「最近、太宰君の機嫌が頗る悪い気がするのだけれど。何か知らないかい?」

 くたびれた聴診器や皺だらけの白衣ではない、一目見て高級品だと判る黒外套と赤のストールを身につけた森はぐったりとした様子で呟いた。指を組み、書類の乗った執務机の隣にはクレヨンで絵を描くエリスが我関せずという面持ちで座っている。
 此処は首領執務室。ポートマフィア本部内で最も侵入が難しいとされる一室に、≪羊≫の一件後に与えられた執務室で事務仕事をこなしていると、顧問役を通して森に呼び出された菖蒲は冒頭の言葉を聞いて目を瞬かせていた。聞き間違いでなければ、太宰の機嫌が悪いと云っていたか。

「太宰さんの機嫌、ですか?」

 勧められるが儘に腰掛け、紅茶を今まさに口付けようとした時の疑問提示だった。云わんとしている意味があまり紐づけられず、森の目を見る。何処かで見たことのあるような眼差しにああでもないこうでもないと脳内で計算していくにつれて、あ、と答えが弾き出る。この瞳は、あれだ。未だ菖蒲と話に出てきた太宰がマフィアに加入前の、太宰の自殺未遂によって負った怪我を消毒している菖蒲達を見守っている時のものだ。
 ふむ、とマフィア絡みの疑問ではないと一つの可能性を揉み消し、ここ一週間の太宰の姿を思い描いてみる。
 太宰と菖蒲は森の直轄部下であり、命じられる仕事は僅かな差異はあれど大まかな内容に差はない。毎日首領に伺いを立てるのではなく、自分の手で片付けられるものは後の報告書に書き加えて提出したり、任せられた部隊の指導をしたりなど。菖蒲は直轄だが、太宰の補佐でもあるため大体隣に佇み、雑務を引き受けるのが主な仕事だ。これもまた首領により賜った太宰の執務室で補佐をしていれば会話をすることは多い。しかし森の云うように果たして機嫌が悪かっただろうか。閲覧可能な書類に判子を押し、まとめていく様を記憶から引っ張り出して―――「そう云えば」菖蒲は声を溢す。

「凄く見られることが増えた、と思います。あとはこれは勘違いだったら恥ずかしいのですが、何か云いたいのかなあ、なんて」
「それだよ、未剣君」
「えっ」

 反論を許さぬ程の食い気味で声を重ねる森は、額に手を置き心底疲れたように大きく息をつく。

「もしかしてわたし、気づかない内に地雷踏んでました……?」

 だとすれば大変である。先程も述べた通り、菖蒲と太宰は森から降りる個別の命が無ければ基本共に居るのだ。なのに機嫌を片方が損なっていては気まずい。
 だが最近の太宰とのやりとりは何か云いたげに見られることが増えたこと以外は依然と然程変わらず、業務の合間や時には放り出して自殺に走り、心中に誘ってきている。食事を一緒に摂ることもあれば、マフィア傘下の商店街に出かける日もあった。それを包み隠さず森に伝えると、首領とは到底思えぬ呻き声を上げ、森は今度こそ執務机に腕を投げ出した。「未剣君相手だとなあ……そうだよなあ……」小声で何事かを吐き出しているが、菖蒲相手だと何が何なんだろうか。時折森は菖蒲よりも太宰の感情の機微に鋭く、それが森を悩ませている。

「あー……ごほん、未剣君、一寸」
「はい?」

 皆目見当のつかない菖蒲に比べて疲労の色を見せる森を無視して紅茶を飲める筈がなく、素直に手招きされた方角、つまり執務机に近づいていく。そうして抽斗から取り出されたファイルを受け取り、中を閲覧する。
 どうやら内容は四日前に起きた東方での小競り合いに関しての顛末書と被害報告のようで、駆り出されたのは太宰率いる部隊。この件に森は殲滅でも構わないと非常に簡素な指示を下し、慥か争っていた他組織の班を落としたと聞いている。森が懸念する事項が見当たらず訝しむも、捲った瞬間、口から納得の息が飛び出した。勿論ポートマフィアの不利益は存在せず、結果は上々だった。けれど立案された作戦がなんと云うか、これは。
 些か、否、だいぶ荒っぽいのだ。

「……この日の投入、紅葉の姐様の処に居たので帯同していませんでしたが、真逆、これ程とは」
「間違いはなく、細やかな指示も的確、気を緩めた構成員が微かに負傷するも大して損害もなく所謂漁夫の利を持ち帰ったと云えるのだけれどね。可也荒々しい。だから、それとなく聞いてみたのだよ。何か気に障ることでもあったのかい? と」

 森は遠い目をし乍ら続ける。

「『―――何も?』と云っていたよ。いやあ、あの瞬間だけ所在地が北極だと勘違いする程に冷えていたよ、太宰君の目が」

 思い出したのか腕を摩る森は、よっぽどなのか苦笑を溢していた。
 太宰が怒りを露わにすることは滅多にない。それどころか、一度も無かった。中也や、≪羊≫の面々に見せた冷えた暗い目を見せることはあっても、太宰は年相応の怒りを感じていないのかと錯覚するぐらい、無感情なのだ。
 それと同時に、珍しく感じていた。

「君が太宰君にしてしまった可能性も否めないが、あの八つ当たり加減を見るに恐らくは」
「……中也くん、関連ですね」
「その通り」

 だからね、と森はひらひらと手を振り。

「無理のない範囲で探ってきてくれ給え。善い方向に行けば報告はなくて結構」
「わたしが聞くんですね」
「不満かい?」
「いいえ。マフィア内で今のところ太宰さんに声をかけられるのって、わたしか中也くんしか居ませんし。できるだけ、聞いてみます」
「頼んだよ」

 ご馳走になった紅茶の礼を述べ、退出しようと入口に歩みを進めると不意にぐっと外套の裾が引っ張られる。振り返ると腰元に絵を描いていた筈のエリスがおり、不思議に思っているとそっと紙袋を持たされた。
 エリスは聡い。菖蒲が何かを云うよりも先に形のいい口を開く。「洋菓子よ」

「お休みを誘う時にそれを出すといいわ。リンタロウがお金を払ったから気にしなくていいわよ!」
「エリスちゃぁん……ひどい」
「ふふ、ありがとうございます。エリス嬢、太宰さんと戴きますね」

 異能生命体でも、愛くるしい容姿なのは変わりない。失礼にならぬ程度の強さでさらさらな金髪を撫で、小さくお辞儀をして首領執務室を退室した。
 無表情で直立不動の黒服達の隣を通り過ぎて、昇降機に乗り込む。十六の釦を押し込んだ。壁に立てかけてあった時計は八つ時前を指しており、利用させてもらうことにした。辿り着いた階の廊下を突き進み、左に曲がれば既に其処は太宰の執務室だ。扉についた窓から光が漏れているということは、中に人がいる証拠。マフィア内で己の執務室ではない場所に立ち寄ることはなく、おのずと正解は導き出される。
 三度叩き、小さく応じられたことに安堵し乍ら扉を押し開く。
 矢張りめんどくさげに羽根ペンを書類に走らせる太宰が座り、降りてきた報告書と稟議書を捌いていた。「ただいま戻りました」声をかけて、給湯室に足を運ぶ。背中に視線を感じるも敢えて気づかない振りをして、沸騰した湯を瓶に注いで、盆を持って再び執務室に戻る。てきぱきと茶会の準備をし乍ら呼びかける。「太宰さん」

「少しだけ休憩しませんか?」

 太宰が珍し気に書類から視線を上げ、菖蒲を見る。

「まだ数枚終わってないけど」
「この速さなら十分定時には終わりにできますよ。森さんから美味しい洋菓子を戴いたんです。食べませんか」

 湯瓶を掲げると、元々書類整理に飽きていたのか太宰は遅くない動きで執務机から立ち上がり、菖蒲の差し出したカップを受け取ってくれる。
 直感ではあるが、太宰も恐らく菖蒲の聞きたいことを判っている。洒落た柄の這入った小皿の上に菓子を振り分け、菖蒲も向かいに座って、両手を合わせた。

「未剣さん」
「は、はい?」

 単刀直入に訊くのが遅くなった為か、平素より緊張した面持ちなのが見抜かれたのか。太宰に呆れた様子で見られる。

「どうせ森さんにけしかけられたんでしょ。あの人、余計な気を回すというか。まぁ、それで君に心配かけさせちゃ世話ないから流石に云うけどさ」

 そこまで云われて思い出す。感情の機微に鋭いのは森だけではない、非常に頭の回転が早く、何手先さえも見通せてしまう太宰もまた、人の気配に聡いのだ。
 太宰は云うと云っていた。だが自身の感情を持て余しているのか、二度三度視線を泳がせて、菖蒲を見たかと思えば視線を落としていたりして。太宰らしくない行動に疑問符が浮かぶも、辛抱強く待ち続ける。―――自分の中の何かと決着がついたのか、僅かに弱った様子の表情で口を開いた。

「いつ中也と仲良くなったの」
「……え? 中也くん?」

 一体どんな言葉が飛び出すのか、身構えていた。
 しかし上手く結び付けられず鸚鵡返しのように言葉を発すると、より一層拗ねた顔になった太宰が何か吹っ切れたのかカップを避け掌を机に置いて、身を乗り出した。「中也くんって何さ」強い目で問われる。

「仲良く……? あ、もしかして敬語が取れてることですか? でしたら中也くんを迎えに行った日に、敬語は要らないって云われたので」

 あの日の中也との会話を思い出し、答えを返す。中也はすぐ紅葉の直轄部下となり、そう頻繁に話はできていなかったが、太宰の様子から察するに太宰もまた中也と再会したらしい。しかも、良好とは云えない感情として。出会いが出会い、第一印象が互いに最悪だったからこその今に至る関係は、菖蒲も知っていた。
 隠し立てしてしまうと余計に拗れると思い、凡てを話しても太宰の顔色は晴れない。どころか苦虫を百倍苦くしたものを噛み潰した表情を顔一面に浮かべ、態とらしいため息を吐いた。そして。

「気に食わない!」

 大声で叫んだ。
 ぱちぱち。予想外の勢いに背を反らせば、それすらも詰める太宰は尚も続けた。

「蛞蝓のくせにいい気になりすぎじゃない? なにさなにさ、菖蒲なんて呼んでくれちゃってさ!」
「え、あ、あの」
「勝ち誇ったあの笑み思い出しただけでも腹が立つ! 挙句の果てには『手前はまだ他人行儀のように接せられてるんだな、だっせえ』とかほんっとあのちび僕の神経逆撫でするの得意だよね。態とかな、態とだよねあれ」

 まさに、怒涛。言葉を挟む余地さえ呉れずに溜まりに溜まっていたのか太宰の鬱憤が吐き出されていく。
 混乱する頭で辛うじて理解したのは、菖蒲の感じたそれは間違っていなかったということと、死にたい死にたいと駄々を捏ねるのと同様な言い分だということ。そうして、先の中也が呟いた「ざまあみやがれ」というのは今の状況を指していたのだと。困惑する菖蒲を置いて、太宰は「運命共同体なのに」やら「そうだバイクに爆弾をしかけてやろう」やらまだまだ云い足りないのか増々力が入っている。休憩の時間が伸びるなあ、なんてぼんやり眺めていれば、だん、と机に置かれた手から音が響いた。「だから」ほんのり上気させた頬で太宰は云う。

「唯一の呼び方で君を呼べばいいんじゃないかな!」

 考えもしなかった結論に反応が遅れてしまった。
 息を整える太宰を見、自然とぐるりと室内の装飾を見渡し、ようやっと。

「つまり……あだ名、を?」
「そう!」

 太宰は嬉しそうに笑う。新たな自殺法を見出した時と同じ表情だ。

「菖蒲と呼ぶのも悪くないんだけど、蛞蝓と被るので却下。だとしたらあだ名が最善かなって。僕もそろそろさん付けで呼ぶのも他人行儀だと思ってたんだよ」
「わたしは別に構いませんよ。お好きなように」

 迷いなく許可を出すとやや満足そうに鼻を鳴らした太宰は、椅子に座り直し呼び名を考え始めていく。
 云々と思考に耽る太宰を見遣り乍ら、過る森の言葉にあながち間違いじゃなかったとひとつ息をついた。―――「中也君に子供染みた八つ当たりをするのも随分珍しいことだけれど、社会を達観し、諦観を抱いていたあの太宰君が君のことに関してだとあんな風に不貞腐れることがある。……ふふ、あの太宰君がだよ」森は何かを期待する眼差しで菖蒲を見据えていた。期待されても、内容が判らなければ行動を起こせないのだが。
 太宰が距離を縮めるべく、砕けるというのなら。菖蒲も、歩み寄ってもいいのかもしれない。たぶん、屹度これから長い間一緒にいるのだ。菖蒲も太宰も、お互いが気安く話せるような友人になれた方が、素敵だ。
 どう切り出すか頭を回転させていれば、前から指を鳴らす音が聴こえ、顔を上げる。其処にはしたり顔を浮かべる少年がひとり。
 おもちゃを買い与えられたような、大好物の食べ物を前にしたような、太宰がまだ子供らしさを残していると突きつけられる軽やかな声音で、少年は囁くように云う。

「あや」

 名前を一部略した、ただそれだけの言葉なのに。
 何故だか、菖蒲にとって必要不可欠なものに思えてしまい、どういう顔をすればいいのか判らなくなってしまい、俯いた。それに気づいているのか、いないのか。気づいてい乍らも意に介していないのか太宰は止めない。「あや、……あや」転がす音が心地いいのか、何度も繰り返される。

「うん、綺麗な音だ。決めた」
「そ、うですか……。あや、初めて呼ばれます」
「本当? だったら善かった。今日から君のことはあやって呼ぶね。誰にも呼ばせちゃだめだよ、僕以外にはね。約束できる?」

 伸ばされた小指に、躊躇いなど持たず絡ませる。

「わたしも、一個だけいいですか?」
「なんだい」
「完璧に外すのは難しいかもしれませんが、今よりも少しだけ、砕けた話し方をしてもいい……かな?」

 菖蒲なりの歩み寄りの形。拒絶されたらされたで特に感情を抱かないが、どうしてか太宰は受け入れてくれると最初から信じている。
 現に、想像していたのか驚くことなく太宰は目を細めて、綺麗な笑顔で頷いた。「勿論」絡んでいた小指が解け、次いで手を握られる。握手の形だ。

「これからよろしくね、あや。そして、いつか、屹度僕と心中してくれよ」
「ありがとう、太宰さん。よろしくお願いします。……心中は、いつか、ね」

 握った掌の温もりは、生きている人の証。翡翠の双眸に映る太宰は、どこまでも年相応に見えて仕方がなかった。
 関係が一歩進み、森の心労も少しは和らぎ、友人と約束を交わせた。なんだか、嬉しくて菖蒲は太宰に満面の笑みを向けるのだった。太宰も、ふ、と緩んだ微笑みを浮かべてくれた。
 マフィアの仕事が増えていけば、それなりに負担は両者にかかるだろう。だけど、太宰と一緒なら大丈夫な気がする、夏が終わる、そんな日のことだった。



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