きみと砂上の楼閣で

Chapter1-2



「今日こそ当ててやるぞ。婚約者は……シルバー先輩とか、どうだ?」
「はいハズレ。っていうか当たっても言わないけど、なんでシルバー先輩?」
「この前、放置されてるって言ってたっしょ? だから、連絡しようとしては寝ちゃうであろうシルバー先輩とかどうよって話になってさ」
「失礼な話だね……」
 今日も一日中、エースとデュースの婚約者当てクイズは続いていた。もう学園中の大体の人の名前は聞いたし、当たったとしても言わないと宣言しているのにも関わらず、二人に諦める様子は見えない。
「待てよ、まさかの先生は?」
「となると……バルガス先生とかか?」
「仮に先生だとしても何でそこ?」
 大真面目な二人の回答を一笑に付す。二人は意地でも当ててやると意気込んでいたが、人間の性なのかやはり一度否定した人は候補に上がりづらいのだろう、あれから彼らの口から正答が述べられることは一度としてなかった。
「監督生。ちょっといいかい?」
 二人の追及にいい加減飽き飽きしていた時、教室の入口からリドル寮長が顔を覗かせた。先日の一件以来で緊張するも、今日は特に攻撃的な様子は見えない。
「何でしょうか?」
 もう帰ろうと思っていたのだけど、とスマホに視線を送ることで暗に訴える。面倒事は避けたい。
「学園長がお呼びだよ」
「……何でしょう。特に問題を起こした覚えはないんですけど」
「まさか、婚約者って学園長だったり?」
 所属寮のトップが教室に来たとなれば無視もできないのだろう、いつの間にか背後に迫っていたマブたちが茶化しに入る。
「お前たち、滅多なことをお言いでないよ。ボクも用件は聞いていないけれど、とにかく早く行くといい。待たせるのは失礼だ」
「そうですね。わざわざありがとうございました」
 頷いて鞄を抱えてから教室を出る。リドル寮長はそのままマブたちに何らかの用事を言いつけていた。またパーティーの準備についてだろうか。
 学園長室に向かいがてら、私は密かに息を吐いた。本当は、呼ばれた理由は想像がついている。このタイミングだ、噂についての追及に違いない。
 コンコン、と軽くノックをすると自動ドアのように扉が開く。魔法だろうか、便利なことだ。そのまま中に入ると学園長は椅子に掛けたままこちらに視線だけを向けた。
「お呼びでしょうか?」
 それにしても最近は呼び出しが多い。告白だったり寮長会議だったりと用件は様々だったが、こうして教師という立場の人と二人きりというのもこれはこれで居心地が悪い。普段適当な扱いを受けている学園長であっても、さすがに二人の時は雰囲気が違うように思える。
「呼ばれた理由はわかっていますね?」
「……大体は」
 私の言葉に学園長は再び黙り込んだ。仕方なく沈黙を引き取って、こちらから口火を切ることにする。
「学園中で噂になっている私の婚約の件ですよね?」
「その通りです。あれは事実ですか?」
「事実です。先に説明しておけばよかったですね。でもあの時約束した通り、私は大丈夫ですから安心してください」
 それ以上の言葉は必要なかった。私は入学当初の学園長の言葉、二人の間で取り交わした約束について忘れていないし、破ってもいない。傍から見たら謎の会話かもしれないが、私たちの間でだけは意味が通じ合っている。
「念のため、相手は誰なんです?」
「学園長まで野次馬ですか」
 別に反抗したいわけではないのだが、答えるつもりは最初からなかった。この学園長はうっかり屋さんだ。何かの拍子にポロッと口を滑らせてしまう可能性は決して低くはない。
「もしもの時にはご相談させていただきますから。今日はもういいですか?」
「くれぐれも頼みましたよ」
 わかりました、という最後の言葉には少しだけ苛立ちが混じってしまっていた。けれども普段から邪険に扱われることの多い学園長はきっと見逃してくれるだろう。
 学園長室を出て、すっかり人気のなくなった廊下を進む。みんなとっくに部活に行ったり寮に戻ったりしているのだろう。わざわざ教室に残る生徒も少ないし、私もそれに倣ってオンボロ寮へ帰ることにする。
 向かいから、婚約者が歩いてくるのが見えた。今日は部屋から授業じゃなかったみたい。それは感心なことで、と思いながらまっすぐ前を見て歩を進める。彼と一切の視線は交わさなかった。あちらからも視線は感じない。人目がないのにも関わらず、お互いに無関心を徹底している。
 なんだかいけない関係みたいだ。考えてみて思わず口許が緩む。それはまるで教師と生徒の禁断の恋のような。既婚者と独身者の倫理に反した間柄のような。どちらも経験がないけれど、秘密めいた関係を密やかに楽しんでいる自分がいることに気付く。

 私とイデア先輩は一応は婚約者同士だ。そんなわけでたまには一緒に過ごしてみてもいいのではないかと思う。この前、イデア先輩も仲良くするのも悪くない、というようなことを言ってくれたし、人目につかず、仮に目撃されても言い訳のきくような状況でならいいだろう。それってなかなか難しいことのような気がするけれど、きっと何かあるはずだ。
 けれども具体的な用事がなければどうにも誘いにくい。私は貴重な休日を、スマホの画面をつけたり消したりというあまりに無駄な時間で浪費していた。今日空いていますか、と訊いてみようか? いや、当日にいきなりは困るだろうから、やっぱり明日の予定を訊いてみた方がいいかもしれない。
 脳内で何度も自問自答を繰り返し、ついに私は、やっぱりやめようという結論に至った。うん、別に用事ができた時に誘えばいい話で、無理に会う必要なんてない。気晴らしに一人で散歩にでも出かけよう。
 そういえば、紅茶が切れかけていたはずだ。ティータイムは生活費の少ない私の唯一の贅沢。随分晴れているし、ショッピングモール付近の行きつけの紅茶専門店へと足を伸ばしてみよう。ついでに一人でお茶でもしよう。
 春の景色を楽しみながら目的地へと足を向ける。この世界にも元の世界のように四季があることでなんとなく心が安定した。季節ごとの行事もあるし、季節限定の商品などもよく目につく。ここが元の世界と何一つ共通点のない世界であったとしたらきっと私の心はとうに折れていた。かもしれない。
 件の紅茶専門店もご多分に漏れず季節限定商品を売っていた。併設したティールームはまだ午前中という時間帯だからなのか席がいくつか空いており、ゆったりした時間を過ごせそうだ。買い物を済ませたらのんびりしようか。
「おや? このようなところで珍しい」
 商品を物色中、聞き覚えのある声に振り返る。私を見下ろす高身長のその人は、紛れもなく学園の先輩だった。
「こんにちは、ジェイド先輩。いつもお世話になっています」
 慌てて頭を下げると、その人はニコリと笑顔を返してくれた。
「そう恐縮せずに。お買い物ですか?」
「はい。紅茶が好きでよく買ってるんです」
「それは奇遇ですね。僕もこちらのお店にはとてもお世話になっていますよ」
 ジェイド先輩がカップを傾けているところを想像する。長い足を組んだ昼下がりのティータイム。上品でものすごく絵になることだろう。本でも読んでいれば完璧だ。
「本日はどちらの商品をお買い求めでしょう?」
 あなたは店員ですかと言いたくなるようなあまりのご丁寧さに苦笑する。私は二つの商品を示した。
「春限定のさくら味と、今月限定の春風の味で悩んでいます」
「限定品がお好きですか?」
「やっぱり惹かれちゃいますね。両方買っても来月には新作が欲しくなるでしょうし」
「それでしたらティールームで飲み比べをしてみては? 限定フレーバーなら取り扱いがあるはずです」
「そっか、その手がありましたね」
 買い物の後にと思っていたけれど、実際に飲んでみて気に入った方を購入すればいい。こんな簡単なことにも気付かなかったなんて。
「ジェイド先輩はどうされますか? お時間が大丈夫でしたらご一緒にお茶でも」
「よろしいんですか? ちょうどお腹が空いていたところです」
 一瞬だけ意外そうな表情になってから、ジェイド先輩は店員に声をかけた。晴れた日にだけ使えるテラス席に通され、二人でメニューを眺める。それぞれに注文を済ませてからなんとなく視線を泳がせると、道路の向かい側にジュエリーショップやブランドショップが立ち並んでいることに気付いた。あちら側はお金持ちゾーンなのだな、と思ってから再び視線を戻すと、何人かの女性がチラチラとこちらに視線を注いでいる。
 ―ジェイド先輩目当てかな。
 想像通りに長い足を優雅に組み替えて頬杖をつく姿は、なるほど普段の奇人ぶりを知らなければ見惚れてしまうのもやむなしだろう。そうだ、意識してなかったけどこの人イケメンなんだった。
「何か?」
「あ、いえ……ラウンジはお休みなのかなって思って」
「今日は午後からのシフトです。山に行くか迷いましたが、明日は終日休みなので」
「そっか。せっかくなら丸一日楽しみたいですもんね」
 そこまで話したところで、店員が注文の品を運んできた。私はさくら味の紅茶といちごのケーキを、ジェイド先輩は春風の紅茶とホットサンドを前に両手を合わせた。
「そういえば今日は、婚約者さんはどうしているのでしょう?」
「……あぁ、婚約者さん……」
 あまりにさりげない切り出し方すぎて、一瞬何のことだかわからずに反応が遅れてしまった。
「さぁ、どうしているのでしょう?」
 向かいの人の言葉を真似て返すと、その人は少し笑った。
「どなたかは存じませんが、寛大な方とお見受けします」
「どうして?」
「成り行きとはいえ、僕とのデートにも文句を言われないということですから」
 思わずフォークを取り落としそうになる。
「え……これ、デート? デートになりますか?」
 また私は異性との距離感を誤ってしまったのだろうか。だってあの場面じゃ別々にお茶する方が変じゃない? 変だよね? 誰かどうか教えて。
「そう捉える方もいるかと」
「私はそのようには捉えていないつもりなんですけど……」
「では僕もそう考えるとしましょう。婚約者さんもそう思ってくれると助かるのですが」
 紅茶を傾けながら婚約者を思う。どうだろう、これ、デートに思われるかな? 事前や事後の報告ならばなんてことないかもしれないけれど、今この現場を見られたらデートだ浮気だと騒ぐ人もいるかもしれない。一応連絡しておいた方がいいかなぁ。でも別に、お互い干渉しないって話だし、たぶん興味ないだろうし、いっか。
「寛大な人なので大丈夫だと思います。そうだ、私も春風の紅茶を頼んでみようかな。ジェイド先輩は何か追加で注文されますか?」
 婚約者についてそれ以上の言及は避けて、私は彼にメニューを差し出した。エースやデュースの追及なら躱せる自信があるし事実そうしているが、ジェイド先輩相手となると話は別だ。巧みな話術で余計なことを喋ってしまいそうな気がする。出来るだけこの話題から離れたい。
 幸いにも追及は杞憂に終わり、現時点での彼の興味は目の前の食に関することのみのようだった。
 それから会計を終えて―どうした風の吹き回しなのかなんとジェイド先輩が全額奢ってくれた―再び物販コーナーに立ち寄り、私は二種類の紅茶を一缶ずつ購入した。
「ジェイド先輩はどちらがお好みでしたか?」
「どちらも捨てがたいですが、さくら味でしょうか」
「じゃあジェイド先輩にはこちらを。私は春風の紅茶を持ち帰ります」
「よろしいんですか?」
「こちらも奢っていただいたので。ごちそうさまでした」
 金額の差はあれど互いにギブアンドテイクを済ませて店を出る。ふと顔を上げると、道路の向こうに見覚えのある後ろ姿を見つけてしまった。
「おや……あれはイデアさん。外にお出になるとは珍しい」
 ジェイド先輩の言葉に私は声を失っていた。彼が外に出ていたからではない。絶対に見紛うはずのない特徴的な後ろ姿が今―女性と一緒にいる。
 その二人は今まさに、向かいのジュエリーショップへと姿を消していった。
「ジュエリーショップとは少し意外です。隣の方は恋人でしょうか?」
「……ですかね……」
「あの店は特にブライダルのラインが人気ですね。以前にニュースで観たことがあります」
「お詳しいんですね」
 上の空で返しながら、私は購入した紅茶の袋を無意識にぎゅっと握りしめていた。たった今までの幸福な気分がズタズタにされた気がした。それはどうしてなのかわからなかったけれど、せめて隣の人にだけは悟られないようにしようと思った。

 なんとなくモヤモヤしたままで休日を終えてしまった。せっかく買った紅茶もまだ開けていない。あんなにウキウキしながら買ったのに。
 午前中最後の授業は選択授業のため、講堂で実施される。今日は小テストの予定だ。ただでさえお昼前の一番やる気の出ない時間帯にテストだなんて、先生は生徒を苛め抜きたいのだろうか。一応、普段から学習習慣は身についているものの、テストをクリアできる絶対の自信があるほどではない。少しでも油断したら補習に参加しなければならなくなるかも。
 重い足取りで講堂にたどり着くと、前の授業が長引いているらしく入り口前に人だかりができていた。仕方なく人ごみに紛れて息を吐いていると、視界の端に見覚えのある人が映り込んだ。その人はほんの数日前、私の婚約者でありながらもブライダルラインが有名な高級ジュエリーショップに女性と二人きりで立ち入った不届き者だ。小テストのためにわざわざ登場したのだろう。
 イデア先輩とパチリと視線が合い、自分でも咄嗟といえるスピードで思いきり顔を逸らしてしまう。しまった。見る人が見たら不自然さに勘付かれてしまうかも。いつもだったら何気なく目線を外すくらい難なくできていたのに、急に妙な態度をとってしまった自分自身に脳内で首を傾げる。私、どうしたんだろう? 怖くて彼の方を振り向けない。
「監督生さん。先日は楽しいひと時をありがとうございました」
 自分でも気持ちが整理しきれないでいると、背後から聞き覚えのある声がした。ジェイド先輩はこの前と全く同じ様子で微笑んでいる。この人は変なところもあるけれど、割といつ見ても安定している。たまにこの人に感情はあるのだろうかと思う時すらある。
「こちらこそご馳走になってしまって。私も楽しかったです」
「僕の方こそ紅茶をありがとうございました。なかなかに味わい深いので、今度ラウンジでも提供しようかと考えているんです」
「いいですね。じゃあ私、飲みに行こうかな」
 二人で笑い合っていると、遅れてその場にやってきたマブたちが不思議そうな表情をした。
「ジェイド先輩とそんなに仲良かったっけ?」
「この前の休日にお茶をご一緒したの」
「えぇ、天気も良く素敵なお店でした。おかげで素晴らしいデートになりましたよ」
「あはは、ジェイド先輩ったら」
 にこやかに軽やかな冗談を飛ばすジェイド先輩に思わず笑っていると、デュースがぱちくりと目を瞬かせた。
「ってことは……監督生の婚約者ってジェイド先輩だったりするのか?」
 なんでそうなる。まさかの発言に目を丸くしていると、ジェイド先輩が再びふざけ始めた。
「今だから言いますが……実はそうなんです」
「いやいや何言ってるんですか。ジェイド先輩とは婚約してませんしこれからもしませんからね」
「おや、残念です。僕としてはやぶさかではないのですが」
 どこまで本気かわからない人だ。やれやれと思いながら視線を巡らせると、イデア先輩が一瞬だけこちらを睨んですぐに視線を逸らした。あまりの冷たい表情にさっと熱が引いてしまう。
 ―怒った……のかな? いや、まさかね。ふざけてただけだし、大丈夫だよね?
 フォローを入れた方がいいだろうかと思ったが、そもそも何を? という気もする。悩みながらもようやく開いた講堂に足を踏み入れてみたが、イデア先輩のことが気にかかって仕方ない。しかもどうした運命のいたずらか、今日に限って指定席な上に、よりによって不機嫌な婚約者の隣を割り当てられてしまった私の運の悪さといったら。
「お隣ですね。よろしくお願いします」
 ざわついた周辺を見計らって様子見に一言かけてみれば、あからさまなため息と共にそっぽを向かれる。
「何かお気に召しませんか?」
「は? 別にいつも通りですけど? 拙者に干渉しないでくれます?」
 ―絶対に何か気に入らない感じじゃん。こういうの、困るなぁ。
 私はテキストに視線を落としながら独り言のように声をかけた。
「ねぇ、イデア先輩って結婚してもそんな感じなんですか? 嫌なことがあった理由も言わないで不機嫌になるタイプ? そんなんじゃどうやって仲直りしていいかわからないじゃないですか」
「だから怒ってないって言ってるだろ。勘違い乙」
「怒ってるじゃないですか。そんなんだったら私も冷たくしますから。いいんですね?」
「か、勝手にすれば? 自分だってさっき無視したくせに偉そうに言わないでくれます?」
「無視したわけじゃないですけど、あれはただ、ちょっと気まずかったっていうか」
「あー、浮気したからですな。それもよりによってジェイド氏と」
「浮気したのはそっちでしょ?」
「してませんが? 自分が後ろめたいと相手まで疑わしく見えるって言うよね」
「最初に浮気って言ったのはイデア先輩の方じゃないですか」
「いやいやいやデートだなんだって自分で喋ってたくせに責任押し付けてくるなよ」
 それぞれの顔を一度も見ずに、私たちは教材を眺めながら互いに罵り合った。周りの誰も私たちの話の内容に気付いていない。けれど確実に二人の間の空気は一変しており、喧嘩したらこうなるのかという新たな発見と戸惑いにお互いがモヤモヤしているのを感じとる。
 結局、そのまま何も会話がなされないままで先生が登場し、授業が開始された。難解な魔法薬学の講義はいつも以上に頭に入ってこない気がした。ずっと隣の人のことが引っかかっている。干渉しない婚約者になるって話のはずだったのに、お互いがお互いの言動を気にしてしまっている。これじゃ話が全然違う。
 授業終盤に入り、宣言通り小テストが配布された。学年別に通常授業の内容を織り込んだ異なる問題になっているというところに、いかにもクルーウェル先生らしい意地悪さを感じる。
 授業とは全く関係のないところで腑に落ちない何かを感じながらも脳内は問題にとりかかるが、あまりにも歯が立たな過ぎて泣きそうになる。一枚の用紙の表面に問題文と回答欄が併せて記載されているタイプの小テストで、本当に配布されているのはこの一枚だけなのか、補足資料やヒントは何かないのだろうかとつい裏面をめくって見てしまう。こんなの授業でやったっけ。復習は欠かしていないつもりだったけれど全然理解できない。私って自分が思っている以上に馬鹿なのかもしれない。どうしよう。そこまで頭は悪くないつもりだったけどさすがに名門校にはついていけない程度ってことなの?
 止まることなくペンを走らせる隣からの音が耳に心地よい反面、ここにきてレベルの違いに急に心が折れそうになった。わかってたけど、この人と私って普通だったら絶対に交わらない人種なんだよ。怒ってる理由も言わないのに妙な難癖つけてくる奇人だし、やっぱり婚約なんて破棄した方がいい。そうだ、頭の出来が違いすぎるから彼が何を怒ってるかわからないんだ、きっと。就職先を失うのは手痛いけれど、結婚しても信頼関係築けなさそうだしもうどうでもいいかも。うん、授業が終わったら婚約破棄しましょうって言おう。
 涙目で試験を終えてペンを置く。模範解答が配布され、更に最悪なことによりにもよって隣の人との交換採点となってしまった。自分が馬鹿すぎて恥ずかしいなんて人生初めての経験で消えてしまいたいくらいの気持ちになる。どんなに頑張っても力が及ばないことってあるんだ。私の惨敗ぶりをみてこの人はどんな反応をするだろう。私から言い出さなくてもこんな馬鹿とは結婚できない、と向こうから婚約解消を告げてくるかも。その場合は私の落ち度だから当然就職の話もなかったことになり、頭が悪すぎるが故に婚約を破棄されたという黒歴史を背負って今後の人生を生きていかなければならなくなる。
「あの……採点をお願いするのも恥ずかしいくらいの出来なんですけど……たぶん零点かも……」
 ほとんど泣きながら言う私に眉を顰めて、イデア先輩は私の顔を見返した。授業前の私とあまりに様子が違ったため妙に思ったのだろう。結局、私は情けなさ過ぎてすぐに視線を逸らしてしまった。
「四十点以下の駄犬は補習を行うからそのつもりでいろ」
 クルーウェル先生が遠回しに私の死刑を宣告した。イデア先輩の少し可愛らしいような文字の解答を採点していくが、誤りは一箇所も見つけられなかった。素晴らしい頭脳を証明する完璧な答案に完全に心が折れ、私は無言でペンを置いた。周囲でテスト結果をああだこうだと言い合う声が聞こえる。
 イデア先輩にテストを返却するも、彼は私の試験結果に動揺しているのかこちらの分は返してくれない。どうせ補習は確定だとわかっていたし、あまりに低い点数の現実を知る勇気もないから別にいいけど。
 後方から前へとテストが回収されていく。きっと私の成績はこのクラスで最下位だろうことが容易に想像できた。
「だ、大丈夫?」
 こちらもすっかり攻撃性が失われたイデア先輩が私に恐る恐る声をかけてくる。授業終了のチャイムが鳴り、多くの生徒が解散していく中、私はあまりの絶望に席を立てずにいた。たかがテストくらいでと思う人が多数だろうが、こんなにも努力が報われなかったことが人生で初めての経験で、私は完全に打ちのめされていた。
「あ、あの、このテストの件だけど」
 回収されたはずの私の答案をイデア先輩はまだ持っていた。あらためて見てみると、一つも正誤の判定がなされていない。
「……提出してくれたと思ったのに……私のことを馬鹿にするために持ってたんですか?」
「は……? い、いや、そんなわけないし……」
「どうした。試験結果がまだ提出されていないようだが」
 講堂を出ない私たち二人を不審に思ったのか、クルーウェル先生が近付いてきた。私は俯きながら、反省の弁と滔々と述べる。
「ごめんなさい、勉強してきたつもりだったんですけど全くできなくて」
「言い訳は聞いていない。結果が全てだ。補習には必ず……」
「あ、ちが、待って……あの、この子の試験をやり直していただきたく……」
「……何だと? 理由を言ってみろ」
「ヒェッ……」
 意外にもイデア先輩がクルーウェル先生の厳しい言葉に割って入る。しかし教師からの鋭い睨みつけに、彼はいつも以上に挙動不審になった。
「こ、こ、この子のテストなんですが、も、問題が違っているかと……」
「……え?」
「た、たぶん、君が解いたのは三年生の試験だと思う。僕と同じ問題でしたので……」
「なに? 見せてみろ」
 クルーウェル先生はイデア先輩の手から私の試験をひったくり、サッと視線を走らせた。まだ状況についていけていないけれど、イデア先輩の言ってることって本当なのかな。私は交換採点の時、あまりにショックすぎて問題まで着目できていなかった。
 やがてクルーウェル先生が目を見開き、軽く頭を抑えた。
「すまない、確かにこの問題は三年生の試験内容となっている。配布の際に間違えたようだな。こちらのミスだ」
「え……じゃあ……」
「後日あらためてテストを行う。いい結果を期待しているぞ」
 そう言って先生が立ち去ったが、私はまだポカンとしていた。
「よ、よかったね」
 イデア先輩の言葉にハッとなる。私は何度か頷いてから、ようやく口を開いた。
「ありがとうございます……イデア先輩が気付いてくれたおかげです。私は試験問題の違いなんて思いつきもしなかったので……」
「だ、だって君ってよく勉強してるじゃん」
 意外に私のことを知っているようだ。私はここでようやく一息つくことができた。
「よかった……馬鹿すぎて婚約破棄されるかもって思ってました」
「なんでそうなるの? 拙者そんな非情に見えます?」
「どうでしょう……変なところで怒るし……」
 また喧嘩の火種を撒いてしまいそうになる。しまったと思って彼の顔を見直してみれば、イデア先輩は少し元気がなさそうだった。
「……やきもち……」
「え? 何ですか?」
「ちょっとやきもち妬いてしまいまして……ごめん」
「……あ……そうなんですか……」
 ―やきもち? 何が? なんで?
 彼の心情が全く想像できない。曖昧に頷いて言葉の続きを待ってみるが、その先を聞くことは難しそうだった。
「えっと……よければ、お昼ご一緒しませんか?」
 別に婚約者なんだから変じゃないよね、と声を掛けてみる。イデア先輩は虚をつかれたように目を見開いてから、小さく頷いた。

 お昼を持って屋上に集合、ということになり、私は教室から手作り弁当を持ち出した。約束の場所は春の陽が穏やかに差し込んでおり、時折生温かい風が吹きつけるのみだった。元の学校では屋上なんて一、二を争う人気スポットだったけれど、こっちの世界ではそうでもないらしい。私とイデア先輩以外に人っ子一人いない。
 婚約者はエナジードリンクを片手に空をぼんやりと眺めていた。
「何見てるんですか?」
「別に……屋上で食べるの初めてだから。まぁ悪くないね」
 イデア先輩が外を肯定しているという物珍しさ。誘ってよかったかも、と思いながら私は彼の隣でお弁当を開いた。
「イデア先輩はどうせ軽食みたいなものでしょう? 少しはおかずを分けてあげてもいいですよ」
 箸で卵焼きを掴んで差し出すと、彼は素直に口の中に入れた。またもや意外。てっきり何らかの抵抗を見せると思ったのに。
「うん、おいしい。料理上手ですな」
「それはよかったです」
「料理が趣味とか?」
「趣味というか、必要があったから上達しただけ。親が忙しくていつもいなかったから」
「寂しい?」
「いえ、別に。おかげさまでオンボロ寮で一人きりでも全然大丈夫なくらい」
「ふーん……」
「だから結婚してからも放っておいてもらって平気ですよ」
 私は面倒な女じゃないですよとさりげなくアピールしておく。授業前には少し喧嘩になってしまったけれど、干渉しないという約束を反故にするつもりは毛頭ない。結局、仲直りなのか何なのかイデア先輩も普通の様子に戻ったし、今のところ婚約破棄の可能性は見えない。
 そのまま黙々と食事を進めていると、イデア先輩が思いきったように口火を切った。
「ちょっとだけ干渉してもいい?」
 私は驚きを顔に出さないようにしながら、どうぞと言葉の続きを促す。
「本当にジェイド氏とデートしたの?」
 私を見つめる瞳が不安げに揺れる。その話、まだ続いてたんだと私は数回まばたきをした。
「確かに二人でお茶をしました。ですが、お互いにデートではないと確認済みです。イデア先輩のご認識がどうかはわかりませんが」
「な、なんで……」
 たぶんさっき言ってたやきもちってこのことなのかな。でも私に興味ないはずなのになぁ。一応、正真正銘の婚約者ではあるから、独占欲みたいなのがあるのかな。
「この前のお休みの日に、行きつけの紅茶専門店でたまたまジェイド先輩と会ったんです。それでお互いに併設のティールームでお茶をするつもりだったので、どうせなら一緒にと。それだけですよ」
「で、でも……」
「何があっても私はイデア先輩の婚約者ですからね。浮ついた気持ちなんてありませんから安心してください」
「だってジェイド氏相手なら普通の女子は騒ぐのでは……」
 そういえば店内では多くの女性がざわついていた記憶がある。
「確かにジェイド先輩は人気でしたけど……私は好きにはなりませんから」
「なんで?」
「だって男、嫌いですもん」
 ぎょっとしたように目を見開いたイデア先輩が私を追及しようとする。しかしちょうどチャイムが鳴り響き、これ幸いと私は立ち上がった。
「良ければまたお昼ご一緒しましょう。それでは」
 階段を一段、二段と降りて教室に向かう。そういえば、イデア先輩の方の浮気を追及し忘れてしまった。


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