「彼」の話



 救急車で運ばれてから三日経ったが、あの後あっさりと退院できたのには拍子抜けだった。退院までの間は胡蝶さんから連絡を受けた義勇君が私に付き添ってくれ、その後家まで送ってくれた。ずっと手を握って私を励まし、慰め、癒してくれた。
 今まで私をただの幼馴染として一度も見ていなかったという熱烈な告白の後だから、顔を合わせるのに照れくさい気持ちになるかと思ったが、意外に心は冷静だった。というよりも、私は少しだけショックを受けていた。義勇君を今までたくさん傷つけてしまったことはもちろんだが、私が彼に感じていた絆や友情を彼は全く感じていなかったのだから。そして、彼との子供が流れてしまったことにもショックどころか安堵している自分にまたショックを受けるという複雑な心境でもあった。私は人間としてどこか欠陥がある非情な精神の持ち主なのだと突き付けられたような気がしたのだ。
「具合はどうだ、名前」
 まだ本調子でなく仕事に行けずにいる私を、義勇君は今日も見舞ってくれている。この前、あれだけ私と都合がつかなかったのに毎日私の家の来てくれている彼を見れば、無理をしていることは火を見るより明らかだった。どちらかというと私のことなんかより、義勇君の体調の方が心配になってしまう。事実、少しだけ顔色が優れない。
「毎日ありがとう、義勇君。私は大丈夫だよ。明日には会社に復帰できるし」
「そうか……無理はするなよ」
「うん。だから……もう来なくていいよ」
 私の言葉に、義勇君は少し目を見開き、驚いたように言った。
「……迷惑だったか?」
「そうじゃないよ」
 私は苦笑しながら弁解する。迷惑だなんて、思うはずがない。こんなに私に気を遣ってくれて大切にしてくれる彼をどうして迷惑だなんて思えるだろうか。
「ただ、一人で色々考えたいっていうか……義勇君にまだちゃんと返事もしてないし」
「そのことだったら気にしなくていい」
 この人はどれだけ優しいのだろうか。もう私に囚われずに自由になってほしい。自分で気づいていないだけでものすごい魅力があるのに、私になんて構っている場合じゃないんだよ、義勇君は。
「……ていうか、あのプロポーズってもう無効だよね?」
「名前? 何を言うんだ」
 何とか絞り出した私の声を聞いて、さっきよりもさらに目を見開いて焦ったように義勇君が言う。
「だってさ、責任取って結婚、って感じだったし。だから子供がいなくなった今、なかったことにしたいって本当は思ってるでしょ?」
 私が義勇君の目をじっと見れば、無表情になった彼が見返してくる。いいんだ、これで。もう彼は彼の忙しい日常に戻ってくれて構わない。私という幼馴染がいたことを人生の汚点と思うくらいすっかり忘れて、さっさとフランスに行ってしまえばいい。そして綺麗なフランス人とでも結婚すればいい。
「だからさ、さっさとフランスに転勤しなよ。そりゃ寂しいけど……手紙くらいは送るし」
 私はタオルケットをぎゅっと握りしめて、無意味にその模様を見つめた。規則正しい正方形が震えている。ここまで言えば、義勇君も私にいよいよ呆れ果てるだろう。無駄な時間を過ごしたと怒りだしてもおかしくない。
「……俺がその言葉を本気にすると思うのか?」
 息を漏らした義勇君が私の頭を撫でた。予想外の言葉に、思わず彼を見上げて口を開けて呆けてしまう。
「お前が強がりでそんなことを言うことくらい、百年前からわかっている」
「……生まれてないじゃん」
 私はタオルケットに顔を埋めて泣き顔を隠した。だけどどうせそんなことも、この凪いだ海のように穏やかな幼馴染にはお見通しで、あえてそれを口にしない優しさを持っている。こんなに私のことをわかってくれている。優秀で、思いやりがあって、見守ってくれる素敵な人。どう考えても彼に出会えたことは奇跡だ。
 なのに、なのに。
どうして私は未だに彼の手を取る勇気が出ないのだろう。

「心配で来ちゃいました」
 義勇君は夜の七時くらいに私の家を後にした。入れ替わるように炭治郎が私の家を訪れる。少しでもタイミングがずれていたら鉢合わせしていたところだ。自分のあまりの不誠実さに胸が悪くなる。私は炭治郎との約束を守れていなかった。そう、未だに義勇君に炭治郎との交際を打ち明けていないどころか、プロポーズまでされてしまっている。
私はしばらく炭治郎を避けていた。正確には、なんと説明すればいいかもわからなかったから、今の今まで連絡をできずにいた。それでもそんな私を少しも責めずに、炭治郎は家まで見舞いに来てくれた。
「誰から聞いたの?」
 彼を出迎えて再びベッドに横になり、わかり切っていることをあえて聞く。なんと説明すればいいのかわからないのは今現在でも同じだったから、少しでも別の話題でお茶を濁していたかった。
「善逸から。職場で倒れて、救急車で運ばれたって」
「やっぱり我妻くん……彼、何でも炭治郎に報告しちゃうんだから」
 くすっと笑うと、炭治郎も困ったように笑った。彼は彼で、何をどう聞いたらいいのかわからずに戸惑っているのだろうと思う。私はその優しさに付け込んで黙っていた。何から話したらいいのだろうか。私は彼との関係をどうしようと思っているのだろうか。そもそも、私に選択肢はあるのだろうか。炭治郎から私の手を放す事だって十分にあり得るというのに。
「明日から出社するから、もう大丈夫。今月忙しいのに、ずいぶん迷惑かけちゃったな」
「そんな……体調不良なら仕方ないですよ。誰も責めたりしません」
「ただの体調不良ならね」
「え、どういうことですか?」
 私は自嘲気味に笑った。確かに体調不良だったとしたら責めるような人間はうちの会社にはいないだろう。しかし、自業自得の末の体調不良――例えば付き合っていない男性と生で性行為に及ぶとか――だったとしたら、一気に同情から非難へと掌が返されることは想像に難くない。
「自業自得ってこと。同情なんてされるような事情じゃないからね、今回倒れたのは」
 はぁっと盛大に天井にため息を吐く。炭治郎の心配そうな視線が注いでいるのはわかっていたけれど、目を合わせる勇気が私にはなかった。
「炭治郎は、部活、どうなの?」
 あからさまに核心を避けた私に炭治郎は何か言いたそうにしたが、結局困ったように笑うだけだった。
「順調ですよ。来週、別の大学の剣道部と合宿することになっているんです」
「合宿かぁ。なんか、青春って感じ」
「そうですか?」
 はは、と笑った眩しい笑顔の彼を、私はいつになく遠く感じた。ねぇ、炭治郎。私ね、義勇君との子供ができちゃったの。でもね、流産しちゃったの。そしてそれを、ああよかった、助かった、なんて思っているような極悪非道な女なの。極めつけに、私は義勇君にプロポーズされてるの。しかもね、炭治郎と付き合ってるから無理、って言わずに保留にしてるの。こんなこと言ったら、君は受け止められる? 絶対無理だよね?
 インターホンが無言の部屋に響いた。天の助けかと思うようなその音に、私はベッドから起き上がろうとする。
「俺が出ますから。名前さんは横になっていてください」
「ごめんね、ありがとう」
 私は今も脳内で炭治郎への言い訳をぐるぐると考えている。許されたいのか。失望されるのが怖いのか。一体何を恐れているのか。
 玄関先で、聞きなれた男性の声が聞こえた。
「炭治郎か……?」
「え、義勇さん? どうしてここに」
「今日忘れた物を取りに来たのだが……」
「……今日、ですか……?」
 玄関から二人の男性が戻ってくる。一人は年下の可愛い恋人。もう一人は生まれたときから一緒の優しい幼馴染。
「二人とも、座って」
 私はどちらの顔も見ずに告げた。この状況に対して何か言わなくてはと思う。しかしこの期に及んでもまだ、私は誰に何を言っていいのかわかっていなかった。



[prev] [Top] [next]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -