きみと砂上の楼閣で

Chapter2-1



「あのさ、監督生。婚約者いるって聞いたんだけど」
 登校中、私は顔見知りの男子生徒から声をかけられていた。運動着を着た彼は朝練中だったのか息を切らしながら汗を拭っていた。ひどく顔が赤くなっている。
「うん、そうだよ。それがどうかした?」
「そっか……いや、いいんだ。本当は話したいことがあったんだけど、無理だってわかったから」
「そう? じゃあまた今度ね。部活、頑張って」
 にこりと微笑んで手を振り、背を向ける。婚約者がいるってなんて便利なんだろう。
 今のやりとりで何も気付かないほど私は鈍くはない。告白されなくてよかった。断る方だって心苦しいんだから。しかし、いつもは少々冷たくとも毅然と断っていたのに、今ならにこやかにでも断れる。まさか婚約者という印籠がこれほどまでに効果的とは。相手がわからない状態でこれだ、正体が判明した時は周囲にどんな反応をされるだろうか。私とイデア先輩が婚約者だと明かして、納得の組み合わせだと思う人が果たしてどれくらいいるだろうか。
 イデア先輩と婚約して一か月ほど経った。相変わらず連絡のない日々だが互いに干渉しないという約束を忠実に守っていることの表れだから問題はない。けれど、たまに校内ですれ違っては他人のフリを貫き通すという密かなお遊びを彼も楽しんでいるように思えるのはきっと気のせいではないと思う。
 校舎の入口近くで自販機を眺める。大体いつも同じお茶を買っているが、ついつい商品を眺めてしまう。最近、自販機端の売れ行きが悪そうなエナジードリンクが気になるのは、この前のお昼にイデア先輩が飲んでいるのを見かけたからだろうか。
「お……おはよ……」
 背中から消え入りそうな声がかかり、私はすぐに振り向いた。
「おはようございます。今日は実習か何かですか?」
「美術があるから……たぶん同じ授業」
 確かに一限から二時間連続で美術の授業がある。そうだ、前回で美術史が終わって今日からは製作に入るんだったっけ。
「何か買うの?」
「いつもこのお茶を買ってます」
 意外にもイデア先輩は私の指し示したお茶を購入した。しかも、蓋を緩めたと思ったら強引にこちらの手に押し付けてくる。そして彼は再び自販機に指を伸ばし、私が想像した通りのエナジードリンクを購入した。つまり、これは。
「ごちそうになっていいんですか?」
「お茶の一本くらいでいちいちそういうやりとり面倒なんですが……大人しく受け取ってくれない?」
「じゃあお言葉に甘えて。ありがとうございます」
 この人のたまに出る気まぐれな優しさにどう対応していいのか、未だにわからずにいる。しかし彼の言う通り素直に奢られた方がいい時があるのも理解できる。
「そういえば今朝、婚約者の肩書きが役立ちましたよ」
 いただいたお茶に口をつけながら話を振ると、イデア先輩が眉を顰めて無言で言葉を促してきた。
「婚約者がいるって噂を肯定したら、告白を食い止められました」
「どこの誰?」
「あの人、何組だったかなぁ……ディアソムニア寮の一年生なんですけど」
「もし告白されたらどうしてたの?」
「どうって……同じですよ。普通に婚約者がいるからって断るしかないじゃないですか」
 この前も、私は浮ついた気持ちにはならないからと話したはずなのに。まだ何か疑わしいのだろうか。
 今朝はホームルームがない日だ。そのため二人で直接美術室へ向かおうとしたが、彼にその気はないのかさっさと足を速めて立ち去ってしまった。何か物憂げな様子だったのが気にかかる。私も少し時間を置いてから行こうと廊下をゆっくり歩いていると、エースとデュースに行き会った。
 挨拶を済ませ、もはや日常と化したマブたちの婚約者当てクイズを聞き流す。私は「違う」とか「ハズレ」とかいつもの返しをするが、それでも彼らは諦めなかった。
 美術室に到着すると、壁際の大きな彫刻の数々が目に入る。続いて、薄情な婚約者の姿が視界に入って私は当然に自然を装って視線を逸らした。オルトくんも同じ授業のようで、これは少しだけ波乱の予感がするようなしないような。
 オルトくんは私の姿を認めると、いつもの如くにっこりと笑ってくれた。
「今日はここに座ってほしいんだ。いいかな?」
 キラキラの双眸でおねだりされれば断るわけにはいかない。私は頷いてシュラウド兄弟と同じ六人掛けのテーブルについた。向かいの婚約者はこちらにチラリとも視線を向けない。相変わらず徹底している。
「イデア先輩、今日は授業来てんすね」
「別にいつもだってサボってるわけじゃないけど」
「ちわっす。失礼します」
 エースとデュースも当たり前に同じテーブルにつくと、テキストをパラパラとめくり始めた。
「実はお前って結構絵がうまかったりするんだよな」
 エースが私に向かって珍しいことを口にする。いつものからかうような口調ではない。視界の端でイデア先輩がピクリと反応しているのが見えた。
「そうかな? 美術とか音楽は元の世界でもあったからそのせいかも。向こうとそう勝手は違わないしね」
 私は異世界人という特性上、他の教科には苦手意識が強いが、芸術分野においては元の世界とそう変わらないために密かにこの時間が楽しみであった。正直なところそこまで才能があるわけではないのだが、気負わずに受けられるこの授業は少しだけ安心する。
 先生が入ってきて前回までのおさらいとしての講義を始めた。話を聞きながら、こっちでもなんとか派とかがあるんだなぁなどと私はどうしようもない感想を抱いていた。
 やがて先生の指示で、予定通りに作品の製作に取り掛かることになる。今日から今年度の最後までで一つ作品を完成させるとのことだった。形態は自由らしかったが私は高度なことはできないため、慣れ親しんだ水彩画でも描こうかと画用紙をもらうことにした。先生は私に画用紙の場所を知らせると、何かの用事なのだろう、職員室へと消えていった。
「兄さんは何を作るの?」
「何でもいい……同人誌とかじゃだめかな」
「それは難しいんじゃないかなぁ」
 向かいでシュラウド兄弟が頓珍漢なやりとりをしていた。思わず吹き出しそうになるのを堪え、咳払いでなんとか誤魔化す。
「彫刻と油絵のどっちにするか……」
「彫刻とかできんの? 大人しく絵にしとけって」
「監督生、ちょっと相談に乗ってくれないか?」
 マブたちはまだ何を作るか決めかねているようだった。私も水彩画に決めたものの何を描くかまでは決めていなかったので、二人に付き合って壁際一面に並んだ彫刻を見学に行く。
「適当にバッドで叩いて出来上がったものを作品として提出するんじゃだめか?」
「うーん……芸術だからありのような気もするけど、どうかな……うまくタイトルをつけられるかが肝だね」
 先のシュラウド兄弟同様、こちらでも間抜けなやりとりを行う。私は彫刻の鑑賞の方により興味があったため、彼らの言い分を話半分で聞き流していた。しばらくそうしている内に、だんだんとエースとデュースの声が大きくなってくる。またやってるよ、と横目で見てから、私は密かに息を吐いた。
「っせぇな! だから今考えてんだろ!」
「はぁ? んな怒ることねーじゃん。本当のこと言っただけだろ!」
 マブたちが本格的に喧嘩し始めてしまった。止めた方がいいかな、とドキドキしているといよいよ掴み合いになってしまう。何をそんなに揉めているのか互いに押し合いになり、本格的な乱闘が開始される。しかし男子校だからこんなことは慣れっこなのか、誰も気に留める様子はなかった。
「ねぇちょっと……」
 もうやめなよ、と言いかけた時だった。二人がもみ合いになった拍子に壁際にぶつかり、上方に飾ってあった彫刻が大きく傾く。
「やべっ……」
 あっと思った瞬間には、それは真っ逆さまに私の頭上に降ってきた。
「監督生!」
 二人が真っ青になる。スローモーションに感じられるけれど、現実には間もなく私は血まみれになるはずで、下手すれば死んでいるかもしれなくて。
 目をぎゅっと閉じて頭を庇う。しゃがみこみながら痛みを覚悟したその時。
「……大丈夫……?」
 頼りなさそうな声が聞こえた。
 どれだけ待っても想像していた痛みは来ない。恐る恐る顔を上げると、ポタリ、と生温かい雫が頬に伝った。
 ―これは、血……?
 時間が何秒か飛んでしまったかのよう。気付いたら私は、あの無関心な婚約者の温もりに包み込まれていた。
「どこか痛くしてない?」
 ―この人、私を庇ったの? どうして?
 私を抱き締める腕の力加減が不自然に弱い。
「イデア先輩、何で……? まさか私のこと助けてくれたんですか? 嘘でしょう? ていうか怪我してるじゃないですか。肩から血が出てますっ」
「うるさいな……」
「ごめんなさい、私がぼんやりしていたから……立てますか? 痛いですよね? どうしよう、ごめんなさい」
 パニックになって謝罪と疑問をぶつけまくる。彼は痛みにか取り乱す私にかは不明だが、表情を歪めて不快感を示していた。痛くて泣きたいのは絶対にイデア先輩の方なのに、気付けば私の方がわんわんと泣いていた。
「ごめんね、イデア先輩……救急車を呼びましょう」
「いや君の方が泣くとか意味わかんないし。別に平気だから」
 鬱陶しそうに私を一瞥して、彼は弟を呼びつけた。
「兄さん、大丈夫? 治療するね」
「うん……ていうか先生もいないしもう部屋戻りますわ。怪我したんだからいい口実でしょ」
「了解!」
 オルトくんが元気に答える。それを合図に、突然の出来事に戸惑った様子だった美術室中が、徐々にそれぞれの時間を取り戻していった。
「私も行きます」
「いや、来なくていいから」
「絶対行きます。私のせいだもん。本当にごめんなさい」
「別にいいって言ってるのに……あー、わかりましたぞ。さては君も授業をサボりたいクチですな? さすが天下の問題児っすわ」
「もうそれでいいです! とにかく行きましょ!」
 二人分の荷物を持って美術室を後にしようとする。と、マブ二人がハッとしたように駆け寄ってきた。
「すんませんっした!」
「ちょーっとぶつかっただけのつもりだったんすけど……」
「……別に」
 イデア先輩は不機嫌そうに告げてさっさと美術室を出ていってしまう。私も彼に続いたが、二人が何とも言えない表情をしていることにまでは気付けなかった。

 別にいいって、と繰り返すイデア先輩を何とか押し切って部屋まで無理矢理ついていく。授業中ともあってイグニハイド寮の中は静まり返っており、まるで世界に私たち三人しかいないようだった。
 部屋に入るなり、彼はベッドに腰かけて服を脱いだ。意外にいい脱ぎっぷりだ、なんて一瞬でも裸に見惚れている場合じゃない。露出した生白い身体の左肩から出血しており、紫っぽい痣になってしまっている。
「っ……ごめんなさい……私……私が……」
 もう泣かない、と思っていたけれど無理だった。その凄惨さに動じて不意に何度目かの謝罪を漏らした時、再び涙が流れ出してしまう。
「そんなに泣かないで」
「でも……」
「拙者が君を庇いたくてそうしただけですので」
「なんで……?」
「なんでって……だって君は僕の婚約者ですし。守るのは当然では?」
 ―何が婚約者だ。普段は全く連絡も寄越さないくせに。廊下ですれ違っても授業がかぶっても目も合わせないくせに。こういう時ばっかり婚約者ぶらないでよ。
 だけどそれは私だって同じ。普段は素知らぬ顔をしておいて、彼が傷ついたらこんなに心が痛い。変な関係だ、私たち。
「治療を開始するね」
「よろしく」
 オルトくんの言葉にイデア先輩が一言返した。なんとなく見てはいけない気がして、私は彼の右側に座って傷のないその肩によりかかった。一瞬だけイデア先輩がビクリと反応する。治療が堪えたのか、それとも。
「痛いですか?」
「痛いよ」
 手持無沙汰の彼の右手をきゅっと握ってみる。大きな手。恐る恐る握り返された指先から疑問や戸惑いが伝わってきたけれど、私はあえてそれを無視した。時折、オルトくんが今から何をするかを宣言している。私はそれを目を瞑ってじっと聞いていた。
「治療が完了したよ」
 その言葉に目を開く。見てみると、イデア先輩の左肩には包帯が巻かれており、痛々しい痕跡は全て隠されていた。
「どれくらいで治る? 私、治るまでイデア先輩のお世話するよ」
 オルトくんに問うと、彼は麗しい瞳を伏せた。
「残念だけど、一生治らないかもしれないんだ」
「そんな……」
 絶望的な気持ちになって呟く。オルトくんは気を取り直したように顔を上げた。
「だから兄さんのこと、一生よろしくね」
「うん、任せて。私が一生かけて面倒見るから」
 そうだよ、だって結婚するんだもん。私が決意を新たにしていると、イデア先輩は顔を引きつらせながら首を振った。
「いや……変な使命感に燃えてるところ悪いけど、全治二週間程度では?」
「え、そうなの?」
 私が目を瞬かせると、オルトくんはいたずらっぽく瞳を輝かせた。
「ごめんなさい。せっかく婚約者同士になったんだし、もっと二人には仲良くしてほしくて」
 そして、本当はやはり全治二週間なのだと告げた。よかった、嘘で。
 でも、確かにそうだ。あらためてオルトくんの言葉を噛みしめてみる。いくら生活を共にする予定がないとはいえ、こんな限りなく親密度が低い状態で結婚するのはきっと互いにとって幸福なことではない。せめて愛情でなくとも、互いに人生を共にする信頼できるパートナーくらいにはなっていないと。
「私、オルトくんの言う通りだと思います。これをきっかけにって言ったら変かもしれないですけど、もっと仲良くしてもいいのかも、私たち」
「いや断固お断りで。本当にいいから。出来るならこれ以上君と関わりたくない」
「何でですか? 学校で近付かなかったり周りに知られなければいいじゃないですか」
 少し前、まさにイデア先輩の方からもっと仲良くしてもいいみたいに言って歩み寄ってくれる感じだったのに。結局あの一度きりで相変わらずの態度だから慣れかけていたけれど、だからといって急に発言を撤回されても困る。
 私たちが言い合いになっている途中で、オルトくんは次の授業のために部屋を出た。私も切り上げて彼に倣おうとしたが、そういえば次は自習だったんだっけと思ってこの場に留まることにする。
 あらためて向き直ると、彼は当惑したように視線を逸らした。
「私のことが嫌いとか? もしかして婚約を破棄したいんですか? たぶん婚約して後悔するって私は最初に忠告しましたよね。破棄してもいいですけど、私の就職についてはちゃんと」
「別に婚約破棄したいとか思ってないし、少し落ち着いてくれない? それにさぁ、大体の人は嫌いな人を庇ったりしないでしょ」
 じゃあ何なんだろう。腑に落ちないまでもとりあえず口を閉ざす。考えてみても別に好かれてる感じはしないし、よくわからない言い分だった。
 私が首を傾げていると、イデア先輩は服を着ながらため息を吐いた。その仕草にハッとなる。意識しないようにしていたけれど、イデア先輩の身体が結構色っぽくて、そういえば部屋に二人きりなんだったと現実感が湧いてくる。
「私はもっと仲良くしたいんですけど、難しいですか?」
「仲良くするって具体的に何?」
 あらためて言い直してみたが、素っ気ない言葉しか返ってこない。私も具体的な案があるわけではなかったから、確かに何をどうするのだろうと悩ましい気持ちだ。
 長い沈黙を破り、やがて彼はこう呟いた。
「……困るでしょ」
「何がですか?」
「僕が君を好きになっちゃったら」
 思わずバッと彼の顔を見てしまう。衝撃的すぎて言葉が出てこない。イデア先輩のほっぺたが少しだけ赤い。
「だ、だから……もう行って。怪我のことは本当にもういいし……そもそも君じゃなくてあの二人のせいだし。それに僕にはオルトもいるからそう困ったことにはなりませんので」
「……あの……エースとデュースのこと、許してあげてくださいね」
 何を言っていいかわからなくて、つい二人を引き合いに出してしまう。チラリとうかがうと、イデア先輩は急に不機嫌そうに顔を歪めた。
「は? 許すわけないでしょ。君を危ない目に遭わせたこともそうだけど、特にエース氏。君のことを馴れ馴れしく『お前』とか言うし……何なの?」
「あれはいつものやりとりなので……」
「人の婚約者に向かって失礼すぎだろ」
 それからもブツブツといくつか呪いの言葉を吐いて、イデア先輩はようやく顔を上げた。
「もう行けば?」
「あ……はい。また連絡します」
 私はなんとかその言葉を絞り出して、彼の部屋を後にした。遅くはなったものの、自習と以降の授業のために校舎に戻らなくてはならない。これからの授業について考えたいのに、どうしてか頭の中ではイデア先輩の言葉を反芻してしまう。
 ―困るでしょ。僕が君を好きになっちゃったら。
 そう、困るのだ。というか嫌だ。私は安定した生活を保障してほしいだけなのに、愛なんて不確かで不安定なものを家庭に持ち込まれては困る。もし彼の言うことが現実になったら、彼は私に片想いした状態のままで結婚するということだ。本当は一緒に暮らしたいと思ってくれているのだろうか。彼がそう思うならそうした方がいいのだろうか。
 しかしそれは「お付き合いできない」と告白の申し出を断ること以上に残酷に思えた。ここは、私からこちらの落ち度として適当な理由を作って婚約破棄をするべきなのではないだろうか。でも、せっかく手に入れた就職のチャンスが。
 教室につき、自分の席に座る。自習時間だというのになんと賑やかなことだろう。まぁこんなものか、と大して驚くこともなく出された課題である小冊子の問題集に取り掛かる。しかし、一問目にしてさっそく邪魔が入った。
「イデア先輩、大丈夫だった?」
「あとで詫びに行かねぇとな……」
 叩かれた肩に振り返ると、マブたちが少々落ち込んだ様子で立っていた。
「大丈夫だと思う。オルトくんが治療してくれてたから……私は何もできなかったよ」
 彼らはまだ何か言いたそうにしていたが、うまい言葉が見つからないのか頷いて課題に戻っていった。私も再度問題に取り掛かるが、やっぱり別のことに思考が奪われてしまう。
 イデア先輩、全然私のことなんて好きそうに見えないのに、あの発言はどういうつもりなんだろう。全く好意の予兆はないけれど線を引いているのか、ちょっと好きになっちゃいそうでヤバいからああ言ったのか、どっち? 私、また距離感間違えてた? さすがに今回に限っては気を付けてたはずなんだけど。
 告白を受けたことは何度もあるけれど、大体の人は事前に噂や行動で好意を察知できていた。まさに今朝のような感じだ。少なくとも、私のことを嫌いそうだったり無関心そうな人に告白されたことなんて一度もないのに。イデア先輩は私に好意を示したことなんて―いや、あったかもしれない。
 ―僕も好きだって思ってた。君に名前を呼ばれること。
 ―ちょっとやきもち妬いてしまいまして。
 彼から好意らしい好意を感じたのはたぶんあの二回だけ。しかもやきもちの方なんて所有物を奪われるかもといった類のただの独占欲だと思っていたのに、もしかしてそういうことだったのかな。
 イデア先輩、と唇だけで彼の名前を形作ってみる。好きになられたら―困る。

 結局、自習時間中に解けなかった課題は持ち帰りとなった。この前のように帰宅してから問題と向き合ってみるものの、一向に捗る様子を見せない。これは困ったことになった。いっそ原因であるあの人に一度文句を言ってやろうと、スマホを取り出してみる。
「今いいですか?」
「うん。なに?」
 もしかしたら私たちは電話の方が普通に喋れるのかも。対面していた時よりずっと自然だ。
「お身体は大丈夫ですか?」
「意外に痛くないし平気」
 それはきっと痛み止めを飲んでいるからなのだろう。効力の切れた時が心配になるが、彼もそんなことはわかり切っているだろうとぐっと言葉を飲み込む。あんまりうるさく言われるのは好きじゃなさそうだ。
「それで何か用事?」
「またこのパターンかよって思われるかもしれないんですけど、今日出された課題に苦戦していてですね。提出にはまだ余裕があるんですけど、このままでは明日と明後日の休みを使っても終わらない可能性が」
「じゃあ部屋来る?」
「……えぇっ!?」
 聞き間違いだろうか、今部屋に誘われたような気がする。
「嫌なら別にいいけど」
「いえ……でも、昼間は私と仲良くしたくないような雰囲気だったので驚いてしまって」
「……じゃあ来なくていい」
「すぐ行きます!」
「あ、待っ……」
 どういう風の吹き回しか知らないが、イデア先輩と親しくなるチャンスだ。これを逃さない手はない。好意については気にかかるが、それについても何かわかるかも。
 すぐに電話を切って、鞄に適当な荷物を詰め込んで寮を出た。夜の闇を突っ切ってダッシュでイグニハイド寮へ向かう。寮生の視線からはどう逃れたらいいだろうかと考えながら。
 しかし幸いにして、というよりも寮生の気質上当然なのか、夜の寮内を歩く人影は殆ど見当たらなかった。私はいかにも「友人に会いに来ました」というような表情で堂々と建物内を闊歩した。タイミングをうかがって寮長の部屋をノックすると、すぐにドアが開く。
「来るの早すぎ……スマホ見なかったでしょ。何度か連絡したんですが」
 私を部屋に押し込み、イデア先輩は困ったように呟いた。
「すぐに行かなきゃと思って出てきちゃいました。何か必要なものでも……ってそうだ、私ったら手土産も持たずにすみません。購買まだやってるかな、ちょっと買いに行って」
「いいから」
 また怒らせてしまったかな、と思いながら彼の表情をうかがう。
「もっと遅い方がよかったですか? そうですよね、考えてみたらイデア先輩にも準備があるでしょうし」
「そういうのじゃなくて……迎えに行こうとしてたんですが」
「迎えに? なんで」
 意外な言葉につい素で返してしまう。
「く、暗いから……」
「……そうですね。私も暗いのは得意じゃないですけど……えと、それが何か……?」
「何って……安全意識低すぎでは? 女の子が夜に出かけるのは誰が何と言おうと危険でしょ。次からはちゃんと僕のこと待ってて」
「寮から寮に来ただけなのに……」
「関係ないから。約束できます?」
「……はーい」
 何この人。変な人。普段は私のことなんてどうだっていい感じなのに、危険から守ってくれようとするし助けてくれる。そのくせ、仲良くしたくないとか言ってくるのに部屋に呼ぶ。超あまのじゃくな人だ。しかも、「次」がありそうな口ぶりだし。
「それで課題ってどれ?」
 そして何事もなかったかのように本題に入る。彼はデスクの前に二つ並べた椅子の内、手前の方に腰かけた。私も奥に座って、鞄から課題を取り出す。
「一週間後に提出しなきゃなんです」
「ふーん……」
 私が差し出した問題集の小冊子を引き取り、イデア先輩は中身をパラパラとめくった。
「一問も解けない?」
「たぶんいくつかは集中すれば解けると思うんですけど」
「じゃあできるところまでやってみて。わからなければ声かけて」
 てっきり馬鹿にされるかと思ったけど、そんなことはないみたいだった。張り切って問題に取り掛かってみる。昼間やさっきは集中できなかったから進まなかったが、近くに人の目があるからなのか、今度は解けそうな問題もいくつか見つかった。
 そっとうかがうと、彼はパソコンでゲームに勤しんでいるようだった。同じ部屋にいるのに別々のことをしている。けれど不思議と気まずくはない。結婚してもこんな毎日を送るのだろうかとふと考えた。そしてそれはとても良いことのように思えた。
「イデア先輩、おうかがいしてもいいですか?」
 キリの良さそうなところに差し掛かった気がしたので、思い切って声を掛けてみる。イデア先輩はこちらに身を寄せた。
「わかんないとこあった?」
「この問題で悩んでいて。こっちの類題かなとも思ったんですけど、どうも途中でわかんなくなっちゃうんですよね」
「これはどっちかっていうとこっちの類題では?」
 電話越しではない生の解説。落ち着いて淡々とした口調が耳に馴染んだ。ふと彼の方に視線をやると、長い睫毛の下で金の瞳が気怠そうな色を見せていた。けれどもしっかり私の相手をしてくれているものだから、どっちが本音なのかわかりやしない。
「じゃあ解いてみますね」
「それが解けたらこのページも全部解けるはずですので」
 こっち向かないかな、と彼の顔を見ながら言ってみるも、視線はパソコンへ向いてしまった。少しだけがっかりした気持ちになりながら問題に再度取り掛かったが、不思議と捗り、なんとか半分以上を終えることができた。
「進み具合、どう?」
「大体半分くらいです」
「頑張ったね」
 ふわっと柔らかく頭が撫でられる。穏やかに微笑んだ彼に思わず見惚れてしまった。
 ―この人、ちゃんと笑うんだ。
 もしかしたら今までも何度かそういう場面があったのかもしれないけれど、見落としていたか微かすぎて変化に気付かなかったのかも。
 それからしばらくしてから時計を見ると、もう結構な時間になってしまっていた。
「もう遅いので今日はこれくらいで失礼しますね」
「ふーん……泊まってってもいいけど」
 ゲームに視線をやったままでイデア先輩が呟く。私が呆気にとられている間に彼も自分の発言に思い至ったのか、慌てたように弁解してくる。
「い、いや、違っ……今のはつい言っちゃっただけですので気にしないでくだされ。か、帰ります? 送りますけど」
「泊まっていきます」
「え」
「問題ないでしょう?」
 だって婚約者だし、と付け加えると、イデア先輩は目を泳がせた。
「ぜ、絶対に手は出しませんので……」
「別に出してもいいですけどね」
「だ、だめでしょ……」
 ゲームの画面が消える。どうやら会話をしている内にゲームオーバーになってしまったらしかった。
「一度きちんとお話ししないととは思ってたんです。ご存知の通り、私たちの間に恋愛感情はありません。けれども、努力次第で楽しい家庭にすることはできると思うし、せっかくならそうしたいなって考えています。子供が生まれるなら尚更。もし一緒に暮らさないならそれでもいいけど、それでも最低限の信頼関係は築いておきたいんです」
「あ……うん……」
「イデア先輩はどうですか? 私の考え、迷惑に思いますか?」
 ずいっと彼の方に身を乗り出してみれば、イデア先輩は反射的に身を引いた。
「め、迷惑じゃない……というか、迷惑なのは君の方でしょ」
「何がですか?」
「す、好きになったら困るんでしょ」
 だんだんと声が小さくなっていく。今なら昼間の言葉の意味を確認できそうだった。
「私、どうしてもわからないんですけど……私たちの間に恋が生まれるような何かってありましたっけ?」
「別にないけど」
「私のこと好きになっちゃったんですか?」
「い、いやまだなってないけど……なりそう……かも……」
「だからなんで……?」
 きっかけもないのに好きになるなんて意味がわからない。私が眉を寄せると、イデア先輩はまるで叱られているかのようにしゅんとなってしまっていた。なんだかかわいそうになってくる。
「最初に言った通り、私は愛のない結婚がしたいんです。好きになられたら困ります。こんな状態で結婚するなんて申し訳ないですし、やっぱり婚約なんて……」
 破棄しましょう、と言いかけて寸前で口を閉ざす。だめだ、貴重な働き口を逃すわけには。
「なんで好きになったら困るの?」
 しかし意外にも彼が問い返してくる。もしかして理由を聞き出して解決し、両想いに持ち込むつもりなのだろうか。
 内心少し驚きながら、私は言葉を選んだ。
「男の人が嫌い……だから」
「それこの前も聞いたけど、あんまりそうは見えないんだよね。誰とでも仲良くやってるじゃん。拙者みたいなの相手でも普通だし」
「うーん……語弊があったかもしれません。嫌いというか、信じてないって言った方が正しいかな」
 無言のままで視線が注ぐ。私は落ち着かない気持ちで問題集を閉じて、背もたれに身体を預けた。
「別に大した話はないですよ」
「うん、いいよ。聞かせてほしい」
「私ね、女子校出身なんです」
 何から話していいかわからないから、とりあえず思いついたことを口にする。彼は小さく、うん、と頷いた。
「女子校って怖いイメージを持たれがちなんですけど、実際は全然そんなことないんですよ。みんな仲良しだし団結力があって楽しいです。私、男子とうまくいかないことはあっても女子とうまくいかないことはなかったから、女子校でもうまくやっていけるはずだったんです」
「男が原因でうまくいかなくなった?」
「ご名答。まぁわかりますよね、この話の流れなら」
 空笑いしてから小さく息を吐く。
「仲良しのクラスメートがね、いつも彼氏の自慢をしていたんですよ。劇的な大恋愛で結ばれた奇跡のカップルって言ってて私も羨ましいなって思ってました。その彼氏が文化祭でうちの学校に遊びに来たんです」
「あー……なんかわかったかも……」
「たぶん想像通りですよ。他の友達も含めて彼氏や一緒に来た男友達と連絡先を交換したんです。最初は大人数で遊んでたんですけど、件の彼氏や一緒に遊んだ男子たちがなんかわかんないけど私のこと気に入っちゃったみたいで、それで……彼氏をとった、とってないの騒ぎになって……それだけの話なんですけどね、女子校でそれって結構致命的なんです。何で異性が絡むとみんなあんなに攻撃的になるんですかね。学校、行けなくなっちゃいました」
 イデア先輩が口を開いて何かを言いかけた。けれど言葉が浮かばなかったのだろう、何も言わずにもう一度唇を引き結ぶ。
「私、女子校に長くいたからなのか、男子との距離感があんまりわかんないんですよね。私としては普通にしてるつもりなんですけど気を引いてるって思われたり、色目使ってるとか思われたり……わかんないです、どこまでが本当でどこまでが言いがかりなのか。だけどたぶん、ある程度は事実なんでしょうね」
 この前の寮長会議を思い出して、私は苦笑した。
 普通は女子校出身であっても学校を出て社会に放たれた後、同性と異性とがいる中で徐々に学んでいくのだろうが、女子が男子校に入学するなんてありえない事態が起こってしまっているために、私の異性との距離感の無知さに関しては致命的と言わざるを得なかった。例えば、ジュースの回し飲みはいい? 部屋で遊んでも大丈夫? 仲良しだし二人きりでいても変じゃないよね? 週末の目的地が同じなら一緒に出掛けても問題ない?
 告白を断った男子たちが私のことを思わせぶりな奴だと陰口を叩いているのも聞いたことがある。その度に、あぁ私はまた間違ってしまったのだと思いながらもどこまでが常識的なのかが未だにわからない。だって現に、エースとデュースは他と大差なく接しているのに恋愛モードになんてならないんだから、やっぱり大丈夫なんじゃないの、他の人が変に意識しすぎなんじゃないのとも思ってしまう。
「話は戻りますけど、奇跡のカップルを自称していたその二人って本当にドラマや映画みたいに劇的で素敵な結ばれ方だったんですよ。それなのにあっさり別れちゃったから、私、すごい白けちゃって。何が奇跡なの、みたいな」
「ただ別れただけならまだしも多大な被害を受けてるわけだし……まぁ当然なのでは……」
「うちは両親も離婚してるし、親戚筋の大人もそんなのばっかりで誰もうまくいってないんです。別に珍しいことじゃないんだろうけど、昔からそんなのばっかり見てたから、元から恋愛に幸せなイメージはなかったんでしょうね、きっと。その出来事が決定的になって……どうせ恋愛感情なんていつか消えるのに、そんな不安定なもので人生の契約を結んで一生一緒にいるなんて、非現実的じゃないですか?」
 少し黙って、イデア先輩も私と同じように背もたれに体重を預けた。
「自信がない、怖い……どっち? あー、もしかしたらどっちもなのかな」
「何のお話ですか?」
「君のことなんだけど。一生愛される自信がない、いつか捨てられるのが怖い……結局そういうことでしょ」
「……そうでしょうか」
「君が信じてないのは男じゃなくて自分なのでは?」
 反射的にその人の方を見る。見透かしたような瞳に怖い気持ちになる。すっと伸びてきて冷えた掌が私の頬に触れた。
「手、出していいんでしょ?」
 怖いくらいに真剣な表情。彼は親指で私の唇を撫でた。
「さっき、出さないって言いませんでした? これだから男は」
「手、出してもいいって言いませんでした? これだから君って人は」
「まぁ別にいいですけどね。初めてじゃないですし、キスくらい」
 私の発言にイデア先輩は瞳で動揺を示した。
「あー……そういう感じ? 男とか信じてないから誰とでも関係持っちゃう系?」
「あのね、勘違いしないでください。キスしたのは女の子とです。人によりますけど、うちの女子校だとみんな結構普通にしてましたよ」
「すごい世界ですな。百合漫画みたい」
 彼の感想に私は思わず噴き出してしまう。彼の言う百合漫画がどんなものかはわからないが、ひとまず誤解が解けたのならそれでいい。確かに最後は最悪だったけれど、それまで私は女子校生活を結構楽しんでいたのだ。
「やっぱり私、帰りますね。勉強しすぎて頭痛くなっちゃいました」
「だ、大丈夫? 熱とかは」
「平気です。送ってくれるんでしょう?」
「うん、行こうか。手、出して」
 首を傾げながら言う通りに手を差し出すと、思いの外、強い力で掴まれた。静まり返っている寮内を無言で突っ切って二人でオンボロ寮に向かう。
 月の綺麗な晩だった。春の夜の生温かい風が柔らかに吹きつけ二人の髪を躍らせる。イデア先輩の髪は宵闇の中だといっそう綺麗だ。
 今隣を歩いているこの人とは数か月後には離れ離れになって、そしてその後は人生を共にする。そう考えるとすごく不思議だった。
 オンボロ寮に着き、あらためて彼を振り返る。私の視線に気付いた彼もこちらを見返し、足を止めた。自然に目を閉じると、大きな掌が私の頬を包むように触れる。
 女の子とキスするのとは全然違う緊張感。友達とはいつもふざけてしていたから、キスの前の独特の間や雰囲気を感じる暇もなかった。
 ちゅ、と唇が額に触れる。意外な場所へのキスに思わず目を見開くと、間近で金色の瞳と視線が絡んだ。
「おやすみ」
 一瞬だけ微笑んで、イデア先輩はすぐに背を向けてしまった。小さくなる背が消えるまで見送って、私はオンボロ寮に入った。温もりなんて残っているはずないけれど、無意識に額に触れてみる。



※次はR18を含んだ展開になります。
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