「太宰さん、何か嬉しそうですね」
「判るかい? もう少し経てばようやっと僕の犬ができるからね! そりゃあもう嬉しくて仕方がないさ、ああ……あのおチビちゃんの顔がどんな風に歪むのか、今から楽しみで楽しみで仕方がないね」
「……中原さんは≪羊≫に戻られたと聞きましたが」
「マフィアに敵対する組織なんだし、…見てみなよ、この被害地図。赤い丸がずらぁり」
「≪羊≫の活動記録ですか? 其れにしては、以前より粗末な行動に見えますが」
「目敏い子だ。依存傾向にあったこどもは、利益を約束するおとな達と手を組んだのさ。―――ただ一人を見放して、ね」

 ポートマフィアの本拠地。磨き抜かれた廊下を菖蒲と太宰は並んで歩いている。前方から来る構成員達は訝しむような表情を浮かべ乍ら、ハッと何かに気づくなり関わらないために端に寄り、二人の童が通り過ぎるのを待っていた。それなりに属する年数が長い構成員でさえ、菖蒲達は殊更首領である森鴎外から可愛がられており、意図的でも不可抗力でも関われば自分に利がないことを理解しているためだ。
 菖蒲は、少しばかりその雰囲気が苦手だった。地下組織で心の柔らかい処に踏み込む物好きな人は居ないのは判っていたが、抑も、畏怖の眼差しを向けられるべきは二人ではない。太宰の方だと、菖蒲は思っている。菖蒲が逆立ちしても追いつかない非凡な頭脳を持ち、言葉巧みに人の心理を操り作戦を成功させる太宰だけに向けられるのならば、まだ理解できる。だが、菖蒲はどうだ。マフィア内部でも有名な暗殺一家の娘とは云っても天賦の才なんてものはなく、森に拾われ、幾ばくか太宰と近い距離にいるだけの小娘なのに。
 後ろ向きの思考を振り払うべく、ゆるく頭を振る。太宰が目を合わせた。「どうしたんだい?」菖蒲は力なく笑った。「なんでもありません」
 やりとりの後、点と点が線で結ばれた錯覚を覚え、菖蒲は目を伏せ云う。

「ああ、だから今日あの場所に行くんですね」

 ―――『荒覇吐事件』と名付けられた一連の破壊騒動から、早くも一か月が過ぎようとしていた。イヤホンから流れる声に一挙一動していると、届いた三度の音に厭に心臓が跳ねたのを覚えている。蘭堂の真意、先代との因果、そして、太宰の感情の起伏と≪荒覇吐≫の正体を知り得た瞬間、無意識に口元を手で覆った。その場に居なかった菖蒲が手に汗握っていて、亜空間で戦っていたふたりの少年の心情は計り知れない。後始末は報告を受けた森の指示で動いた構成員が行い、太宰はただ凪いだ視線の儘こう云った。「マフィアに這入る」
 お菓子を食べると同じように云い放った太宰に森は一瞬瞠目し、それから笑った。
 加入意思を聞いた森はそれはもう喜び、嬉々として太宰に部隊の指揮権と初仕事を告げた。此処で正式にマフィアに加入した太宰に続いて、菖蒲もまた庇護下から抜け出し、参入を決めたのだ。菖蒲も同じく指揮権が与えられかけるも、丁寧に辞退した。組織の序列に我儘をぶつける気は毛頭なかったものの、菖蒲はひとつ望みを森に託した。果たしてその望みは叶えられ、首領直轄の部下という立ち位置は等しく、太宰の補佐役の肩書きを細く華奢な肩に乗せた。ほんの僅かな自分勝手の願いを隠し乍ら。

「太宰さん、未剣さん。準備整いました」

 既に本部前に集合し、整列していた黒服の男が無機質な声をかける。
 太宰が振り返る。

「よし、じゃあ未剣さん。例のあれ、持ってる?」
「はい。ばっちりです。すみません、この中で注射器の扱いに慣れてる方いますか」

 おずおずと尋ねれば、屈強な男がこれまた恐恐と手を挙げ、菖蒲の前へ歩いてくる。森の指南を受けているが自分で納得できない中打つのは気が引けたため、有難い限りだ。男に実地投入は避け隣にいる指示を出し、今度こそ菖蒲と太宰は黒塗りの車の後部座席に乗り込んだ。
 目指す先は、鄙びた共同墓地。野ざらしにされた蘭堂の遺体が埋葬された、海の見える丘だった。目的地が近づくにつれ、太宰の希望で微かに開けられた車窓の隙間から濃い潮風が鼻を擽り、少しだけ身を乗り出して海を眺めてみる。寄せては引き、繰り返す動作でさざ波が浜辺にあった。ひと際近くにある墓地付近から見える海は景色を遮るものが一切なく、果てまで続いてそうに思える広大な海面が菖蒲は昔から好きだった。家庭の事情でそう多くは訪れた記憶がない海だったが、小さな頃に読んだ本に書かれていた通りの海という存在は何故だか不思議と心が落ち着く気がしたからだ。ぼうっと視界に入れていれば、途中、手に巻かれた包帯で遊んでいた太宰に好きなのかと問われた。そうだと云えば、太宰は興味を示したのか菖蒲と同じ窓から海を眺め出した。
 横に視線を遣れば、綺麗な鳶色があった。無作為なさざ波は、お気に召すか否か。次いで窓に置かれた手を見る。骨ばった指が伸びていて、ふと気づく。いくら痩せぎすであどけなさを残した面持ちでも、太宰は立派な男なのだと。一年間弱共に居るというのにこんなことにも気づかなかった己を恥じ乍ら、ただ海を眺めた。…これから血の雨を降らせる仕事に向かうとは思えないほど、静かな時間だった。
 不意に、車が停まる。指定の場所に着いたのだ。降りた太宰の後を追えば、静けさを保っていた空間を切り裂く程の破砕音が遠くない方角から響く。太宰は云う。「崖下だ」
 背後に黒服達を連れ立ち、舗装されていない道を降り下ると暗緑色のライダースーツが見えた。―――中也だ。

「やァ、中也。大変そうだね、手を貸そうか?」

 さして大変とも思っていなさそうな声音が隣から飛び出した。中也の透明な青の瞳が見開かれ、呆然と太宰を見る。

「太宰…それに……なんで、ここに……」
「仕事だよ。僕達がマフィアに這入るって云ったら、森さんは飛び上がって喜んでねえ。早速いいものあげようって云って、部隊の指揮権と、ついでに初仕事を押し付けられたんだ」
「あ、わたしは……補佐です。指揮権は持ってません」

 中也の視線が無数の人影に向く。そこで、中也の顔色が蒼くなっているのを認めて菖蒲は鞄の取っ手を強く握る。
 太宰は云っていた。解毒を必要とする場面が来ると。荒波に揉まれ、削れた岩の上に飛び乗った太宰はここまで見えていたのだろう。

「マフィアに敵対する≪羊≫と≪GSS≫が同盟を組んだらしくてね。完全な連携を取られる前に叩かなくちゃならないんだってさ。そういう仕事。ま、大して難しくないよ。昼食までには片付く」

 荒い息を吐いて、凝然と太宰を睨む中也は厳しい顔で逸らさない。
 森の部隊を率いて墓地に向かい、敵勢力を削ぐ。それが今回の仕事。正確には違う部分が主題ではあるが。菖蒲は黙し、目の前の出来事を焼き付ける。狙いは何だ。そう問う中也に太宰は何の感情も塗られていない声色で告げる。「恩? 助ける?」

「そんな訳ないでしょ。君なんか大っ嫌いだし。僕達はただ敵を皆殺しにするために来ただけ」
「皆殺し……?」

 凍り付いた表情で、喘ぐように云う。「≪羊≫の奴等も、か?」
 太宰が笑みを浮かべる。含み笑いの後、暗い目で口を開いた。

「そうだ。皆殺しが作戦の方針だ。危険な敵組織だからね。とはいえまあ、もし同僚の誰かが……敵の内情を詳しく知る誰かが、殺さずに相手を弱らせる方法を教えてくれる、っていうなら、作戦方針を修正してもいい」
「同僚の、助言、だと?」
「そう。ポートマフィアの同僚。ああ、今なら君の体内に入った毒を消す注射もついてくる」

 太宰の視線を感じ、菖蒲は鞄を開き液体の溜まった注射器を掲げて見せる。慥かにこれは太宰の指示で探し出した、毒を中和する解毒剤だ。幾度か太宰と菖蒲の顔を見、一度俯いた中也が顔を上げた時、空気が一変した。
 此方の――――太宰の思惑を正しく理解したのだろう。苦虫を噛み潰し、心底厭そうな表情を貼り付けて、承諾の意を示した。「≪羊≫の構成員は……子供は、殺すな」
 それに太宰は是とし、満足げに外套を翻す。
 入れ替わるようにして菖蒲が足場の悪い道を渡り、中也の傍らに膝をついた。投げかける言葉なんて見つからず、無言で注射器を男に渡し打たせる。役目を終えた男に太宰を追うよう頼み、酷く汗を流す中也の額にタオルを押し当てて、手際よく傷口に消毒を塗りたくっていく。

「痛かったら云ってくださいね」
「……手前、あの太宰の部下なのか?」

 悪魔的取引にも似た口論であっても、解毒剤は真であることを見抜いているのか中也は大人しく背を晒し、気まずい空気を打ち破る。問われた菖蒲はぴくり、と手の動きを止めるも直ぐに持ち直す。「部下……というより、わたしは、友人だと思ってます」

「自己紹介が遅れました。わたしは未剣菖蒲と云います」
「未剣……嗚呼あの暗殺一家の血縁者だったのか。年は、俺と同じ……ぐらい?」
「十五です。それが何か?」

 消毒を完了し、車外に待機している構成員の下へ連れて行こうと肩を貸せば、息をついて手を回してくれる。少年と見えても掛かる重さは優しいものではない。菖蒲は踏ん張って開いた場所を目指す。腹に力を込め、岸に辿り着くと支えている体がぐったりとしていることに気づき、慌てて名前を呼ぶ。「中原さん? 大丈夫ですか、少し、止まりますか」
 中也は何度か大きな息を繰り返し、首を横に振った。毒が回りすぎている可能性がある。中和の薬を打っても、相殺するには時間がかかる。何とか車内で休んでもらおうと再び歩き出した時、声が聴こえた。

「…………中也で、いい」
「え?」
「俺と変わらない、だろ……敬語も、要らねえ」
「ですが」

 ぐっと肩にかかる重さが増え、顔を近づけさせられる。

「手前等の組織に入るんなら、云いたかねえが、味方みたいなもんだろ。敬語は要らねえ、よ」

 見えた青の眼差しは怖いぐらいに透明で、しかし、その眼差しの中に様々な感情が伺えて菖蒲は悩み乍らも、頷いた。中也の根っこは優しい。中也なりに≪羊≫を大事にして、渇きを覚えても味方で有り続け、≪羊の王≫として立ち続けていた。直接手は回していないが、間接的に中也と≪羊≫を分断させたのは他でもない太宰だ。それを知ってい乍らも止めなかった菖蒲も菖蒲で同罪だった。
 まともに話したのは今が初めてだが、中也は太宰と別枠で鋭く、時に冷静で理性的だ。複雑な胸中を抱えた儘、菖蒲にその言葉を云うのは勇気がいる。けれど、青は清々しくまっすぐだった。

「……じゃあ、判った。中也くん、って呼んでもいいかな。わたしのことは好きに呼んでね」
「おう。……手間かけさせて、悪いな。菖蒲」

 掠れた呟きに、菖蒲は何も云わずに首を振る。
 吹きつける潮風の匂いが強まり、地上の方から響き渡る銃撃の音や怒声には敢えて触れないで、ようやく車に辿り着き、中也を椅子に座らせた。米神を伝う汗は止まらない。手首の時計を見る。十一時四十五分を指している。
 汗を拭いて、水を手渡す。ゆっくりと飲み干した中也が交戦地に視線を遣って、口を開いては閉じ、何かに耐えるようにただただ凝然と見つめ続けた。―――やがて、音が止む。傷一つない、五体満足な様子で引き返してくる太宰の姿に何を思ったのか、中也は笑いを溢す。「はは」

「ざまあ、みやがれ……糞太宰……」

 独り言めいた暴言を吐いて限界だったのだろう、中也が眠るように意識を失う。菖蒲は中也の手を揃え、出迎えるべく車から離れる。溢した暴言の意味は判らなかったが、恐らく菖蒲は知らなくていいものだ。
 太宰は相変わらず暗い目をしつつ、笑みを浮かべる。どこか安堵の混じるもののように、菖蒲は微かに感じた。

「ただいま、未剣さん」

 菖蒲は自然と返し、来た道を引き返す車に乗り込んだ。再び窓から海を見る。太宰も今度は初めから隣にいた。
 陽射しが容赦なく照らし、うねるさざ波はずっと同じ姿をしている。落とし物をしてしまえば、見つかることはまずないと思っていい程、海は底が知れない。いつだったか、聴こえた海に落ちた音は、案外すぐ側で起きたものかもしれないと思う。
 マフィアに入ることは最初から決まっていた。時期を太宰と合わせたのは、菖蒲の願いだった。
 行きと同じく横を見る。矢張り、綺麗な鳶色だ。
 蘭堂との戦いの中、太宰は云った。死は日常の延長線上であり一部。『死ぬ』は『生きる』の反対側ではなく、『生きる』に組み込まれた機能のひとつに過ぎないのだと。すとん、と胸に落ちた。太宰は『生きる』価値を見いだせず、自死を繰り返していた。だが、彼も云うならば足掻くように意味を探している。
 なら、菖蒲もついていき、側に居れば菖蒲自身が求める意味も見つかるのではないか。見つからなくとも、何か、あるのではないか。そう思った。息をし、食事し、恋を―――これは判らないが、死に向かう過程を見つめた先に何かがあるのかもしれない。菖蒲は賭けてみようとしたのだ。

「鮮やかな海だ」

 ぼんやりとしていた。
 気づけば、視線が合わさっていた。色のある表情だ。

「……ええ、とても。鮮やかな」
「青は碧とも書く。いつか、君の綺麗な瞳の色みたいな海を見てみたいね」

 双眸の奥を覗き込まれ、太宰の瞳に見慣れた自分の影が映る。云われた「綺麗」の言葉を上手く噛み砕けず、曖昧に微笑む。
 いつか。
 何もしがらみを持たない状態で、いつか。

「……はい」

 不思議と、厭な気はしなかった。……いつの間にか、指が重なっている。

「太宰さんと、見たいです」

 何時か触れた時より、温もりのある指先を握る。解かれることなく、握り返された。安心感に身を委ね乍ら、海に視線を戻した。
 カモメの鳴き声が宙に浮かんで、消え去っていった。



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