執務室の扉が通常であれば有り得ない音量で開け放たれる。事前の声掛けも叩音ノックもなく、革靴の爪先が薄紅絨毯を踏む。昨夜取引先から帰還した席に溜まっていた書類を片付けていた菖蒲は僅かに目を見開くも、すぐに張り巡らせた警戒と不快の感情を失った。
 仮にも準幹部の部屋を我が物顔で、尚且つ悪気なしで事によっては処罰対象になり得る行動を起こせるのは菖蒲の知り合いでは数少なく、残りの二人はこの時間帯は真面目に職務に励んでいる。よって、一人しかいない。菖蒲よりも上の立場であり、受け持つ仕事も多いというのに。そして覚え間違いでなければ扉を開け放った存在もまた仕事中の筈なのだ。
 されど、にこやかに子供の遠足にも似た足取りで執務机に歩いてくる男に常識を当て嵌めるなど、此方が莫迦を見る。否、決して此れは彼を貶していない。断じて。
 居もしない誰かに内心首を振りつつ、菖蒲は手を止めずに問いかけた。「太宰さん。今度は何を思いついたんです?」相棒で腐れ縁で喧嘩し合う中也への悪戯か、はたまた首領を困らせる作戦か。孰れにしても後のことを考えると断りたいものであったが。けれど、嬉しげに頬を上気させ、今にも小躍りをせんと機嫌の善い太宰の口から飛び出したのはそれら凡ての斜め上を行くものだった。

「花見をしよう!」
「えっ?」

 動揺に掠め取られた指がずれ、 洋墨 インクが蚯蚓を引いた文字になっていることに気づかず、太宰の顔を見上げ続ける。
 酷く嬉しそうで、楽しそうで―――経験上、嗚呼これはひと嵐来るなと予感した。



***



 事の始まりは数日前に遡る。

 桜の開花は年によって違うが、大まかな日にちは前年度の日と比較するとあまり変動は見られない。桜は十日から二週間程で散ってしまう為かその間の日を狙って穏やかな公園や大通り、果ては山間部で花見をする者が多いとされている。
 だが、これはあくまでも一般人を例に挙げた時の所感であり、光ある世界では闇が色濃く滲んでしまう裏社会の人間の場合はというと。「したい! けど独りじゃ普通に寂しい」「時間がありませんが?」「こども達と一緒に行けたら楽しいだろうとは思う」―――見事なまでに統一性のない言葉達である。市警軍警に露見すると百回以上の尋問でも余りある犯罪履歴を持つ組織でも、偽装カモフラージュされた金銭のやり取りや取引先への牽制、他組織潰しが日常茶飯事と雖も爆発的に忙しさが湧き出る時期もある。細かく云えば部署によって多忙の程度は多少なりとも増減もあるのだ。回りくどいが結局は、忙しい時は忙しい。が、しかし乍ら肯定的な発言は目立たないも全員行けるのならば行きたいという気持ちはあるにはあり、そこでならばと声を上げたのが、此処横浜の地で暗躍するポートマフィア五大幹部が一人・太宰治であった。
 
 そして。
 霧深い夜、いつものように酒屋で取り留めのない会話をしている中、冷静沈着で鬼のようにツッコミを不承不承にも任せられた男がぽろりと零してしまったのだ。「そういえば、もうじき桜の見頃ですね」これが始まり。
 印象にない発言にぱちぱちと瞳を瞬かせた太宰は、脚を組みかえて訊く。

「なあに、安吾。花見でもしたいの?」
「いえ、そういう訳では。流石に男一人で感慨深げに桜を見上げる度胸はありませんよ。自宅に帰る前、近所の公園で敷物にお弁当に酒にと……随分と楽しそうな声が聞こえたものですから」
「ふうん?」

 返答に興味があるのかないのか読み取れない声を出して、太宰は此処へやって来てからつついてばかりだった酒を喉奥へ流し込んだ。余り飲んでいないように思える太宰にとって、この程度の酒は果汁と大差ないのだろう。太宰が酒で正体不明になっている様を見た者は誰も居ない。飄々と人を煙に巻き、人を欺く手順はゆうに千を超える頭脳を齢十八にして完成している太宰の醜態を見れる者など、果たしてこれから先現れるのか。
 静かに隣で聞いていた織田が思い出したかのように顔を上げる。彼の酒は三分の一しか残っていない。

「慥か……安吾の家近くの公園は大きな樹があったな」
「ええ。遠くから見てるだけでもかなり迫力があるのに、間近で見ると壮観ですよ」

 安吾も彼にしては度数の高い酒杯を呷り、からんとグラス内の氷が揺れた。
 寡黙な常連客しか通わないバーは、独特の空気をまとい居心地が善い。客を詮索せず、時には容赦のないツッコミを下すバーテンダーの評判もそれなりだ。しっとりとした空気を惜しくも破ったのは、先程から黙り込んでいた太宰だった。「ねえ安吾」

「その大樹、自重で折れないやつだよね?」
「やめてください。何をするつもりか知りませんが人が一息つく場所を曰くつきの場所にしないでください」
「やだな、一寸縄を括りつけて首から垂れるだけだよぉ」
「その前に縄の方が先に切れるんじゃないか?」
「あそっか」
「ツッコむところ違いますからね?」

 凡人には理解し難い嗜癖を意気揚々と日々実践する太宰を止めようにも、太宰だけでも至難の業だというのにこの場には狂言を真に受ける織田がいるのだ。手綱なんて握れやしない。尤も、握れた試しなどないのだが。
 頭の痛くなる会話に額を押さえ、安吾はため息を吐く。それをどう見てそう思ったのか、「頭痛の種」は名案だと云わんばかりに小さく手を叩いた。正直、期待などしていない。

「近いうちにその公園で花見をしようか!」

 ほら来た。

「敢えて聞きます。何故?」
「安吾は善い具合に息抜きになるし、織田作は下見ができる」
「で、太宰君の最大の目的は」
「大きな樹の枝は太く重たい! 首吊りには持ってこいの置物オブジェじゃないか。付け加えるなら鮮やかな桜の下で死ねるなんて……ああっ想像しただけでも昂るね、……自殺欲が!」

 最早言葉を投げる気力もない。年下で、未成年とは思えない恍惚とした表情で末恐ろしい言葉を吐き出す太宰が提案するなら、放られた解は実行しかないことを、安吾は彼と出会った瞬間に誰よりも理解していた。一張羅を汚され、あんな場所で聞きたくなかったマフィアの常識と共に。
 つまり、上記のは脅しではないが、兇行あるのみ。……花見が開かれるのは確定事項だ。しかも安吾と織田作が頭数に這入っているのを見るに、既に算段がついている。そこまで考え、安吾は脳裏に過った疑問を投げかけた。もう何にでもなれ、やけくそである。

「未剣さんは如何するんです」

 どちらかと問えば半分は安吾側に寄る少女の名を出すと、珍しく力強く意気込んでいた彼は歯切れ悪く唸った。

「あや、あやねぇ……」
「言い淀むなんて珍しいな。喧嘩でもしたのか」
「真逆! 私とあやは何時でも仲良しさ。塩かけたら乾涸びる生物とは違ってね」

 飲み干したグラスの底を薄暗い光に掲げ、元に戻す。

「……同僚だった頃と比べると、格段と同じ任務に就く度合いが減ってしまったんだよ」
「………………あの同伴率でもですか?」

 信じられないと若干引き乍らに安吾が云う。
 準幹部であると同時に五大幹部補佐役という肩書きを華奢な体に持つ菖蒲は、安吾が確認できる限りの太宰の任務に必ずと云っていい程名を連ねている。幹部贔屓だと云われかねない太宰の行動には意味があった。男だらけのマフィア内の、年若い少女の構成員は否応なく注目されやすい。それも幹部補佐役ともなれば尚のこと。直球に云うと牽制である。善い意味でも悪い意味でも目立ってしまう菖蒲に手を出すなという、幹部直々の牽制。若し万が一指一本でも出してしまえば明日の朝陽は拝めないと思っていい。
 けれど安吾の指摘をものともせず、やや食い気味に顔を寄せてきた。「まだ足りないくらいさ!」

「彼女は私と共に終わってくれる人なのだから、他の何者にも靡かれては困る」

 まあそうだろうな、と思う。
 突如饒舌になるのも突拍子のない話で場をかき乱すのも太宰にとっては造作もなかった。それが顕著に現れるのは菖蒲の話であることも、この場にいる安吾と織田じゃなくてもマフィアではよくあることだ。頭の回転が早く、気が利き優しい笑顔を浮かべる菖蒲は、下心がない乍らも好印象に安吾にも映っていた。
 寧ろ、様々な才能が抜きん出ている男の許に優秀な補佐がいるのだ。安吾は何を思ったかお代わりを無言で注がれたグラスを一思いに飲み干し、ダンッ、とカウンターに置いた。佳く佳く見れば、目が据わっている。

「ええい、ごちゃごちゃとめんどくさい人ですね。つべこべ言わず呼んでくるのです!」
「……酔ったな」
「うん、これは酔ってるね」
「酔ってません!!」
「安吾って酔うと細やかな思考を放棄しがちだよね、私達の前だと」

 些か心外な感想を寄越されたが、別に構わなかった。
 もう何でもいいから複雑極まりない思考回路を持ちつつ、傍から見ると比較的面倒で単純な太宰にしては遠いもののはずの感情を抱く目の前の男にいっぱい食わせてやれ。

 そう強く思ったことだけは覚えている。潰れたつもりも、潰れるまで飲んだ気もなかったが、そういえば一つ。安吾が手洗いに立った時、太宰は何かバーテンダーに云っていなかったか。認めたくはないが、そういうことである。
 ―――つくづく、先が見える男だった。


***



「という訳でやって来ました、掃部山公園!」
「有言実行が早い……」
「晴れて善かったな。親爺特製の伽哩もあるぞ」
「この匂い伽哩だったんですね?!」

 四者四様に反応を示す清々しい青空。
 菖蒲は太宰に連れ出されて横浜市内にある花見にうってつけの公園を訪れていた。陽射しも中々に暖かく、この季節柄吹きつける風も極僅か。定型文を挙げるとするなら絶好の花見日和だった。
 訪れたのは、県立図書館の真横にある掃部山公園。毎年桜の観光名所として名がある場所であるが菖蒲達が足を運んだのは平日の真っ只中ということもあってか、学生の春休み以外を除けば人の影は花見の時期としては少ない方だ。公園の敷地に這入った途端に井伊直弼像と写真を撮ったり、自由に過ごす太宰は矢張り太宰のようで一日の長い間を共に過ごす時間を考慮してか、誰も彼もツッコミはしなかった。

「織田作さんの伽哩持ち込みは予想していましたけど、あなたのそれは?」
「桜の花見ならお弁当かと思いまして……急なもので簡単な料理ばかりですが。あっ、首領に無理を云って微量乍らもお酒持ってきましたよ!」

 どうだ、と胸を張り缶型の酒を三人に見せる菖蒲もそこそこ浮かれていた。日々の職務の合間に時折息抜きを挟むことはあれど、ここまで開放的な発散はしばらくしていなかった為である。何にせよ浮かれる者が二名、先が思いやられる者一名、どちらにも属さない者一名とややばらばらな面子での花見となった。
 桜が十分に見える場所に敷物を敷き終え、本格的に花見を開始する時点で太宰は明るい声を上げる。「却説、と!」

「私は早速首吊りを試してくるよ!」
「やめてくださいって云いましたよね!? 未剣さんも云ってやってください!」
「先に料理食べないと冷めますよ、太宰さん」
「そうじゃありません!」

 着の身着のままの姿のどこから太い縄を取り出したのか、わくわくと件の大樹を目指そうとする太宰の腕を掴んで妨害する安吾と、微かに違うツッコミを入れる菖蒲は至っていつも通りで。というのも、これで太宰の言動が幾ばくか統制できるのであれば以前から根気強くやり続けているだろうし、知り合って数年、既に改善されてても可笑しくはないのだ。それが現れていないのは、まあ、つまりお察しである。

「蟹もきちんと用意してるから、一緒に食べましょうよ」
「首領の懐からのやつ?」
「いいえ、わたしです」
「じゃあ味わって食べよっと」

 聞けばぎょっとする発言も太宰にしてみれば朝起きるのと同意義であり、修正の余地もない。菖蒲が購入したものだから味わって食べるのであれば、若しこれが首領たる森鴎外の懐から購われたのならばどうなるのか想像して、森への同情は禁じ得ない。勿論多大なる利益を齎している太宰だからこそ為せる言動である。
 累計何度目かのため息を吐いていた安吾も空腹に抗うことなく箸で蟹入り卵焼きを口に運び、簡単な料理乍ら味わい深いそれに舌鼓を打った。織田の持ち寄った伽哩は白米がないが、それだけでもおかずとなる。判りづらい変化ではあるが、織田は伽哩を目の前にすると僅かに頬が緩んでいる。

「んっ。あや、もしかして今回の卵焼きは少し趣向を変えたかい? 昆布茶でだしを取ったとか」
「すごい。判っちゃうんだ。そうなんです、普段の甘いものでも善かったんですが、面白みがないかなーって」

 年相応に料理を楽しむ太宰の様子に、菖蒲をと織田を除いた一人は絶妙な甘さに何故だか遠くを見るような目を浮かべ、意図的にそっと彼らから視線を外してしまう。喩えるのならば、そう、失われし青春―――血と銃弾と怒声にまみれた普通とは云いにくい組織であるから、この表現は不適切かもしれないが、今更訂正する気もない。
 それぞれに有る仕事が同時期に一区切りつくなど考えればありえない訳で、恐らくはこの中で最上位の権力を持つ五大幹部が何かしら働きかけたのだろうと理解できる。辻褄が合わないのだ、そうでなければ。
 太宰の世話から一旦離れ、唐揚げを咀嚼していると隣でずっと考え込んでいた風に見える織田がふと顔を上げ、云う。「ああそうだ」全員の注目が集まる。

「太宰、その蟹借りるぞ」
「借りる? って、あああ!」

 了承を得てもいない内に織田の箸が太宰の近くにあった蟹を攫い、たっぷりよそわれた伽哩の海へと沈めていった。

「織田作!? なにしてんの!?」
「美味いものに美味いものを被せたら美味さが二倍かと思ってな」
「脳筋みたいな考え方凄いね!? え、えええ……」

 太宰の狼狽が凄まじい。

「美味い、かける、美味いは美味い」
「云い直さなくていいよぉもう!」

 調子リズムが狂わせられる太宰はそれ以上織田を追求することなく、しょんぼりとした儘また新たな蟹を追う。
 かちりとパズルが組み合わさるようなやりとりに菖蒲はくすくすと笑い、なんだか眩しそうにその光景を見つめていた。……初めて人を殺した日のことも、友人に出会ったこと、こうして、気安い関係の彼らと過ごす日々がどれだけ楽しいことか。
 場所なんて関係ない。何処にいても変わらない会話をする友人からふ、と背後にある桜の樹を見上げた。さぁ、と吹いた風が、桜の花を揺らしている。毎年映る景色なのに、菖蒲は何物にも勝る絶景に思えてやまない。
 そよそよ、揺れて、花弁を散らす。
 そうして偶然、三枚の花弁がひらひらと落ちていく。桜が導かれるように太宰、安吾、織田の下へと―――。

「っ、織田さんが! 池に!」
「えっ!? どこだい!?」
「俺はここにいるが」

 そっと吹いた風が、織田を目指していた花弁の軌道をずらし、あえなく池に落下していった。それ以外は滞りなく二人の傍に着地している。

「…すみません、言葉不足でした。織田さんの、近くに来ようとしていた桜の花弁が、です」

 慌てようとも細かい言葉が抜けては意味が無い。恥ずかしさに頭を抱え乍らも太宰は云わんとしていることが判ったのか、笑顔でそういうこともあるさ、と菖蒲を慰めた。織田もそうか、と零し周囲の花弁を摘み、菖蒲の手に乗せてくれる。

「これで、お揃いだな」

 手に乗せられた花弁は、小ぶりで、それでも織田の些細な気遣いが込められていて。
 お礼を述べれば、隣からずいっと羨ましそうな顔つきの太宰が手を繰り出した。どうやら、花弁を呉れるらしい。安吾を見れば、やれやれと肩を竦めつつ差し出してくれて、矢っ張り、誰も彼も優しい人達だ。

「わ、私の方が桜大きいもんね!」
「何と争ってるんだ」
「これが俗にいうつんでれ……? 否、でも君は男ですし……」
「難しく考えるとだめですよ、太宰さんも思ってもいない事を云わないで」
「はぁーい」

 伸びやかな声が響く。公園の周りに点在する住宅街からは、微かな生活音が聴こえる。菖蒲は笑った。
 規則性があってないような職場故に、絶対の約束は交わせない彼らではあるが、少なくとも菖蒲は来年もこうして穏やかに花見ができると信じていた。彼らはばらばらのように思えて、誠実な人達であるから。菖蒲も、太宰達との関係を大事にしており、途切れさせたいとも感じていないのだ。時間が捻出できなくとも、今年のように上手い場所を確保できなくとも、こうやって仲の善い友人達といつもと変わらない日々を送れると純粋に信じていた。―――信じて、いたのだ。




 それが最悪の形で潰える未来が来ることを、この時の菖蒲は知る筈もなかった。


桜は散った

(その後間もなく、ひとりが死んだからだ)


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