―――せいぜい仲良くしてくれ給えよ。私の見立て通りなら、君たちは善い関係になれる。

 丑三つ時。草木すら眠り静まり返る簡素な部屋の中、其処に視界を鮮明にした少年が凝然と天井を見上げている。ほんの僅か前に告げられた真意の読めない言葉を思い出し、太宰は寝転んでいた寝具から縁に腰掛けてだらしなく細長い両脚を投げ出した。そこに上向きの感情はなく、在るのは。「あ〜……死にたい」これだけである。日中、せっせと食べ物を巣穴に持ち帰る働き蟻の行列を見かけて、浮かぶのは毎度同じ疑問。何故、生きたいのだろう。こんな退屈に満ちた、変哲もない日常を過ごすことが本当に楽しいのだろうか。太宰には理解できない感情だった。
 いつから、なんて愚問にも程がある。
 生きているからこそ、死にたい、、、、、、、、、 、、、、
 ただ其れだけである。酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出し、社会規則に法り世界の奴隷宜しく生きていく日々が太宰にとっては考えられないほど退屈だった。だから逃げ出したくなるのは当然の摂理であり、道理だ。今日こんにちに至るまで多種多様な自殺法を試してきたというのに、未だこうして息をし続けているのは予定外の現実で命に関する異能力を掛けられたのではないか、と疑ってしまう程度には辟易していた。しかし乍ら、残念極まりないことに太宰に「生きる」どころか「死」や「傷を与える」などと云った異能力は効かない。皮肉なことに、本土全般の治安と較べると些か下から数えた方が早い治安の悪さを誇る横浜で、尚且つ色々な異能力を持った危険な野蛮人もごまんと居るだろうに、彼には効かない。何故か。其れは太宰には発現が当たり前の中、その逆をいく力を持ってしまっているからである。詰まり、――自殺や殺人にうってつけな異能力でさえ太宰を死に誘うことはできないのだ。

「はぁーあ……」

 改めて考えたらなんて不便な異能力なんだ、神とやらは信じていないがこれは横暴ではないか!
 幾百回目の自殺未遂で運び込まれた医院で表の世界とかけ離れた地に足をつける森と知り合ったのは死ねる確率が上がるかもしれないと微かに期待したのに、知り合って半年経っても太宰はまだ呼吸をしている。一度、駄々を捏ねて楽に死ねる薬が欲しいと喚いてみようか。森が困る様子を見るのは割と楽しいのだ。
 とまあ、一部の人間が聞けば卒倒しそうな思考は置いて、閑話休題。
 どう自殺するかが大多数を占める太宰の脳内に、昼過ぎの出来事が過る。首吊りを付近の公園の樹木で試していると、一般人に悲鳴を上げられ救出され、気がつけば面倒な事態になる前に拗ねた面持ちで診療所に足を運んだのだったか。闇医者とはいえ、飲みすぎれば毒となる薬を持っているのだから、一寸ばかし拝借したって怒られはしないだろうという軽い心持ちで。微塵も興味が湧かない書類を睨みつけ、青褪め、時には無表情で捌いていく森をどう揶揄おうかと考え乍ら。
 其処で―――翡翠と、目が合った。「……未剣家、ね」太宰はため息を吐いて、ぽつりと呟く。
 元の色が判らなくなるくらいに血がこびりついた白の衣服を着て、暴走する異能力を見下ろす彼女は尋ねずとも判った。殺戮の暗殺一家、未剣家の血縁者だろうと。肉体の一部を武器に変え、懐に這入った時点で命を奪う異能力を持っているから、それから。
 ……考えるのを止めた。ほんの一寸、一寸だけ一点の曇りもない剣で喉を貫かれ、心臓を抉りとられ、頸動脈を切ってくれたのなら。そう考えるだけ無駄というもの。太宰に、異能力は効かないのだ。聞き耳を立てずとも聞こえてくる未剣家の噂が正しいのなら、翡翠と太宰は最も縁遠い存在である。普通の世界では生きていけず、殺戮を生きる為に行っている一家とは、根本から考え方が違う。
 皺のないシーツに背から倒れる。安っぽい寝具の発条スプリングが軋む音を立て、自重で沈んでいく。
 凡そ人を殺してきたとは思えない翡翠の双眸は不安定な歪さを兼ね備え、何を思ったのか森は太宰と組ませようとしてきた。相手はどうであれ、太宰にその思惑は手に取るように判るから未剣家の息女が浴室に消えたのを見届けて、森に佳い顔をしなかったのだ。有り体に云うのなら、余計な気を回したのだ。森は。
 世界が色褪せ、久しく。今更太宰を繋ぎとめられるような何かが現世にあるとは到底思えない。ただ。

『……泣けるか、試したかった』

 ただ、見覚えのある感情を瞳に宿らせる翡翠の、小さな塵が溜まったものではなく澄み切った翡翠は見たい、と思っただけだ。らしくのない言葉を吐き出して、無色透明の雫が溢れた幼い少女から視線を外したあの時、慥かに太宰は。
 ………………、………太宰は、なんだったのだろうか。
 一向に出てこない連鎖の答えに手を伸ばすのをやめ、太宰は背広を仕舞うことなく右腕で視界を遮るように目元に置いた。訪れるのは静けさと、暗闇。

「しにたい、なあ」

 寝る役割しか持たない部屋に零れた独り言めいたそれは、誰かに届くわけもなく霧散して消えていった。
 けれど、その声音は齢十五の、年相応に幼い声だった。



***



 菖蒲は只管に思考していた。医務室には菖蒲と警護の人間しかおらず、森は首領の仕事があると云って早々に退出している。 
 ≪羊≫の情報は、呆気なく閲覧が出来た。閲覧と雖も太宰が以前まとめていた資料を森から支給してもらった携帯に転送し、事実と照らし合わせてその実情を知るだけではあるが。別紙に記された箇条書きに二重線を引きつつ、片耳に差したイヤホンの奥から時折聴こえる電子機器を叩く音やら怒声にも似た声やらに冷や汗が垂れるも、事態が事態なだけに文句一つ溢さずに菖蒲は手を動かし続ける。
 それと同時に、菖蒲は昨日に聞いた或る人の言葉を反芻させていた。
 擂鉢街は八年前、巨大な爆発事故によって出来た街だ。先住民や土地権利諸共を吹き飛ばした爆発はその土地を抉り、擂り鉢状に窪んでいる。実際に聞き込みの為に踏み込んだため、嘘偽りのないものであると理解している。噂の齟齬も無ければ、話した内容は正しい。
 昔、母親が何時どのような発言が埃を立てるか判らないと云っていた。あの時は忠告とは気付けなかったが、頷ける事例が真逆こんな身近に起きるとは思わず、心の中で母親に感謝した。つまり証言人、蘭堂が話した内容には明らかな矛盾があるのだ。それも、大きな矛盾が。「わっ!」突然、携帯の着信音が鳴り響く。画面を見ると非通知とあるが、大して気にせず応答し耳に当てる。

「……太宰さん、蘭堂さんの件ですが」
『待った。今君ワンコールで出たよね、発信元見た?』
「は、……?」
『仮にも薄暗い所属で動いてるんだから、確認しないと噛みつかれるのは未剣さんだよ』

 大方用件は思考しているもので間違いないと踏み出てみたものの、予想の斜めをいく不思議な警告に間抜けな声が跳び出した。
 この電話番号を知っているのは森と構成員と太宰であることは既に確認済みで、今この瞬間に掛けてくるのは太宰しか居ないと判断した上での応答だったのだが、如何やら太宰はご不満のようだ。

『……未剣さんのそれは後々どうにかするとして。最初云いかけたこと、もう一度いいかな』
「あっ、はい。―――太宰さん、一緒に行った擂鉢街の形状、覚えてますか」
『勿論』
「可笑しいんですよ。
蘭堂さんは如何にも見えているように仰っていましたが、見える筈がないんです、、、、、、、、、、

 聴いている限りでは己が失言したとは感じていない蘭堂の話は、現場に居ない菖蒲ですら引き込まれるような躍動感があり、恐らく、森の頼みで擂鉢街に赴いていなければ菖蒲は屹度見逃してしまっていたであろう違和感の正体。中原中也が追う≪荒覇吐≫について、蘇った先代首領、偶々目撃した蘭堂の証言がばらばらだった我楽多の破片が音もせず接合していくような、そんな感覚に菖蒲は無意識に息を吐いた。
 鼓動が変に脈打つ。涼しいのに手汗が滲む。一つ一つの発言が重く感じる。しかし時間を掛けられないと乾いた唾を飲み込み、口を開く。「海なんて、、、、」菖蒲は云った。『うふふ』太宰は笑う。至極愉快そうに。

『ああ、矢っ張り君にも聴いてもらってて正解だった。未剣さんは本当に賢い。それは生まれついた時からなのかな。それとも』
「あの。太宰さん、これからどうするんです?」
『――――……。嗚呼うん、そうだね。なるべく、邪魔の這入らない場所がいい』

 台詞を遮った菖蒲を気にすることなく、太宰は話す。邪魔と云うのが横浜租界をうろつく破落戸や一般人を指していないことは菖蒲は直ぐに理解する。

「造船所なら」
『それだ』

 こうなれば善は急げだと云わんばかりに太宰は嬉々として指示を飛ばす。
 聴こえた通り、中也と勝負事をしているため易々と居所が知れるような場所ではなく、踏み入るにも勇気の居る場所に蘭堂を誘い、賭けの条件である推理をし相手を追い詰める。その際に起こるであろう戦闘は回避は無理だと断じたのなら、自らに仕掛けた盗聴器へ直接三度指で叩く―――その時点で、菖蒲は拠点地で太宰の帰りを待つ。
 此処まで聴いて、一つ菖蒲は云う。やれることは少ないが造船所に向かわなくていいのかと。返事は佳いものではなかった。

『別に戦力にならないとかそういうのじゃないよ。ただ、他にやってもらいたいことがあってね』
「なんでしょう?」

 そうして、発せられた内容に小首を傾げ乍らも了承した菖蒲は通話を切り、室内に飾られる振り子時計を見遣る。短針は四時を指していた。
 途中の儘だった≪羊≫の情報を片付け、立ち上がる。向かう処は同室にある乱雑とした薬棚である。医学の知識はこれっぽっちもないが自殺嗜癖のある太宰の近くにあれだけ居たのだ、毒を呷って自殺しかける太宰を助ける為に解毒剤の種類や成分を独学で学んだのが役に立つとは。
 裏社会に反抗する組織だとしてもどす黒い薬を入手できる程奪取に長けた軍団ではない、と仮定して。目当ての物を探し、脚立も消費ってようやく見つける。人に投与する量があるかどうかを確認し、無機質なそれに入れていく。致死性の麻痺毒は解毒できないが、予想した通りならばこれで無毒化は可能な筈だ。
 蘭堂と太宰、それから中也にこれから起きることは想像つかない。だが、太宰のことだ。無意味な指示は、飛ばさないという信頼がある。菖蒲は少しでも自分の感情を見抜き、発露させてくれた太宰に恩返しがしたかった。だから、何も疑わずに準備をするだけだ。
 ……人体に這入りこんだ薬剤を無効にする、解毒剤を。

『―――毒をね、解毒できる薬を頼むよ。其れを持って待機していてほしい。屹度、直ぐに必要になる事態が来るからさ』



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