きみと砂上の楼閣で

Chapter1-1



 放課後の呼び出し。一体、この言葉に胸をときめかせる人はどれほどいるだろうか。もしかしたら、私にもそんな未来があったのかもしれない。
「ごめんなさい」
 最後まで聞かずに頭を下げる。向かい合った相手は紡ぎかけた言葉の行き先に惑っていた。
「え……いや……」
「告白ですよね。お受けできませんから」
「まだ俺、何も言って……」
「気持ちも嬉しくありません」
「……だ、だからさぁ……」
「違うんですか? じゃあ何の用事ですか?」
 たたみかけるような言い方に、目の前の男子の目元がピクリと動いた。じっと見ていると、数秒してから彼は長々と息を吐く。
「うん、何でもなかったわ。じゃあな、監督生ちゃん」
 ニコリと向けられた笑みは引き攣っていた。背を向ける間際、彼が一瞬だけこちらを睨んだのは残念ながら見逃せない。
 ―怒ってたよね、あの人。
 でも別にそれでいい。下手に希望を残せば残酷なだけ。だったら残すのは禍根の方がまだマシだ。恋愛感情っていうのは面倒で厄介で不愉快なものだから。
 恋をすると人は不幸になる―これは私の持論だ。
 まだまだ日も暮れそうにない春の夕方、私も先ほどの彼のように詰めていた息を盛大に吐き出した。少し悪かったかな、なんて今更ながらに襲ってくる罪悪感は見ないふりをして教室へと足を踏み出す。風がざわりと騒いで、私の髪を揺らした。春は出会いと別れの季節だなんていうけれど、私に運命的な出会いは必要ない。
 やがて戻った教室にはまだ数名の生徒が残っていた。この時間だ、ここを出ていくならまだしも、新たに入ってきた私に一斉に視線が注ぎ、どことなく居心地の悪い気分になる。と、エースが私に気付き、懐っこい笑顔を向けてきた。
「今度はオッケーした?」
「するわけないでしょ。そんなに仲良くない人だし」
 そんなからかいを軽くあしらって、私は一度席についた。もう告白の話などどうでもいい、終わった話だ。
 そんなことより、と帰る荷物をまとめようとテキストを取り出し、間に挟まっているプリントをそっと引き抜いた。存在をアピールするかのようにひらひらと揺れるそれに、内心ギクリとなる。
 ―しまった、忘れてた。提出期限、いつまでだっけ。
 唸りながら紙とにらめっこする私を不審に思ったのか、友達と雑談していたはずのデュースがこちらへ寄ってくる。彼は私の肩を叩いて、爽やかに微笑んだ。
「どうしたんだ?」
「これ。進路希望調査。もう出した?」
「いや、まだだ。提出は来週だから、僕もまだ手元にある」
 恐らく彼は彼で悩んでいるのだろう、途端に真面目な表情になって声を低くした。
 難しい顔をする人間が二人に増えたところで異変に気付いたのか、別の友人との雑談を終えたエースもこちらに加わってきた。よっ、と軽く手を挙げ、彼は快活に笑う。
「進路希望調査? こんなん適当でいいって。どうせ希望なんてすぐ変わるんだし参考程度っしょ」
 彼の言い分は最もだった。わかっている。私もそんなのわかっている。けれど。
 三年生のインターンの話題が学校中をさらっている中、私の心は憂鬱に沈んでいた。お世話になった先輩方と会う機会が減ってしまうこともそうだけれど、それより何より。
「どうしよう……」
 いよいよ憂鬱な息を吐いた私に、二人が顔を見合わせる。
「だからそんな真面目に考えんなって。さては、意識高い系?」
「気持ち、わかるぞ。身近な先輩もインターンに行くってなると、身が引き締まる思いだよな」
「……うん、そうなんだけどね……」
 はぁっと何度目かのため息を吐いてみせる。別に心配してほしいアピールとかじゃなくて、本当に憂鬱で心配で仕方ないのだ。
「私ってほら、ちょっとイレギュラーな存在でしょ?」
「ちょっと……か?」
「いや、かなりだろ」
 容赦ないツッコミに苦笑いしてから私は言葉を続けた。
「まぁ程度についてはどうでもいいんだよ。とにかく私、この先元の世界に戻れる保証もないから、もし戻れなかったときのためにちゃんと進路を考えなくちゃって急に意識しちゃったっていうか」
「なるほどな……」
 教室に残っている数名の生徒の話題もインターンや三年生のことが中心なのに、表情は明るいものばかり。私のように悲嘆に暮れている方が珍しいのかも。
 軽い悩みではないと悟ったのか、さすがのエースも黙り込んでしまった。難しい顔をする人間が三人になる。私たちは教室の中で、完全に浮いた存在と化していた。
「どうしたの?」
 そこで聞こえてきた声に振り返れば、オルトくんが心配そうに小首を傾げていた。私が彼の名前を呟くと、ニッコリと可愛らしい笑顔を返してくれる。
「どこか具合でも悪い?」
「ううん、元気だよ。オルトくんは何をしてるの? クラス、違うのに」
「帰ろうと思ってたまたま廊下を通りかかったら、監督生さんが落ち込んでいるように見えたから来たんだ」
「そんな……わざわざありがとう。全然深刻なことじゃないよ。ちょっと進路について悩んでてね」
「進路……」
 オルトくんは一文字ずつ確かめるように呟いた。脳内で何か計算をしているのかもしれない。
「オルトは進路、どうすんだ?」
「シュラウド先輩についていくのか?」
 進路の話なんて結構プライベートなことだと思うのに、エースとデュースがストレートに切り込んでいく。聞いちゃっていいのかな、答えてくれるかな、と妙にドキドキしながら、私も答えを待ってみた。
「それはどうだろう。僕もまだ何も決まってないけど、これから何でもできるって思うとワクワクするよね」
 こちらの緊張をよそに、オルトくんはあっさりと答えた。キラキラと輝く笑顔が眩しい。
 うわぁなんてポジティブなんだろう。私も決してネガティブな方ではないけれど、さすがにどこの馬の骨ともしれない奴を雇ってくれる企業なんて思いつかないから、それだけで一気に未来展望が暗くなる。だって元の世界では戸籍がない人とか住所がない人はまともな職に就けないことも多いし、最悪の場合、裏社会を暗躍する犯罪者ルートしか残されていないかもしれないのだ。
 あまりの対比にますます落ち込み、私はぎこちなく微笑みながら口を開いた。
「私はほら、身元が怪しいでしょ。だからまともな就職なんかできないんじゃないかってちょっと不安になっちゃって。もちろん、元の世界に帰れる可能性もあるから、今からこんな心配してもしょうがないんだけどね」
「なら、うちに就職するのはどうかな?」
「うち……って……」
 つまりは、あのS.T.Y.X.に? 私は思わずマブたちと顔を見合わせた。
「でも私、魔力ないし……って、あそこはその方が都合がいいんだっけ? いや、そうだとしても私ごときがあんな優秀そうな人たちの中になんて、とんでもないし」
「そんなことないよ。そうだ、まずは兄さんに話を聞いてみない? 確かに仕事内容とかがわからないんじゃ判断できないよね」
「え、い、いきなり? あのね、ありがたいんだけどそういうことじゃなくて、急すぎて全然頭が追いついてなくて」
「大丈夫、大丈夫。僕の兄さんはとっても優しいんだ。それに頭もいいし、説明くらい簡単にしてくれるよ。監督生さんがS.T.Y.X.に来てくれたら、兄さん喜ぶだろうなぁ」
 一点の曇りもない瞳で見つめられると本当にそんな気がしてくるから不思議だ。え、本当にいいのかな? なんだか急展開だけど、一人で悩むよりは思い付きでも何か行動に移した方が明るい未来につながりますか?
 ―いや、絶対そんなはずないじゃん! だって私、シュラウド先輩とは。
「オルト、ナイス! 早速行って来いよ」
「善は急げって言うしな。大丈夫、きっとうまくいくさ」
 しかしこちらの心中など知る由もなく、明るい表情になった二人が私の背中を後押しする。私を応援してくれるいい友達なんだけど、そうなんだけど、ちょっとくらい一緒に迷ってくれてもよくない?
「兄さんはたぶん部屋にいるはずだから、このままイグニハイドへ行こう!」
「えっ、ほ、本当に……?」
 この流れは冗談じゃなく本当に行く気だ。展開が早すぎてついていけない。例えるなら四クールを予定していたアニメを予算不足のために半分の期間で放映しなければならなくなったみたいなありえない早さだ。
 文字通り人間離れした怪力で私の腕をグイグイ引いて、オルトくんはイグニハイド寮へ進んでいく。どうしよう、心の準備が。本当にいいの? そりゃ就職できるならありがたいけど。もちろん進路未定で卒業、という心配事が杞憂に終われば嬉しいけど。
 この時点で私には既に別の心配事が発生していた。
 ―私、シュラウド先輩とほとんど喋ったことないんだけど。

「兄さん、いる?」
「入っていいよ」
 秒で許可が下り、オルトくんは堂々とその部屋を開けた。
 ―うわ、散らかってるなぁ……。
 覗いてみれば床に物は散乱しているしあまりに雑然としていた。勝手にやってきてこの感想は失礼かもしれないけれど、率直な気持ちだから仕方ない。まぁシュラウド先輩は天才って噂だし、どこかしら変なところはあるよね、きっと、と自分に言い聞かせることにする。
「お邪魔します……」
 控えめに告げると、シュラウド先輩は小さく悲鳴を上げた。
「ヒェッ……な、な、な、なに、え、ちょ、オルト、これは何事……?」
 てっきりオルトくん一人だと思ったのだろう、シュラウド先輩が目に見えて激しく狼狽している。椅子からガタリと立ち上がり、すごいスピードで部屋の隅まで逃げていった。予想外に俊敏な動きだ。
「こんにちは、シュラウド先輩。私は」
「あー別にあらためての自己紹介とかならいらないけど。君と親しくしたいとか微塵も思ってませんので」
「あ、はい……」
 立ったままで頭を下げようとしたが、手厳しい一撃になす術がなくなる。
「わざわざここまで何の用? 手短によろしく」
 一切視線を合わせないままに早口でそう述べて、シュラウド先輩はあからさまにため息を吐いた。「迷惑です」というオーラが全身を包みこんでいる。私には何の特殊能力もないけれど、はっきりと目に見えるようだ。
「今日は兄さんにお願いがあってきたんだ」
「お願い?」
 代わりにオルトくんが切り出したからか、彼も普通の様子で応じた。よし、と思い、私も勢いに乗ることにする。
「私をシュラウド先輩のご実家に就職させてくれませんか?」
「却下で」
 ですよね、わかってた。予想はできていたので特にショックは受けない。さあ明らかに歓迎されていない様子だし、もう諦めて変に遺恨が残る前にさっさとこの場を退散してしまおう。元より期待してなかったんだし事態が悪化したわけでもないんだから。
「でも兄さん、確か困ってるって言ってたよね」
 しかし立ち去りかけた私を意外にもオルトくんが制した。更に意味深な言葉を紡ぎ、見事に私の興味を引いてみせる。
「何の話?」
「結婚相手のことだよ。いい加減相手を決めるように言われてなかった?」
「それはそうだけど……今この場で何の関係が……って、まさかそういう……?」
 さすが名家の生まれはご苦労が多いようで。そんなことを考えながら、何らかの意思疎通が取れた様子の二人を交互に見る。なんだか変な雰囲気だった。
「いやいやいや無理だから。こんな陰キャ絶対お断りされますし迷惑でしょ」
「でも兄さんも就職の口利きを迷惑がっているんだから、お互い様ってことでいいんじゃないかな」
「利害の一致的な? さすが我が弟、知恵が回りますなー……いや、理屈としてはそうなんだけどそうじゃないっていうか」
「兄さんも喜ぶとってもいい案だと思ったんだけど……嫌なら仕方ないね……」
 全く事情は呑み込めないが、オルトくんが途端にしょんぼりした様子になる。それを見てシュラウド先輩はぐっと詰まった様子になった。どうやら弟にはとことん弱いらしい。
「オルトの考えは名案だと思う……けど……」
 シュラウド先輩がチラチラとこちらを見る。この人と私が生まれて初めて視線を交わした瞬間だった。
「……あのさぁ、結婚についてどう思います?」
「結婚ですか? また唐突ですね」
 突然の話題にうーんと考え込む。もしかして就職のためのテストが開始されたのだろうか。しまった、何の対策もしていなかった。
「別にしたい人はすればいいんじゃないですか?」
「うわ、すっごいドライ……ちなみに君はどっち派なわけ?」
「どうしてもしなきゃいけないなら、恋愛感情抜きでしたいです。それ以外に希望はありません」
「じゃあ僕と結婚できる?」
 唐突な発言に一瞬だけ言葉に詰まる。意味がわからないながらも、私はなんとか脳内を整理した。
「それはつまり、就職の口利きをするから結婚しろ、みたいな話?」
 問い返すと、シュラウド先輩は少しだけ驚いたような表情になった。
「ま、まぁ単刀直入にいうとそういう話。理解が早くて助かりますわ」
「私って今口説かれてます? これってプロポーズ? ほとん話したことないですよね、私たち」
「兄さん、頑張って!」
 オルトくんがよくわからない声援を送った。シュラウド先輩は再び狼狽え始める。
「い、いやまぁ、口説いてるって言えば世間一般的にそうなのかもしれないけどこれは決してそういう意味合いではなくてですな」
「じゃあどういう意味ですか?」
「さっきオルトが言ったように、一応僕ってシュラウド家の跡取り的な感じでして子孫繁栄の役割があるっていうかつまりまぁ結婚しなきゃいけなくていや全然したいと思ってないわけですけど」
「は、はい」
「お見合いとかのめんどくさいイベントも散々こなしてきたわけだけど仕方なくでも結婚したい相手が見つからなくて困ってまして。僕は一人でいたいって言ってるのにみんなやたらと連絡してきたり趣味は何だとかデートがどうだとか干渉してきてうんざりなんすわ」
 目を見張るほどの早口でシュラウド先輩は滔々と事情を説明した。頭の回転が早い人は喋るのも早いと聞いたことがあるけれど、目の前のこの人はまさにそれを体現している。
「えぇと……つまり、私の就職を約束するから、決して干渉しない結婚相手になってくれということですよね?」
 彼の話を要約すると、シュラウド先輩はホッとした様子になった。
「そ、そう。あらかじめ事情がわかってる相手なら問題ないでしょ。それに一緒に暮らすつもりもないし、あー、もちろん生活の保障はしますが」
「そこまでは理解できましたけど、あの、子孫繁栄ってことは……」
 オルトくんの手前、さすがに言いにくくて口ごもる。シュラウド先輩は途端に不機嫌な表情になった。
「は? そんなことするわけないし。勘違いしないでくれます? 人工授精とかなんか適当な方法があるでしょ。ちなみに子育ても嫌ならしなくていいから。誰かに任せますし」
 別にどうしても必要なら行為自体はしても構わないのだが、彼は私が言葉を濁した理由を勘違いしたようだった。
「わかりました。干渉しないというのは双方ともにということでいいんですよね?」
「当たり前だろ。君が何をしようが拙者、全く関心ありませんので」
「それとこっちの方が重要なんですけど、絶対に私のこと好きにならないでくださいね」
「は? なるわけないし。関心ないって言ってるだろ。二度も言わせるなよ」
 ヤバい、怒らせてしまったかも。無表情を保ちながら内心で冷や汗をかく。無駄なことは嫌い、と。本当にいつかこの人と結婚するなら知っておいて損はない。
「私も絶対に大丈夫なので安心してください」
「あ、そう。じゃあ契約成立でいい?」
「結構ですよ。私、恋とか愛とかどうでもいいんで。それより生活の安定が大事です」
「ふーん……ではあらためまして」
 シュラウド先輩は目を閉じて数回深呼吸をした。そして開いた金の瞳であらためて私を見据える。
「僕と君とで、愛のない結婚をしよう」
「……はい」
 急に真剣になったからちょっとだけドキリとしてしまった。しかしシュラウド先輩はもう私なんて見てなくて、オルトくんに目を向けている。
「とりあえずたった今僕とこの子は婚約者になったわけですが、一応誰にも秘密ってことで。バレそうになったら適当に誤魔化してくれる?」
「二人の婚約は秘密なんだね。了解!」
 婚約者。あらためて言われて不思議な気持ちになる。トントン拍子で決まってしまったがゆえにまったく現実感が湧かない。
 あらためて視線の先にいる人をまじまじと見つめてみた。この人、今、私の婚約者?
 私にとっては相互理解ゼロに等しいシュラウド先輩。彼にとっても同じだろうけど。うまくやっていけるのかな? ていうかこれ現実? だよね? 本当に展開が早すぎる。例えるなら四クールを予定していたアニメを予算不足のために半分どころか一クールで放映しなければならなくなったみたいな絶対にありえない早さだ。今日だけで人生の大半が決定づけられてしまった。しかし驚くべきことに、私は終始冷静だった。
 たぶん、多くの人は彼の提案を呑まないだろう。端的に表すなら、籍と腹だけ貸してくれ、と言われているのだ。ほとんどの人が烈火のごとく怒る話だというのはよく考えなくてもわかる。
 だけど、もしもいつか結婚しなければならないのなら、私はお見合いのような結婚がしたかった。就職先に困っているのも事実だし、この先もこの世界で生きていく可能性が高いのならこれは必要な契約なのだ。まさに願ったり叶ったりじゃないか。
「じゃあ僕は自分の部屋に戻るね。さよなら」
 オルトくんは何か気を遣ったのか、私が頭の中を整理している間に静かに部屋を出ていってしまった。シュラウド先輩もようやく部屋の端からこちらに距離を詰め、ベッドの上に座る。
「君も座れば?」
 言われた通りに並んで座る。横目でうかがうと、病的な肌の白さが目についた。
「あらためてだけど、原則として無駄なやりとりはなしの方向で。もしお互いに婚約を解消したくなったら応相談ということでいかがですかな?」
「応相談って?」
「まぁ例えばですけどもしも僕に好きな人とかができたらこっちの落ち度なわけだから、婚約は解消しつつも就職は面倒見るとかそんな感じ。ほぼあり得ないけどね」
「わかりました」
 逆なら私は婚約も破棄し、就職も蹴ることになるだろう。当然だ、そんな虫のいい話はない。
「あとは何か確認しとくことある?」
 言われて少しだけ考え、本当にいいのかな、と非現実的な契約締結のための最後の念押しをしておくことにする。
「確認することっていうか、たぶん私を婚約者にしたことを後悔すると思いますけど……本当にいいんですね? 私はとてもじゃないけど名家の婚約者には相応しくありませんよ」
「じゃあ相応しい子ってどんな子?」
「家柄がいいとか、立ち居振る舞いが美しいとか、控えめであるとか?」
「くだらな……」
 言葉通り馬鹿馬鹿しそうに吐き捨てて、シュラウド先輩は首を振った。
 一応最終確認はしたし、今後この人が後悔による婚約破棄を申し出たとしても、それは彼の言うところの「彼による落ち度」になるはずだ。つまり、一度ここで婚約さえ成立させてしまえばあとはこっちのものだといっても差し支えない。今ここに、私の就職は保証された。結婚なんてどうでもいい、ただのおまけだ。
「他に確認したいことがあったら、思いついた時にお話しします」
「かしこまり。じゃあとりあえず有事の際の連絡先。さっさと登録してくれない?」
 私、この人とうまくやれるかなぁ。どうせ一緒に住まないから気にしなくていいんだろうけど。
 無愛想に差し出されたスマホから連絡先を読み取り、せっせと登録を済ませることにする。まぁ別に愛があるかないかなんて重要じゃないし、そもそも愛なんてない方が信用できるし。よく結婚と仕事を天秤にかけることがあるらしいけど、運よく両方手に入って私はかなりラッキーなのかも。
「登録できました。一応は婚約者なので、これからはイデア先輩って呼びますね」
「あ、そう。何でもいいけど」
「とりあえずこんな感じにしてみました」
 僅かばかりのコミュニケーションを図ろうと画面を示す。といってもただ「イデア先輩(婚約者)」としただけだ。
「……だめ。貸して。こんなの誰かに見られたら一発アウトでしょ」
「そっか。別に誰も見ないと思いますけどね」
 怒っている様子はないが、その人はすっと私のスマホを取り上げた。機械に強いのだろう、使っている機種は違うのにさっさと登録名を直してしまう。横目でそれを見ながら、冗談を全く受け付けないということはなさそうだ、と彼への態度の判断材料にさせてもらう。
「できましたぞ。これでいいでしょ」
「……えぇー……」
「な、なにその顔。何か不満でも?」
「これの方がよっぽど何かある感じじゃないですか」
 彼は「(婚約者)」を消して、代わりにハートマークを入れていた。ずいぶんかわいいことをしてくれる。
「でもいっか、このままにしておきます。電話……はあまりしない方がいいですよね。何かあったらメッセージのやりとりにします」
「メアドも入れてありますので、メッセージ使えない時はそっちでよろしく。電話はあんまり好きじゃない」
 つまらなそうに息を吐いて、彼は話を締めた。もう大体の確認は終わったのだろう。
 さて用事は済んだ。もう帰ろうと立ち上がると、婚約者も一瞬遅れてベッドを離れる。
「あれ、どこかに用事ですか? すみません、都合も聞かずに長話をして」
「いや……オンボロ寮まで送ろうかと……あ、め、迷惑じゃなかったらの話で……」
 意味を計りかねて、咄嗟に言葉が出なかった。それは何のために? 理解ができない。
「迷惑とかは全く思ってないですけど、もし見られたら親しい仲だと思われちゃいませんか? ただでさえお部屋に来ていることだってリスキーなのに……」
「あー……ごもっとも……じゃ、じゃあ、その、気をつけて……」
 学園の敷地内なのに、変なの。内心で苦笑しながらも、なんとか彼に笑顔を向ける。
「はい。さよなら、シュラウド先輩」
 手を振って部屋を出ようとすると、不意に袖を掴まれた。怪訝に思って振り返ると、またも不機嫌そうな表情と視線が合う。今日、この人はずっとこんな顔だ。
「……イデア」
「え?」
「名前。呼ぶって言ったじゃん……」
 無意識だった。まだ全然慣れないから間違えてしまったようだ。
「そうでしたね。じゃあまた、イデア先輩」
「う、うん。またね」
 微かに彼の表情が和らいだのは、もしかしたら笑っているつもりだったのだろうか。今度こそ手を振って警戒しながらイデア先輩の部屋を出る。新しいメモリが入ったスマホを握りしめて、私は誰にも見られずにオンボロ寮へと帰った。

 教壇から離れるほど座席の位置が高くなる映画館のような室内の上部で、私はぼんやりと先生の話を聞いていた。こっそりとスマホを開いて時間とスケジュールを確認し、ため息を吐く。一日の授業もあと数分で終了。
 講堂を見渡せば、隣同士でこそこそと喋っている生徒や居眠りをしている生徒、真面目に授業に取り組んでいる生徒などが様々いて興味深い。と、少し遠くの方に婚約者の姿を見つけることができ、私は思わず目を見開いた。一緒の授業だったんだ。二週間前に婚約したばかりだが、あれから特にコンタクトもなかったために、やはりというべきか、いまいち実感が伴っていない。
「ちょっといい?」
 いつの間にか授業終了のチャイムが鳴っていたらしい。声をかけられた私はハッとしてその人物の顔を見た。
「あ、こんにちは……お久しぶりですね」
 何か月か前に告白してきてくれた人だ。見目麗しい、ポムフィオーレ寮の三年生。きっぱり丁重にお断りしたはずだが、今更何の用事だろうか。すごく嫌な予感がする。
「これ、麓の街で見つけたんだ。良ければ、君に」
「え……でも……」
 彼は紫を基調とした綺麗で小ぶりの花束を私に差し出した。
「いらなければ捨てていいから」
「でも、私」
「受け取ってくれるだけでいいんだ。あとで捨ててくれたって構わない」
「……あ……ありがとうございます。すごくかわいい……大切にします」
「うん。じゃあ、またね」
 彼はどことなくホッとした様子で去って行った。
 ―困ったなぁ。
 私は花束を軽く抱え直し、重く息を吐いた。これ、どうしよう。っていっても、もちろん捨てるわけにはいかないし、枯れるまで寮で世話をするしかないんだけど。
 なぜだか私は男性から贈り物をされることが多い。理由もなく受け取るのは気が進まないので断ってはいるのだが、結局、今日のように熱意に押されて受け取らざるを得ないこともしばしばだ。
 とても男性から花束をプレゼントされたとは思えぬ表情―になっているはずだ―で講堂を出た時、私を待ち構えていたのか、腕を組んでいたリドル寮長に引き留められる。
「キミ。今日の寮長会議に呼ばれていることは知っているね?」
「……はい」
「迎えに来ておいてよかったよ。もし場所がわからなければ困るだろうと思ってね」
 忘れていたわけじゃない。スケジュールとしてしっかり登録してある。けれど、私が寮長会議に呼ばれるなんていい話じゃないのはわかり切っているから、できれば素知らぬ顔をして帰ってしまいたかったのに。
 リドル寮長は場を和ませようとして雑談などを振ってくれるタイプではない。真一文字に唇を引き締め、キリリとした表情で黙って私を目的地へと案内する。あー、怒られるのかな。泣いちゃうかも。そして泣いても誰も助けてくれないかも。何のことで怒られるんだろう。思い当たらないけど何かやらかしちゃったんだろうな。
 会議室へ通された私は、お誕生席に座らされた。けれどもこれから始まるのはバースデイパーティーなんかではない。私への尋問や詰問といった類のものであるはずだ。私から見て右は手前からリドル寮長、レオナ先輩、アズール先輩、カリム先輩。左は手前からヴィル先輩、イデア先輩、リリア先輩―マレウス先輩は例のごとくいなかった―という席順だった。そういえばリリア先輩は退学されるとの噂だが本当だろうか、と恐らく本題とは全く関係のなさそうなことが頭を過ぎる。
「さて、どうして呼ばれたかわかっているかい?」
 リドル寮長が座り直し、じっと私を無遠慮に見つめた。その視線はまるで私の不正や悪事を少しも見逃すまいとしているかのようで、何の罪状にも覚えがないのに背筋が寒くなってくる。
 黙って首を振って、さりげなくそれぞれの態度を盗み見た。レオナ先輩はいつも通り面倒そうで、カリム先輩とリリア先輩は私を見て微笑んでくれる。同じくにこやかなアズール先輩の心の底はこのショーへの期待なのだろう。ヴィル先輩はリドル寮長と同じく厳しい表情だ。イデア先輩は仮にも婚約者である私が窮地に立たされようとしているのに少しも関心がなさそうで、その徹底ぶりには内心で舌を巻いてしまうほど。生身で現れただけいいのかもしれない。
「質問を変えよう。その花束は何だい?」
「えっ? 先ほどいただいたものですけど……ポムフィオーレ寮の三年生の方から」
 場を和ませる雑談などしないはずのリドル寮長が、私が先に貰った花束について言及する。困惑しながらも贈り主について答えると、ヴィル先輩が形のいい眉を一瞬だけピクリと歪めた。
「では、今日持っているハンカチは?」
「いただきものです」
「綺麗な爪をしているね。そのネイルは自分で買ったものを塗ったのかい?」
「……いただきものです」
「昼食後に塗り直していたリップクリームは?」
「…………いただきものです」
 なぜそんなことまで知っているのかと思いながらも、その後も質問として繰り出される品やそれぞれの贈り主について私は全て正確に回答した。そして、彼らが何について追及しにかかっているのかをようやく理解することができる。
「ここまで言えば何について話したいかおわかりだね?」
「あの……誤解されていると思います」
「誤解、ですか」
 いやらしい嘲笑を浮かべたのはもちろんアズール先輩だった。リドル寮長とは別の方向からの攻めをしてくるタイプの人。
「つまりあなたはいただきもので身を固めながらも、それを数多の男子生徒に貢がせている自覚がない愚か者……ということですね?」
 ニコリと上品に微笑みながら、アズール先輩が本題に入った。眼鏡の位置を鷹揚に直しながらも鋭く目を光らせている。
「待てよ。言い分を聞かないのはフェアじゃねぇ。おい、言いたいことがあるならさっさと弁解しろ。こっちも暇じゃねぇんだ」
 大欠伸をしながらレオナ先輩が私に水を向ける。一見、味方のように思えるが、その実、さっさと寮に戻って怠惰に過ごしたいというのが本音だろう。
「私は確かに色々なものをいただきますが、決して自分からねだったり命令して買っていただいたりしたことはありません」
「頼んでもないのに勝手に贈られるってことか?」
 カリム先輩があっけらかんとした調子で何の悪意もなく問うてくる。言い方に語弊はあるものの、大筋はその通りであるため、私は彼の言葉に頷いた。
「それ、本当かしらね」
「どういう意味でしょうか?」
「アンタに花束を贈ったうちの寮生だけど、以前にアンタに告白してフラれたそうじゃない。事実なの?」
 さすがに自身の管理する寮生が被害に遭ったとあっては黙っていられないのか、ここぞという場面でヴィル先輩が切り込んでくる。私は言葉に困って一瞬だけ間を置いた。
「答えないってことは、そうなのね?」
「つまり今まで貢いできたやつらは全員お前に惚れてる野郎どもってことか?」
「その気持ちを利用して……なんと恐ろしいことでしょう。慈悲の心が感じられませんね」
「うちのトランプ兵も弄んだということかい? 覚悟はおありだね?」
 次々に好戦的な言葉が浴びせられ、背中にじとりと汗が滲む。どうしよう、処罰とかされちゃうのかな。
「やめんか、お前たち。さすがにその生徒たちの気持ちをここで言うのは憚られるんじゃろ。それくらい察してやらんか」
 リリア先輩の鶴の一声でヴィル先輩が乗り出しかけた身を引く。私は少しだけホッとして、居住まいを正した。
「確かに私は、ありがたいことに好意を寄せていただくことが多くあります。けれど、それは私個人がどうというよりも女子生徒が一人という特性に他ならないことは皆さんもおわかりかと思います」
「そうか? オレはお前のこと、結構好きだぜ」
 カリム先輩が的外れながらも明るくフォローしてくれる。
「どの方ともお付き合いをする気持ちはなかったので真摯に断らせていただいたつもりです。でも、皆さんどういうわけか、私にやたらとプレゼントを下さって……」
「断ればいいじゃありませんか」
「もちろん断っています。ですが、告白も断った負い目があって強く出られないんです。それに、気持ちを受け取ってくれないならせめてプレゼントだけでも、と言われるとそうした方がいいような気がしてしまうし……受け取らないと後が怖いし……」
「そして果ては雑貨のみならず、高級コスメやアクセサリーまで手に入れているってわけね?」
「にもかかわらず、『頼んでないのに勝手に』? 『受け取らないと怖い』? 少しばかり苦しい言い分だとは思わないかい?」
「そもそもどうしてそんな状況になったんです? 本当は、貢ぎ物をくれたら考えてあげる……などと言って彼らを唆したのでは?」
「だから違います……!」
 みんな勝手なことを言うけれど、よく考えてみてほしい。「受け取ってくれよ……頼むからさぁ……!」と同年代の男の子に泣かれる私の気持ちを。「君のことを思って恥ずかしい思いをしながらもラッピングしてもらったんだ」って血走った目で迫られる私の気持ちを。頼んでないのにだよ。怖いじゃん。そんなのが続けば受け取った方が楽になっちゃうんだよ。
「イデア。アンタはどう思うの? さっきからだんまりじゃない」
 膠着状態に焦れたヴィル先輩がイデア先輩に意見を求める。彼は明らかに面倒そうな目つきで私を一瞥すると、見せつけるようなため息を一つ吐いた。
「別に意見もないしどうでもいいから黙ってるだけですが……ていうかそもそも何でこんな問題が上がってきたわけ?」
「匿名での投稿です。このボクの元に直々に訴えがあったのですから、見過ごすわけにはいきません」
「匿名ね……いや普通に考えて怪しくない? なんて書いてあったの?」
 リドル寮長が匿名の手紙とやらを取り出し、イデア先輩に差し出した。それを見た彼が一笑に付す。
「色々書かれてるけど、要はこれ、監督生氏が男に貢がせまくってるから処罰しろっていう話でしょ? 本当に正しいと思って訴えてきてるならそもそも匿名にする必要ないよね」
「イデアさんは何か監督生さんを信じる根拠がおありなんですか?」
「別にないけど。じゃあ貢いできた生徒全員に本当に無理矢理貢がされたのか確認すれば? 拙者は面倒だから絶対ごめんですけど。ていうかフラれた男のいやがらせなのでは? 普通に考えて」
 イデア先輩が私の命運を握っている気がする。無実で裁かれる可能性に怯えながら、私は無意識に掌を握り込んだ。
「馬鹿馬鹿しい……俺もこいつに賛同するわけじゃねぇがそんな面倒なことやってられっか。これ以上はやりたい奴だけでやれ。俺は帰る」
 直後、ガタリと激しい音を立てて立ち上がり、レオナ先輩は止める間もなくすたすたと会議室を出ていってしまった。一同は呆気にとられて目を瞬かせている。それは私も同様だった。
「ふむ……もうこの件はお開きでいいじゃろう」
「リリア先輩まで、どういうおつもりで?」
 リドル寮長が果敢にもリリア先輩に噛みつく。
「まぁ聞け。別にお主を責めているわけではない。ただ、わしにも時間がなくてな……残念ながらこれ以上は手伝ってやれん。レオナもイデアもあの様子じゃし、カリムも人を疑うことは好まんから、調べるには明らかな人員不足じゃ。また同じ問題が上がってくるようならその時に本格的に調査するということで良いじゃろう」
「オレもそれでいいと思うぜ! きっと何かの誤解だろ」
「リリアさんがそうおっしゃるなら……」
「……わかりました。監督生、キミ自身も振る舞いには気を付けるように。誤解を受けるような言動は慎むんだ」
 リリア先輩のおかげで命拾いした。リドル寮長の言い分には少しだけ納得できないけれど、今は仕方なく矛を収めておく。
「そうですね。私ももっと毅然とした態度で対応します。心は痛みますけど……」
「そういえば監督生氏、最近、婚約したって噂じゃん。それを断る口実にすればいいのでは? 自分のためには無理でも、婚約者のためを思えば断れるでしょ」
「そう、婚約……え……?」
 咄嗟のことで反応が遅れてしまう。婚約の事実を明かした!?  黙っている約束だったはずなのに、どうして。
 心臓のドキドキの種類が変わってしまう。私はイデア先輩の顔をあらためて見たが、もう彼の表情は無関心に変わっていた。
「……婚約だって?」
「監督生さんが、ですか?」
「おっ、いいなー! 相手は誰なんだ? みんなを呼んで、婚約披露パーティーでもやろうぜ!」
 恐らくあの様子では、彼は名乗り出ないだろう。私は半ば放心状態で口を開いた。
「あの……ええと……相手は言えないですけど、確かに婚約はしまして……そうですね、イデア先輩の言う通り、今後はそれを断る口実にして……お騒がせしないように努めようと思います。申し訳ありませんでした」
 自分が何を謝っているのかもわからないまま、とりあえず頭を下げる。これでいいんだよね。イデア先輩は注目を浴びるのが嫌いな人だから、ここで相手を明かさないのがベスト。興味も関心もなく冷たそうに見えるのに、危ない橋を渡ってまで私を助けてくれた―と考えるのは良く捉えすぎ?
「もう帰っていい? まったく時間の無駄でしたわ」
 イデア先輩がいち早く立ち上がりさっさと会議室を出る。まだ腑に落ちない表情の者も数名いたが、私の婚約の衝撃が疑惑を上回ったのか、リドル寮長が解散を宣言してその場はうまく収まった。私も無意味にしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて大人しく帰路につくことにした。
 帰りがてら、スマホを取り出して婚約者のメモリを開いた。メッセージを、と思ったのに指先が滑って発信ボタンを押してしまう。
「あ……」
「なに?」
 意外にもコール音一回で出てくれた。しかし声だけだと不機嫌なのか判断しかねる。私は咄嗟ともいえる勢いで口を開いた。
「ご、ごめんなさい、操作を誤ってしまって……先ほどはありがとうございました」
 イデア先輩は私の言葉に、あー、とか、うん、とかはっきりしない返事を寄越した。
「庇ってくれたんですよね。とても助かりました」
「別に。早く帰りたかっただけですし」
「巻き込んでしまってすみません。きっとみなさんの言う通り、本当はもっと早い段階からうまく断るべきだったと思います」
「貢いできた奴らは勝手にプレゼントして勝手に満足してるんだから、むしろその自己満足に巻き込まれたのは君の方では?」
 どうしてこの人は私を批判してくれないのだろう。まだよく知らないけどこの人だったら「よく知りもしない他人から物貰うとか、常識で考えてありえなくない? 絶対後で面倒なことになるってわかるし、自分からトラブル引き寄せて何がしたいの?」くらい言いそうなのに。
「でも私、貢いでくれって直接は言ってなくても、自分の好みや趣味を話したことはありました。好みのものを貰うと嬉しいのは本当ですし」
「それで、結局なにが言いたいわけ?」
 面倒そうに問われ、私はぐっと詰まった。無意識に止めてしまった足をなんとか再び動かす。
「物貰って嬉しいのも会話の中で自分の趣味を話すのも特別なことじゃないのでは? 君が何を言いたいのかよくわからないんですが」
 わからない、私だって何を言いたいのか。ただ、私のそうした心理を知らないで庇ってくれたのだとしたら途轍もない罪悪感に駆られてしまうから。
「私……イデア先輩が思ってるほどいい子じゃないです」
「……は?」
 少しの間を置いて、イデア先輩は電話口で笑い出した。
「いや、君がいい子とか拙者全然全く思っていないわけですが、何をどう勘違いしたらそんな自己評価高くいられるの? そもそも僕にとって君は問題児以外の何者でもないんだよ。なかなかギャグセンス高いっすなー。あー、おもしろ」
「そんなに笑わなくても……。でもまぁ、悪印象にならなかったならよかったですけど」
「ていうか別に君のことも庇ったわけじゃなくて思ったこと言っただけなんですが。その結果勝手に話が終わったのは運がよかったのかもね。あ、婚約者の正体を明かさなかったのはナイス判断ってことで褒めて遣わしますわ」
 この人のことがよくわからない。どう返していいのかわからなくて、私は無意識に足を速めた。オンボロ寮の入口が見えてきたところで、通話を切る。
「……なんでいるんですか?」
 たった今通話していた相手がそこに立っていた。なんで? 早く帰りたいんじゃなかったの?
「入れてくれないの?」
「いいですけど……」
 理由を告げないままでイデア先輩は私に歓迎を強要した。事情が呑み込めなくて脳内にはてなマークが浮かびまくる。
 とりあえず談話室のソファーにかけていただき、私も隣に座ってみる。二週間ぶり、そして人生で二度目の二人きりで、ひどく居心地が悪い。
「さっきの話だけど」
 意外にも先に口火を切ったのはイデア先輩だった。
「相手は貢ぎたくて貢いできてるんだから受け取ってもらった方が本望だろうし君に責任は全くないよ。なんか色々意地悪言われてたけど、気にしなくていいから」
 これは……慰めてくれているのだろうか? 電話では表情が見えなくてわかりにくかったし、言われていることは先ほどと大差ないのに、優しく感じられるから不思議だ。
「ありがとうございます。でも……私、本当にだめですね。これでも、告白を断る時は期待を持たせないように毅然とするように努めてるんです。だけどフラれた私に勇気を出して話しかけてくれてる上に、本気で私のために買ってきたって熱弁されると、どうしても……」
「い、いや、そんなに自分を責めることないでしょ」
「きっと私、貢げば付き合えそうなほどのとんでもない貧乏人に見えてるんでしょうね。確かにお金を持ってるとは言えないですけど」
「もういいって」
 言葉にする毎に落ち込む私を、イデア先輩が少し強い口調で咎めた。
「あー……仕方ないから本当のこと言うけど、君、貢げばヤらせてくれるとかって一部じゃ噂になってるよ。やっぱり君がフッた男共が流してるんだろうけど。それを信じた愚か者たちが君に熱心に貢いでたってわけ。だから君が貧乏人に見えるとか貢げば付き合いそうに見えてるとかじゃなくて……い、いや、貢げばヤらせてくれるとも思われてないだろうけど、そいつらは噂を信じただけだし、だ、だからつまり」
「もういいですよ、ありがとうございます」
「僕が……婚約者であるこの僕が気にしてないって言ってる。そ、それでいいでしょ。この話、終わり」
 しん、と部屋の中が静まり返る。そんな噂が、と知ってしまって心が重い。けれども、確かに私が真に信頼を得るべきなのは目の前にいる婚約者だ。彼が気にしていない―なるほどそれは、この話題を切り上げるのに十分な理由だった。
「あの……それで今日は、何の用事でしょうか?」
「別に様子を見たかっただけですけど。落ち込んでたら可哀想だし」
「え……それだけですか?」
「わ、悪い? でもまぁ大丈夫そうだし無駄な心配でしたわ。拙者はさっさと退散しますので」
 先ほど座ったばかりなのにもう立ち上がり、イデア先輩は振り向きもせずに玄関まで早足で向かった。随分と慌ただしいことだ。
「イデア先輩のおかげです」
 玄関ドアに手をかけた彼の背に声をかければ、戸惑った表情がこちらを向いた。
「な、なにが?」
「イデア先輩がお話を聞いてくれたから、思ったよりも大丈夫でした。本当にありがとうございます」
「……か……か、帰る……」
 小声でボソボソと呟いて、イデア先輩はオンボロ寮を飛び出して行ってしまった。なんだかこの前とはちょっと様子が違うように見えた。

 そしてまた連絡もなく一週間。学園中には私の婚約の噂が流れていたし、その件について当然によく人から追及されていたが、いつも難なく華麗に躱せていた。それもそのはず、当の婚約者自身が私を放置し、影も形も見せないものだから何の弁解もごまかしも必要ないためだ。
「結局、お前の婚約者って誰なの? そろそろ教えてくれてもよくね?」
「さぁね」
 移動教室の最中、廊下でエースがまとわりついてくる。一日に数回はこの話題が出されるから、きっと彼は根競べを挑んでいるのだろうと踏んでいる。しかし私は一切そのことに言及するつもりはなかったし、言う必要もないと考えていた。何より、これから人生を共にする婚約者の信頼をここで失うには早すぎる。
「さすがにオレらに黙ってるのは薄情なんじゃねーの?」
「うるさいなぁ……誰だっていいでしょ」
 半ば辟易しながら足を速めると、向かいからこちらへ件の婚約者が歩いてくる。校内で見かけるのは珍しいな、と思いながら、私は彼の存在など見えなかったかのように自然に視線を逸らした。向こうも私にまるで関心などないように―事実そうなのかもしれないが―一瞬たりともこちらを見ない。
 ―私の婚約者ってね、一週間も私を放置して何の連絡も寄越さないほどに私に興味がないの。愛のない契約なのよ。
 イデア先輩とのすれ違いざまに、当てつけのようにエースへ言ってやろうかと思ったが、これで下手に核心に近付かれたら困る。例えばあくまで予想なのだが、ジャックやルーク先輩ならばそんなことは絶対にしないだろう。故に婚約者候補から除外され、それを繰り返すことで微かにでも正解への確率は高まっていってしまう。
「じゃあ……イデア先輩とか? そういや就職斡旋の件、どうなったの?」
 しかしエースの方が逆に仕掛けてきた。イデア先輩がチラリとこちらを見る。私は全ての状況がおかしくて、思わず鼻で笑ってしまった。
「……なに?」
 婚約者がピタリと足を止める。エースの冗談だったはずなのに本当に当事者が立ち止まってしまったから、つい私も、まずいという表情になってしまう。
「いえ、すみません。シュラウド先輩が私の婚約者なんじゃないかと絶対にありえないようなことをエースが言ってきたものですから。お騒がせしてごめんなさい」
「あ、そう……」
「就職の件は、今色々とお話を進めてくれている最中なの。そうですよね、シュラウド先輩?」
 じっと押し黙ったイデア先輩は私の真意を推し量るようにこちらを見ていた。そして次に意外なことを口走る。
「そういえば僕も君の婚約者が誰かまでは知らないんですが。噂の問題児の婚約者がどんな物好きか興味ありますわ。相手は言わなくていいけど、どんな人なの?」
「そうだよ、ヒント!」
 さすがにわざとらしい言い方すぎたからか、まさかの反撃を喰らう。
 イデア先輩はどういうつもりなのだろう。私を試しているのか、私の彼への評価が知りたいのか、意地悪しているのか。ほんと、いい性格してる。
 だけどエースにヒントを与えることになりかねない。私が言葉に窮していると、エースがニヤッと悪戯でも思いついたかのような笑みを浮かべる。
「じゃあさ、婚約者のどんなとこが好きなわけ? それくらい教えてくれるっしょ?」
 いきなり難題が来た。好きなところ? 適当なヒントを与えるより難しい。そんなのまだ見つけられてないよ。
「え……えーっと……好きなところ……だよね。難しいなぁ……」
「たくさんありすぎてとか?」
「だったらいいんだけど、うーん……強いていうなら……名前? かな……?」
「な、名前!?」
「へ、へぇ……なんつーか、意外なとこきたな」
 当のイデア先輩でさえもぎょっとしている。でも私は彼の名を普通にいい名前だし素敵だと思っていた。「シュラウド先輩」よりも「イデア先輩」と呼ぶ方がどうやら私は好きみたいだ。
「うん。私あの人の名前、好き」
「けど普通は一番に名前って出てこなくね? つまり名前を含めた全部が好きっつーこと? 惚気かよ」
「え、全然だよ。むしろ今のところ、名前しか好きじゃないかも」
「婚約してるのに……?」
「あ……今ちょっと喧嘩中なの」
 別に好きでもないのに婚約したと知られてもいいけれど、うるさく言われるのもめんどくさい。愛し合っての婚約だという設定の方が無用な追及は避けられそうな気がする。それに、先日の寮長会議も記憶に新しい。利害の一致での婚約と知られたら周囲の心証は悪いだろうし、またリドル寮長が騒ぎそうな気もする。
「全然連絡もくれないし、私を放置するのが当たり前って感じで、酷い人なんだよ」
「で、それが寂しいって話?」
「だから違うってば!」
「ツンデレかよ」
 慌てたあまり、不要な情報までも与えてしまった気がする。これでジャックやルーク先輩のように恋人を大事にしそうな人は除外されてしまう。
 まぁ本当はそんなことはどうでもいいけれど。それよりもどういう理由か私を翻弄しようとしてきた婚約者に一発喰らわせてやれたことの方が大きい。
 さて、いい加減にチャイムが鳴ってしまう。私は形だけ敬うように見せかけて婚約者に向かって一礼した。エースも騒ぎながらついて来たが、先の私の言葉たちは彼にとって何のヒントにもなっていないようであった。

 くるくるとペンを回転させて今度は正真正銘の難題に取り掛かる。時刻はただいま二十二時。一応真面目に明日の予習をしているのだが、私の頭脳では理解の及ばないものがあまりに多く、今にも睡魔が勝利のゴングを打ち鳴らしてしまいそうだ。
「わっかんないなぁ……」
 独り言を呟いてみたところで急に知能が上がるわけでもない。無益な言葉は虚空に吸い込まれ、再び静寂が部屋を支配した。はずだった。
 どこかで低い音が聞こえる。咄嗟に部屋を見回すが音源が見当たらない。しばらく考えて、そういえばスマホはどこやったっけ、と思い至る。たぶん、誰かからの連絡だろう。
 鞄を探ってようやく機体を取り出す。帰ってから一度もスマホを見ていなかった集中力を自画自賛するより先に、目に入ってきた情報に思わず私は目を見開いた。
 ―着信、十五件……!?
 集中していたからか全然気付けなかった。一体誰から何事だと慌ててスマホを操作し、私は更に衝撃を受けることになる。まさかの全件、イデア先輩。さては昼間の件のクレームだろうか、とつい顔を顰めてしまう。
 どうしたものかと指先が空を泳いだ時、再びスマホが着信を告げた。さすがに諦めて通話に応じるしかないだろう。
「イデア先輩、すみませんでした。帰ってから全然スマホ見てなくて」
「……うん」
「イデア先輩? 大丈夫?」
 なんだか元気がないというより歯切れが悪い感じがする。いや、元からコミュ障の気があるからいつも通りといえばそうなのかもしれないが、それとはまたちょっと違う印象だというか。
「元気ないですか? それか昼間のこと怒ってますか?」
「いや……」
「ねぇイデア先輩ってば。本当にどうしたんですか?」
「お、怒ってないよ」
「そうですか?」
 ならば私の勘違いだろうか。私はイデア先輩の婚約者といっても大して一緒の時間は過ごしていない。まだエースやデュースのことの方が詳しいだろう。
「それよりどうしたんですか? 無駄なやりとりはなしっておっしゃってませんでしたっけ?」
「き、君が昼間に言ったんだろ……『全然連絡もくれない』って」
 確かに言った。言ったけれども。
「それでお電話くれたんですか?」
「別に深い意味なんてないってわかってたけど、もしも本当に連絡待ってるんだとしたら少しは気の毒な気がしなくもないし、まぁ大した労力でもありませんし……」
 ―え、優しすぎない? それともこれって普通なの? そんなはずないよね。
 どうしてこの人はストレートに優しさを表現しないのだろう。なんて素直じゃない人。余計なお世話だろうけど、たぶんそれで損していることがたくさんあると思う。
「そ、それにまぁ、婚約者としてやっていくっていうなら少しは仲良くしとくのも悪くないかと……無駄なやりとりとまでは言い切れないというか」
「私もそう思います」
「でも別に用事があるってわけじゃないから、しつこく連絡してごめん。じゃあおやすみ」
「あ、待って、イデア先輩」
 私が引き留めると、彼は一瞬だけ変な間を置いた。
「……うん。僕も好きだって思ってた」
「え!? な、何がですか?」
「君に名前を呼ばれること」
 心に一枚、花びらが落ちる。その言の葉は、まるで波紋が広がるように優しく全身に染みわたった。先の歯切れの悪さの原因にようやく思い至る。
「……イデア先輩」
「ん、なに?」
「イデア先輩」
「だ、だからなにって」
「……ふふ、呼んでみただけ」
「よ、用事ないなら切りますけど」
 電話口の向こうではどんな表情をしているのだろう。つい笑みがこぼれた。
「わからない問題があるんです。このまま教えてもらえますか?」
 イデア先輩は一転して落ち着いた声になった。やや気怠そうな調子で解説を紡いでいくそのリズムが妙に心地よい。
「それで今説明した薬草の効果を当てはめてみると、自然とどんな反応になるかわかるでしょ」
「……うん……」
「え……ね、ねぇちょっと、聞いてます? まだ説明途中なんですけど……お、起きて……」
 やや戸惑ったその声音をBGMに、私は眠りに落ちていた。気のせいだろうか、彼が私の名前を呼んだように思えた。



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