紙には、彼の云う通り雑貨店に伝えることが記されていた。
 其れに、太宰は私の名を呼んだ。詰まり、粗方既に私の素性は調べ尽くされているのと同義だ。何故自分の立場と最も遠い位置に居る私を調べたのかは、ずば抜けた才能も頭脳も備わっていない私では判らなかったが、如何してだか私はすり抜けようとした先刻とは違った感情で太宰の隣に立つ店主と短いやりとりをし始めた。云ったように、横槍を這入れてくることも無ければ無関心に立ち去らない太宰を見て、漸く彼自身の目的が己に有ると感じ、店主が引っ込んだ際に向き直る。
 却説、何か私は上層部の目に留まる不始末をしでかしただろうか。しでかしたとしても、態々かなりの立場に居る人間を寄越すだろうか。薄暗い世界で人事整理と云えば誰しもが粛清を思い浮かべる。作られた笑みを崩さず、寧ろ何処か淫靡ささえ抱く表情で彼は腕を静かに動かした。厭な警戒心が形作られると同時に、云った。「この髪飾り、何色が善いと思う?」私は自分でも著しく体の力が抜けたのを悟った。彼は続ける。

「いやね、私の友人で部下で同僚の子に贈ろうと思うのだけれども。あの子を善く知る存在じゃなくて客観的な視点での助言アドバイスも必要だと考えるのだよ」
「……ああ、主観では得られない情報もあるな」
「そう。そうなのだよ、意外に頭が賢くて相談がし易いね。髪飾りにしたのは横髪を伸ばしてるけど、偶に邪魔そうにしているから」

 視線の先を見る。造花で括られた二個セットの髪飾りが鎮座している。
 敬語が抜けたことに目くじらを立てないあたり、如何やら本気で同僚への贈り物の為に商店街まで赴いたらしい。
 けれども、気は抜けなかった。単純な対話一つでさえも此れは太宰に試されているのは、厭でも判る。恐らくは的外れな返答をすれば瞬く間に興味を無くされ、早々に踵を返されていた。それを察してしまう程、私は裏社会に馴染みすぎている。

「未剣家のご息女なら、目を惹く色ではなく、爽やかさが残る色が善いんじゃないか」
「うふふ。……矢っ張り? 私もね、あの子には空色が合うと感じたのだよねえ」

 顎に指を添え、微笑んだ理由は深く考えてはいけない。太宰の云う同僚というのは、同時期に加入した幼さが全面的に残る暗殺一家の生き残りで、太宰の功績に劣り乍らも決して少なくはない利益を貢献しているかの少女だ。中々お目にかかれない少女だが、私は一度だけ本部に呼ばれた時にすれ違ったことがあった。肩幅が未だ大きいのか些かだぼっとした黒外套の袖に腕を通し、書類を持って昇降機に這入っていく様はどう見ても此方側では見慣れない雰囲気を纏っていて、珍しく脳裏に焼き付いていた。人の噂というのは拡散力があるのかないのか、聞き耳を立てずとも這入ってくる。勿論暗黙の了解としてお喋りは最初に死ぬ為か、深く踏み込んだ話は流石に流れ込んではこなかったが。
 そして。
 何物にも、誰にも執着をしない無欲さを垣間見せる太宰が唯一対等の立場として認めている者―――未剣菖蒲。彼女については私がマフィアに這入る前から知っていた。否、彼女ではなく彼女の座す未剣家の姿形か。少年暗殺者だった私の耳にも届くその一家の手腕は同業者からすると飯の種を根こそぎ奪い去られる気分で、だが数年程前から依頼はごく限られたものを完遂していたらしい事実は、どういう訳か私がマフィアに這入ってから情報を得た。

「意見を尋ねるのは別に君じゃなくても善かったんだけど、試しに付近の構成員に訊いたら莫迦の一つ覚えみたく畏怖の念しか返ってこない。私なら兎も角、あの子が怖がられる要因なんてないのにさ」
「お前はそのあの子とやらが大事なんだな」
「大事? 嗚呼そうだとも。大事だとも! なんせ、彼女は私の共犯者なのだから」

 大仰に胸に手を置き、一昔前の恋愛事件ラブロマンスの映画みたく心が締め付けられる振りをした彼は、今日初めての年相応の笑みを見せた、ような気がする。
 共犯の所以は私が知っても意味はない。訊かないに限る。
 この思考の読めない、破天荒な彼にとってそれ程までに未剣家の息女が大事なのか。

「何とまあ詰まらない回答ばかりだとは思わないかい? あっ、ツケで宜しくね」

 商品を手にする。奥にいる店主に声をかけた太宰はやれやれとため息を吐いて口を開く。「……そうだな」私は特に何とも思わず云う。嘘だ。準幹部であり、云い方はあれだが太宰の寵愛を受ける存在を畏怖せずにはいられないだろう。
 五大幹部最有力候補の思考はてんで私では読めず、気まぐれにも等しい質問も終わったと自己完結して残った仕事を片付ける為に歩き出した。普段とはかけ離れた出来事に面食らったが、唯の幹部の気まぐれなのだ。別れれば接点は皆無、顔を合わすことももうない。
 だが、彼方あちらはさらに追い打ちをかけてきた。「マフィアに在り乍ら、決して殺さず、不殺のマフィア」本日二度目の歩みを止める。先刻とは違い、警戒心が起き上がらないのは届いた声音が咎めるものではないからだろうか。

「真逆本気で用も無い儘君に声をかけたとでも?」

 贈り物用の包装に覆われた髪飾りを翳し乍ら、太宰は笑う。次いで、笑みを貼り付けた儘面白おかしく告げる。「取って食ったりなんてしないよ。私、男には興味ないしぃ」当然だと思った。

「未来が視え、鍛えられた暗殺の腕は一流。マフィアに加入したのは賢明だけれど、其れを振るわないのなら前提条件が覆る」

 ゆっくりと近づいてくる。幼い顔立ちを携えて、意外と未だ小さな体つきだと感じる。「如何してかな?」
 妙な威圧感に肺が圧迫する感覚を覚えつつも、私はからからに乾き始める口を何とか開かせた。

「其れは、上の者としての質疑応答か?」

 太宰は気安く首を振った。

「知的好奇心による興味だよ」
「なら、答えたくはない」

 この言葉を紡ぐのに抵抗がなかった訳じゃない。ポートマフィアにおいて次点に発言権を持つ統率者に成り得る者の問いを撥ね退けることになるのだから。
 唯―――何故だか、大丈夫だと思った。黒雲に身を浸らせ続けた長年の勘でもなければ、太宰を善く知った発言でもない。本当に、唯漠然と大丈夫だと、思えたのだ。果たして―――「ふ、」笑った。嘲笑じゃない。其れは道端に落ちている何気ない石ころが原石だったことに驚いているような、そんな笑み。

「ふふっ、ふふふ。そう来たかあ。いいね、物怖じしない性格なのかな」
「何か気に障ったのなら謝罪するが」
「嗚呼いやいや、そうじゃない。答えはいくつか予想してたけど、選ぶ確率が低いものだったからつい笑ってしまったよ」
「そうか」

 機嫌は損ねていない。頸の皮は繋がったようだ。あくまでも此方が本題だったのだろう。未だ堪えきれない笑いを溢して、太宰は最初に言葉を交わした時よりも遥かに人間染みた表情、、、、、、、を浮かべている。昨日の自分に伝えてやりたい。翌朝に準幹部に遭遇し話すことになるぞ、と。顔の変わらない私を気にも留めず、太宰は時刻を確認して歩みを開始した。

じゃあまたね。織田作、、、、、、 、、、

 聞き馴染みのない愛称に疑問符を浮かべる暇もなく、彼は上機嫌に迷いなく本部への道のりを目指していく。
 到底、権力者に向ける言葉ではないが。私は或る四字熟語が頭を駆け巡っていた。
 ―――奇想天外。
 これに尽きる。何色にも染まらない黒の外套が靡くのを眺めて、じわじわと気温が上がっていく夏場には合わないな、と感じた。
 私は今度こそ雑貨店から八百屋へ向かうために、両脚を動かした。ああ、暑いな。
 マフィアの仕事とは云えない仕事をこなし、眠り、朝日が昇れば起床して斬った張ったとは程遠い日常を歩いていく。内に秘めた或る夢を叶える為ならば、苦ではなかった。数十年で一度の遭遇があの日だったってだけで、立場が違う私と太宰では文字通り二度と顔を合わすことはないのだろうと思っていた。……いたのだ。

 今までの人生では観測できていない奇想天外な太宰との二度目ましては、予想を裏切り案外早くに訪れた。

 忘れたくても忘れられないあの日から暫く経過して、出会ったからといって何かが変化する訳でもない日々を過ごすこと一か月。
 質素な家具に囲まれた自室で目を覚ました私の携帯に見慣れないアドレスから連絡があった。非常に文面は簡素なもので、要約すると夕暮れ時に高級料亭の個室集合と書かれていた。悪戯か何かだと断じるには些か不安があった。其れに添付された地図で示された店名は知る人ぞ知るマフィア御用達の店でもある為、確実に悪戯の線は外されてしまった。幸いにも差し迫った仕事は請け負っておらず、表情に出ない乍らも緊張した私は給料で購入したグラスを流しに落としてしまうなどをする。粗相をした自覚は、少なからずある。滲む手汗を被筒の裾で拭いて、私は意を決して料亭へ車を飛ばしたのだった。
 提示された時刻より十分早く赴いたのだが、店内に這入り案内された部屋には既に人が待っていた。気配を感じたのか、明るい声が鼓膜を叩く。「あァ織田作!」

「待っていたよ! さァさ、這入って這入って」
「太宰」

 洗練された動作で店内を回る女将に、落ち着いた雰囲気で統一された如何いかにもな建築物。年若い風貌な太宰が利用するには場違いだと思われがちな空気であるのにも関わらず、否定の言葉すら出てこない程似つかわしい様子だ。
 肌ざわりの好い暖簾を潜って、当たり障りのない座布団に腰掛けようとして、室内に太宰だけじゃなかったことに気がついた。少女だ。艶のある黒髪に、深い海色を彷彿とさせる大きな瞳。……彼女は。

「織田作、知ってるよね」
「未剣家の息女だろう? まともに顔を合わすのは、初めてだが」

 当然のように隣に座る太宰は何が嬉しいのか、少女の腕を突いている。其れに文句を呈さず、あどけない面持ちで少女は小さく頭を下げた。空色の造花が彼女に倣って揺れている。

「初めまして、未剣菖蒲と云います。太宰さんに本日は無理を云って予約を取り付けてもらいました。来て下さって感謝します」

 詩人ではないから表現が恥ずかしいと思うところはあれど、的確に定めるのなら菖蒲と名乗った少女の声は鈴が鳴るような心地だ。
 其れから、今日の召集は太宰の立案ではなく、菖蒲の望みだったらしい。今朝方描いていた粛清にはならず胸の奥底で安堵の息を吐いた。此れが判明しなければ料亭で用意される料理を凡て残さなくてはならなかったところだ。しかし彼女に呼び出される理由は判らず、凝然と菖蒲の顔を見つめる。流石準幹部と云うべきか、正確に汲み取った口が開かれる。「御礼です」

「先日戴いた髪飾り、織田さんも選んでくれたと聞いたので」
「否、俺は太宰の質問に答えただけだが」
「それでも。御礼が云いたかったのです。……ありがとうございます」

 折り目正しくお辞儀をする菖蒲を見て、大人しく御礼を受け取る。私としては御礼を云われる何かはしていないと思うのだが、受取側がそう思ったのなら、それはそうなのだろう。折角の思いを無駄にするのは如何なものだろうから。
 だが、御礼を云うだけならば何も料亭で集まることはないと感じ、何となく太宰に尋ねればきょとんと重く受け止めていない表情でこう云った。

「え、だって最近あやと出かけられてないし」

 どうやら、太宰は周りが思う以上に―――己が思う以上に菖蒲を大事にしているようだ。
 此処に来るまでも彼らの活躍はマフィア全体で共有されており、本人らに届かない乍らも彼らを称する呼び名までもがある始末。何だったか。思い出せない空白に手を伸ばすも雲を掴む感覚だけが纏わりつき、結局出てこなかった。
 提供された料理に舌鼓を打ち、目の前で交わされる会話を右から左へと聞き流すことはせず、適当に相槌をする。私より幾分か年下の彼らが何故マフィアに籍を置くのかは、知ろうとはしない。踏み入り、土足で荒らすのは厳禁だった。これも暗黙の了解だ。そうして、ふと。ころころと表情が変わる菖蒲の呼び名を思い出した。呼び名というか、彼女を表現した単語だろうが。
 黒き花。優しくも聡明な彼女を表すにはぴったりなものだ。いつだったか、付けっぱなしの電視機テレビで人が云っていた。日陰で育った花は黒い―――。未剣家の所業と任務を鑑みれば十分に黒い。仕事に同伴せずとも、それが当たり前な家庭で育てば一般人と比べると大分黒く染まっている。
 だが。

「明日から西方の小競り合いを制さなきゃなんないんだって〜。そういうの、私達じゃなくてあっちに云えばいいのに」
「仕方がないですよ。人員、足りてないって云っていましたから」
「小競り合いでも戦死できるような場所じゃないんでしょ。行く意味」
「首領の胃が休まりますよ」
「めんどくさァい」

 慣れた手つきで咀嚼する彼らは、話している内容は聞く人の度肝を抜きかねないが、それを除けば商店街を駆けまわる小学生や購い物客の中学生と何ら変わりない。
 本当に何一つ、変わりない。どんな悪事に手を染めようと、軽口を叩き合う様は何処も。話を聞く限り自殺癖を持つ太宰のことも、そんな彼を苦笑しつつ諫める菖蒲のことも現時点では深くは判らなかった。しかし、漠然とした予感があった。具体的な説明ができない何かが、予感となって私を包み込んだ。判るのは、数少ない。太宰の云う通り、彼らは共犯者で、黒き花で、―――双月だ。男を花と喩えるのは趣味ではなかったが、驚くほどしっくり来ている。
 双月。そうだ。二人の呼び名は、こうだった。誰が云い出したのか。お伽噺なのか、実話なのか、はたまた当て字なのか。何もかも判らないが、今私の前に居るのは双子の如く共に在り続ける菖蒲と太宰の姿だった。運命論者ではない私ですら共に在ることを当然だと思ってしまう。単純に年頃の近い関係だとも思えるが、そうではないのだと。
 揚々と太宰が喋り、菖蒲が笑う。其の逆も然り。剣呑な空気には一切ならなかった。
 はっきり云って、余り喋らないで済んだのは幸いだった。私は口が上手くない。時折同意を求める矛先には確り答え乍ら、食後に運ばれてきた茶を啜った。

 此れから双月との付き合いが数年に渡って続いていくことなど露と知らぬ私は、ただ普段とは乖離した非日常の夕飯を堪能して、少年少女を見つめていた。



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