起きているのか、眠っているのか、判断がつけにくい空間に彷徨っていた。眼下には冴え渡る程の青が広がっていた。深層に近い場所なのか思考が停滞し正常な考えが構築する前に消えていく。
 青は揺らめかない。
 凪いで静かに佇むその色は慥かな色を持つ黒と同意義だ。
 どこまでも透明で、想像していた眼差しよりも遥かに純粋なそれは組織に属する者には似つかわしくない。
 ―――揺れるのは、見下ろす影。何処からか波紋が広がる音が聴こえても、反響すらしない空間で菖蒲はただ揺らいでいた。すると映っていた頭部の水面が赤く染まり出し、辺りを食らい尽くそうと侵食していく。手を頭に遣る。「嗚呼」自然と声が漏れる。

「……太宰さんが無事なら、いいや」

 どろりと掌にこびり付いた赤に視線を落として、覚束ない声音で呟いた。そう考えると何だか体が楽になり、仰向けに、つまり背中から倒れる。立っている足場も不思議な造りだったが如何やら一応人間が倒れても大丈夫なようで、水中に漂ってる感覚が菖蒲を襲う。でも、痛くはなかった。否、実際は切り裂かれた米神の痛覚は正しく機能しているだろうし、処置を施す人間だって居るだろう。
 ただ、うん。初めて誰かが戦う様を見て、情けない乍らも己と較べてしまった自己嫌悪に陥っているというか。ぐらぐらと確立できない思考の渦に顔を顰めて、菖蒲は息を吐いて。「耳鳴り……凄いなぁ」そう云った。
 力を抜いていると襲い掛かる耳鳴りは、痛いよりかは違和感を強くさせるもので、あまり気にしていなかったものの段々と無視できない程になり、ぼやいた。それはまるで、起きろと云わんばかりの何かで。菖蒲は渋々といった様子で寝返りを打つ。
 水面が揺れる。

「起きますよって」

 方角を変えても、青かった。
 現実とはかけ離れたこの場所で意識を手放すのも変なような気もするが、適切な表現が見当たらず、菖蒲は急激に遠のいていく意識を抗うことなく、どこかへ飛ばした。



***



「何処行くんだって聞いてるんだよ」
「うるさいなあ、未剣さんが起きるでしょ。声の大きさも調節できないの?」
「ああ? んなわけねえだろタコ! 手前が目的地を教えりゃ済む話だろうが!」
「やだね、そんな態度で教えると思ってるわけ?」
「上等だ表出ろや」

 青々しい声が近くから聴こえた。理性的だと思いきや片や煽り、片やそれに莫迦真面目に乗っかろうとしている。
 思考が、脳内に戻る。重たく感じる目蓋をこじ開ければ、飛び込んできたのは見慣れない部屋の天井で微かに訝しむ。しかしまたもや響いた二つの声に冷静さを取り戻し、上体を起こした。簡素な調度品に取り付けられた窓、鼻を刺激する消毒液の匂い、無表情乍らも決して目を合わせようとしない黒服の男が控える此処は―――医務室。
 横を見た。賑やかに言い争いを続ける音源に顔を向けると、その内のひとつの鳶色と目がかち合う。「気がついた?」食ってかかるもう一人を綺麗に無視し、云った。

「……おかげさまで」

 耳鳴りだと思っていた雑音ノイズが寝ている病人の側で騒いでいた太宰と中也だと知って、呆れたいのか苦笑したいのか、よく判らない儘浮かんだ言葉を紡げば太宰は笑った。
 云ってから皮肉に聴こえかねないと取り消そうと思ったが、大差ないと結論付けた。中也も菖蒲の目覚めを感じたのかぴたりと動作を停止させ、ぶすくれた面持ちで寝台ベッドを見ている。夢でも見た青の瞳だった。「此処、マフィア本部ですか」沈黙に耐えきれず問う。「そうだよ」

「擂鉢街付近で待機してた森さんの兵が僕達を回収して、適切な処置を施してくれたのさ。判ってると思うけど、この中だと君が一番重傷」
「……まあ、そう、ですよね」

 太宰も太宰で右腕の石膏帯が重傷に見えるが。流石に云えず黙りこくった。矢張り隣の視線が痛い。「それで」二人揃っていることが何かしらの始動かと感じ、本題を切り出す。

「ええっと、お二人とも。お見舞いに来た……訳じゃないですよね。その、見た限りだと余り仲は宜しくなさそう、ですし」
「見舞いだったらこんなちびっこは連れて来やしないよ、………………見舞いだけど」
「見舞いなんですね……」

 少年のように照れ隠しをして顔を背ける太宰に失礼乍らも苦笑を溢し、たった一度のやり取りで随分と落ち着いた心持ちの儘依然として菖蒲を見ている中也を見返す。
 太宰の読めない目とも、森の静かな目とも似つかない青の双眸は、どうしてか透明で純粋のように思えてしまう。抗争をする組織の人間と顔を合わせるのが初だとしても、何故だか中也は他の者とは何かが違うと、本能が云っている。

「本当なら未剣さんについてきてもらえれば善かったんだけど、病み上がりはしっかり休んでて欲しいって森さんが。僕とちびっこ君は引き続き先代首領の噂と、荒覇吐を追う」

 聞き慣れない単語に太宰の方に向き直る。正しい漢字変換ができているとは思えず、質問を重ねようとした。「おい糞野郎、簡単に話しちまっていいのかよ」それを遮るように中也が口を挟んだ。
 太宰はちらりと中也を見るも、直ぐに外す。名前も呼ばないあたり、相当お互いの地雷原を渡り歩いているのだろうか。少々場違いなことを考えていれば、何やら太宰が懐から機械を取り出し菖蒲に手渡した。「これは?」菖蒲が尋ねる。「音楽再生機器さ」

「療養中は暇だろうしね……ちゃんと聴き乍ら休んでおくんだ」
「ありがとうございます。太宰さんも中原さんも、お気をつけて」

 一度だけ菖蒲の巻かれた包帯に手を添え、外套を翻して医務室を出ていく太宰は中也を連れて行かず、恐らく勝手に来るだろうと見込んでのことだ。背を見送り、再び中也を見遣れば、予想外にも面食らった顔をしている。太宰に向けられる眼差しの色とは違うのだが、菖蒲を見つめるも何かを云いかけて結局止めてしまった。
 目の敵にしているポートマフィアの拠点で、力添えをしている菖蒲に佳い感情を抱いていないのは承知の上だ。面と向かい合うまでの間、何か自分が失礼な言動をしたのだろうかと悩んでいると背を向けられる。この儘太宰を追いかけるらしい。

「……大事にしろよ」

 扉を潜る直前、聞こえてきた気遣いの言葉に、ぱちぱちと目を瞬かせる。
 菖蒲の様子を見ずとも判りきっているのか中也は無言で廊下に出ていき、その場には菖蒲と黒服の男のみが取り残された。
 広津の話と衝突した戦いを見ている時は力が強く、この分だと性格も一筋縄ではいかなそうだと思っていた。しかし、中也は今確実に菖蒲の容体を気遣う言葉を発した。太宰と中也が合同で連れ立つのを見るに、何かしらの取引があり、少なくとも悪い印象しか残っていないのにも関わらずだ。
 先ほどの言い争いを思い返す。死にたい、死にたいと喚く以外では達観した言動をする太宰が、齢十五に相応しい応酬をしていた。あの太宰が、である。
 菖蒲が太宰と知り合ったのは未だたったの一年とちょっとだが、日々を退屈そうに過ごす太宰の評価は変わらなかった。それまで同じ年頃の存在と会っていなかったからかもしれない。だとしても、太宰があのようにころころと表情を変え、浮かぶ限りの罵倒を勢いよく発しているのは見たことがなかった。
 そこまで思考して―――止める。森が菖蒲と太宰を引き合わせた時と同じように、中也と組ませたのも理由が有る筈だ。どう転ぶかは判らない。だけど、余計な真似はしないほうがいいだろう。渡された音楽再生機器を見下ろした。四角い形状のそれは、釦が幾つか埋め込まれており何処かが再生釦だ。「失礼するよ」声がした。

「やぁ、未剣君。加減は如何かな? 額を血だらけにして運び込まれた時は冷や冷やしたよ」
「森さん」

 森だった。傍らには真紅のフリルが鮮やかなドレスに身を包む幼女―――エリスが居る。

「まだ痛むかい?」
「いえ。……処置、ありがとうございました。助かりました」
「いやいや。此方こそ済まなかったね、年頃のお嬢さんの顔に傷を付けてしまうとは」

 真面目な医者の顔つきとなった森の手が米神に伸び、触診をし始める。くすぐったく感じ乍ら、問診を難なく済ませる。エリスはその横で詰まらなさそうに部屋を見渡していた。一体何の用事で来たのだろうか。

「先刻ここに太宰君達が来ただろう? なに、少しばかり助言でもしてみようと思って」
「助言、ですか?」
「そうだとも。今だって未剣君は太宰君に渡された音楽再生機器なるものを持て余している」

 抱えた箱とイヤホンを森がまじまじと見、穏やかに笑む。
 もう一度見下ろしてみる。釦やら音源を拡散させる処やらイヤホンの形を見ても、それ以上の情報は出てこない。ただ、これが普通の音楽再生機器でないことは勘づいていたが、元々機械に疎い菖蒲が知る由もなく、お手上げだという表情で森に視線を戻した。森の笑顔は剥がれず、まるで親が子を見るような眼差しで菖蒲を見つめ返している。
 悩んでも答えが出ず、正直に告げようとした、瞬間。「リンタロウもったいぶりすぎ」幼女の声が届いた。

「ああんごめんよエリスちゃん、一寸意地悪し過ぎちゃったかな」
「中年がいじわるしすぎちゃったかな、なーんてきもちわるい!」

 果たして強引に連れて来られただけだったのか、エリスは汚物を見るかのような目つきで森を睨んだ後、小走りで部屋を出て行ってしまった。閉じられた扉の音が齎した沈黙が辛い。
 しかも話題を転換するには無理の有りすぎる咳払いで会話を続けようとするのだから、平常の顔を保つのさえ厳しかった。流石に失礼すぎるから先程の出来事は急いで記憶領域から追い出した。

「あの子は自分で何とかできると思いつつ、後門にこうして優秀な誰かを残しておく。実に最適解だね。却説、其れは簡単にいうなれば盗聴器だ」

 盗聴器。一体誰の声を、と疑問に思う暇すらなく森が或る釦を押した。すると靴音に紛れて二つの声が這入る。

『うふふ、気が合うねえ。そんな君が大好きだよ!』
『うわ、やめろ! 気色悪くて死ぬ!』
『……うん、僕も気持ち悪くて死ぬかと思った』

 辺りが無言で包まれる。何かを云おうとして口を開いては、閉ざす。そんな動作を繰り返し、尚も聴こえてくる反りの合わない二人の云い合いに暫く経って、森は額を抑えた。この様子を見るに送り出す前にも注意は促したらしい。
 森の苦労を垣間見た気がした。「とにかく」我に返った森が云う。

「使用方法は手短に教えておくよ。できる限り、力になってね」
「はい」

 必要最低限の操作法を頭に叩き込み、イヤホンを両耳に差し込む。
 その数分後、破砕音と爆発音が鼓膜を突き破らんと届いた。重力使いの中也がいるのであれば簡単に崩れるような彼らではないが、僅かに心配する。
 ≪羊≫、≪荒覇吐≫、≪亡霊≫……常識に当て嵌まらない出来事が立て続けに起こり、菖蒲は気を引き締めるために大きく深呼吸をして、一語一句聴き洩らさぬよう意識を集中させた。

 何処かで、海の中に何かが沈む音が聴こえた。



prev next

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -