安っぽいセンチメンタル



 空気が肌に纏わりつくような蒸し暑さの中、ホームまでの階段を駆け上がる。悪戦苦闘してやっとの思いで着付けた浴衣が着崩れてしまっているのを気にする余裕もなく、タイミングよくホームに流れ込んできた電車に乗車する。
 息を整えながら空いている席に腰掛けると空調機の冷風が私の頬を掠めていき、生き返った心地がする。既に夕方6時を過ぎ日がすっかり傾いているというのに、熱さが和らぐ気配はない。ねっとりした不快な湿気は熱帯夜を予感させる。
 待ち合わせの時刻まであと30分もない。目的の駅までは20分弱で到着できるはずだが、浴衣で歩きにくいことに加えて、汗でぼろぼろになった化粧も直したい。果たして約束の時間に間に合うだろうか。
 そもそも浴衣を着るということが、私の全ての予定を狂わせた。浴衣を最後に着たのは大学生の夏祭りまで遡る。当時は着付けてくれる人もいたため滅多に出来ない格好に気分があがったが、いざ自分で着てみるとなると話は違う。何度も動画を確認しながらおはしょりを作り帯を締めなおしたが、期待していた完成像には程遠かった。
 だいたい、アラサー女の浴衣姿など誰に需要があるのだろう。
 ことの始まりは、一昨日の義勇君とのランチタイムだ。私たちは楽しくランチを済ませ、スーツ姿が反則的に格好良すぎる義勇君で目の保養をして、今日の花火大会の予定を決めていた。
「そういえば、花火大会は浴衣を着てくるようにと言われている」
「はぁ!?」
「大学時代の剣道部の同期に祭り好きなやつがいてな。そいつが言い出した」
「あるあるだね。大学生のノリを捨てきれない社会人。巻き込まれる身にもなってほしい」
「名前は着ていく浴衣はあるのか?」
「私も着なきゃだめ?ただでさえ、『あんた誰』状態の中に行くんだし、アラサー女がはしゃいでると思われたら嫌だし…」
「そんな嫌なやつらじゃないから安心しろ。それに、一人普段着では逆に浮いてしまわないか?」
 こんなやりとりで終了した1時間のランチタイムのせいで、私はその日都内のデパートに浴衣のセットを買いに行く羽目になったのだ。余計な出費と恨めしく思いつつ、やはり実際に着てみると気分は上がり、こういう「女の子」な自分もいるのだとほっとする。
 気が付けば電車のアナウンスが到着駅を告げている。いつのまにか車両に溢れかえった人達が窮屈そうにホームに押し出されていく様子を見れば、この花火大会の相当な混雑模様が伺える。
 きっと駅に設置されたトイレも、化粧直しをする女子達で満員御礼であることは容易に想像がついたため、巾着に入れた小さな手鏡で結い上げた髪の毛を撫でつけると、待ち合わせ場所の西口へと繋がる階段を足早に下りる。
 普段であればよっぽど泥酔している時でない限り階段を踏み外すような間抜けなことはしないのだが、今日は浴衣の歩き辛さに加えて約束時間が迫りくる焦燥感もあったのだろう。あろうことか私は、アニメのワンシーンのようにつるりと階段を踏み外し、腸が浮くような感覚に襲われる。
 それは一瞬の出来事で、頭ではこのまま階段から滑り落ちることをなんとか回避したいと思いつつも、それを防ぐことは困難だ。
「おっと、大丈夫ですか!?」
 観念して目を瞑った私に待っていたのは、衝撃ではなくがっしりとした腕の温もり。なんというロマンチックな展開。これこそ占いのご利益なのだろうか。
 慌てた様子の声音の主へと視線をやれば、額にうっすらと汗を滲ませ無事に転落を防げたことを安堵したような表情を浮かべたカマドベーカリーの長男坊が、私の身体をがっしりと掴んでいた。
「あれ、あなたは。善逸達の会社の」
「カマドベーカリーの竈門君!?」
 くりくりとした丸い双眼を見開いていた竈門君だが、直ぐに太陽のように暖かな笑顔を浮かべて私の身体を起こしてくれる。浴衣からちらりと覗いた鍛えられた瑞々しい肌に不覚にもドキリとする。
――今まで何とも思っていなかった異性と急接近
 再び先日の占いの文言が脳裏を掠めるが、剥きたてのゆで卵のようなつるんとした肌ににこにこと笑顔を湛える彼を見て、圧倒的な歳の差を感じて「ないない」と自嘲しながら小さく首を振る。
「えっと…」
「あ、私のことは名前でいいよ、竈門君」
「はい!ありがとうございます。名前さんも花火大会ですか?」
「こちらこそ、助けてくれてありがとね。…うん、実は幼馴染に誘われて。浴衣を着てる所を見ると、竈門君も花火大会に?」
「そうなんです。俺は、大学の部活仲間やOBの先輩と待ち合わせしているんです」
涼しげなモノトーンの浴衣に身を包んだ竈門君がピアスを揺らしてにっこりと笑うと、なるほど、確かにレアポケモン並みの抜群の浄化力がある。
「大学生は若くていいね。浴衣も似合ってる」
「名前さんも、その浴衣とてもお似合いです」
 あまりにもするすると言葉を発する彼に関心する。こんな礼儀正しい子が社交辞令の一つも使えないわけがない。嘴平君じゃあるまいし。それでも、本心から言ってくれているような気にさせてしまうのだから、この子は存外すごい子なのかもしれない。
「おい、こんな所に突っ立て派手に邪魔だぞ」
「あ、宇髄さん!義勇さんも」
 私達の少し上から聞こえてきた、自分の言うことは絶対だとでも言わんばかりの自信満々口調の主に視線を移すと、隣では少しびっくりしたような表情を浮かべる義勇君の姿があった。
「義勇君!あれ、もしかして義勇君の大学時代の後輩って」
「あぁ。そこの炭治郎だが…まさかお前たちも知り合いだったのか?」
「いや、知り合いっていうか、なんていうか。竈門君のご実家のパン屋さんがうちの会社の近くにあるから一方的に知っていたというか…あ、でも一昨日うちの会社にOB訪問してくれたんだよね」
「はい!名前さんの幼馴染って義勇さんだったんですね。うわぁ、こんな偶然あるんですね!」
「おいおい、地味に俺を無視すんじゃねーよ」
 義勇君の隣に立った長身の男性が、こいつは誰だと好奇と猜疑を混ぜたような表情を浮かべて私を見下ろしている。
 義勇君の言う祭り好きの同期は絶対にこの男だと確信する。派手な浴衣に派手なアクセサリー。それなのにめちゃめちゃイケメンでめちゃめちゃ似合っているのが若干癪にさわる。
「紹介が遅れてすみません。宇髄さん、この方は」
 竈門君が律儀に私をお祭り派手男に紹介しようとしてくれた所で、ホームに停車した電車から人の波が押し寄せてくる。花火開始間近の駅の混雑はピークに達していた。
 改札に続く階段のど真ん中で盛り上がる私達が邪魔であるのは火を見るより明らかであり、自己紹介は一旦後に、当初の待ち合わせ場所である西口までの道を急いだ。
 待ち合わせ場所には、涼しげな浴衣に身を包んだ佳麗な女性の集団が、団扇で項に風を送りながら話に花を咲かせていた。明らかに目を引くその集団の一人が私達に気が付くと、「5分遅刻ですよ」と口元を小さく綻ばす。
 こんなに若く可愛らしい女性達と今日の花火大会を過ごさなければならないのかと、到着5分で後悔の仄暗い気持ちが胸中にじわじわ広がっていく。義勇君の馬鹿。どっちにしろ私は浮いてるよ。
 竈門君が律儀に私達を紹介しあってくれた。なんていい子なのだろう。その説明によると、どうやら宇髄さんは義勇君の同期であり、大手商社マンであり、ここにいる3名の女性の彼氏であられるらしい。どこまでも派手な男なのだともはや感服しつつ、彼女達は本当にそれでいいのかなと不思議に思う。自分だったら、大好きな人に自分だけを見てもらいたいけれど。
 もう一人の可愛らしい少女のような女の子はカナヲちゃんだと教えてくれた。彼女を一目みただけで竈門君のことが好きなのだと伝わってきた。竈門君を見つめる瞳が恋する乙女のそれであった。やはり若さはいいなと、ここでも若々しい2人に羨望の眼差しを向ける。
「あら、冨岡さんの彼女さんですか?いいですね、お熱くて」
「ええつ!?違います。私と義勇君はただの幼馴染なんです。今日は、義勇君が落ち込んでいた私を見かねて誘ってくれただけです」
 そうだったのですねと花笑む彼女は丁寧に自己紹介をしてくれる。どうやらこの胡蝶さんも義勇君の同期のようで、都内の大学病院で医師として勤務しているとのことだった。才色兼備という言葉は、こういう女性のためにあるのだと納得する。
「それにしても、恋愛には興味がなさそうな冨岡さんがいきなり女性を連れてくると言い出したものですから、てっきり彼女さんなのかと思いました。ほら、この人顔はいいのに愛想がないでしょ?大学時代から浮いた話もあまり聞いたことがなかったですから」
 可愛い顔をして中々ぐさりとしたところをついてくる胡蝶さんに、義勇君は明らかにむっとしたような顔を向けている。
 なんだかんだでお似合いなような気もする二人を眺めながら、人目を惹く美男美女だと再認識する。他のペアもまたしかりだ。
 なんだかここにいる自分がとても惨めになってきた。自分一人だけ余り物のような気がしてしまう。どうして私は今ここにいるのだろう。やはり内輪の集まりになんて参加するものじゃない。着崩れた着物や、汗で落ちてしまった化粧が余計に惨めさを引き立てる。
 遠くで聞こえ始めたひゅるひゅるとした口笛のような花火の打ち上げ音を聞きながら、あの占いは結局当たらなかったと、私は小さく唇を噛み締めた。



[prev] [Top] [next]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -