罪の代償



 底知れぬ不安の中で一人悶々とした週末を過ごした私は、週明け早々有給を取り、いつもの産婦人科を受診した。クリニックの自動扉を潜れば暗黒の中にたった一人で足を踏み入れたような恐怖に襲われる。月曜日の院内は比較的空いており、待合室の人もまばらだった。
 受付を済ませ番号札を渡される。最近では個人情報等の観点から患者を番号で呼ぶ病院が増えていると聞く。札を握りしめゆったりしたソファに腰掛けてさり気なく周囲に視線を走らすと、同年代の女性や大きなお腹を抱える女性が診察までの時間を持て余している。
 彼女達の未来は希望に溢れているのだろうか。私はふとそんなことを考えた。身から出た錆であるにも関わらず、自分が世界で一番不幸なのではないかと感じ、悲劇のヒロインぶりたくなる。
10分後に診察の順番を知らせるアナウンスが響く。楽観視出来ない現実が、憂鬱と絶望になって胃の底から込み上げた。
 
 警告音のように耳障りに感じる着信音で目が覚める。週末は寝不足が続いていたため、病院から帰宅した私はソファで眠りに落ちてしまったらしい。慌ててテーブルに無造作に放り投げたスマホ手に取ると、義勇君の名前が表示されていた。
 既に太陽は頂点を過ぎていたが、それでもこんな昼間から義勇君が電話をしてくることなど珍しい。私の指は一瞬だけ躊躇して通話ボタンをタップした。
『もしもし』
『名前か?今どこにいる?』
『今は家にいるよ。今日は用事があってお休みを貰ってたんだ。…義勇君こそ、こんな時間にどうしたの?まだ職場でしょ?』
『あぁ。…少し話したいことがある。今日仕事が終わったら名前の家に行こうと思うが、構わないか?』
 義勇君の突然の申し出に心がざわつく。正直な所彼の前で冷静にしていられる自信がなかった。私はきっと彼に縋ってしまうし、優しい彼はきっとそれを受け止めてくれるだろう。でも本当にそれでいいのだろうか。炭治郎の眩しい笑顔が脳裏を掠める。私はどれだけ人の心を踏みにじれば気が済むのだろうか。
 言葉が喉元で足踏みをするように自分の気持ちが声にならなかった。電話越しで声もなく泣き出した私を敏感に察知した幼馴染の「大丈夫か」という優しい声に、私は嗚咽をこらえきれなかった。

 初秋でまだまだ日は長いといっても、海外転勤を目前にする多忙の彼が薄暗くなる前に仕事を切り上げ私の元を訪ねることが、どれだけ大変かということは想像に難くなかった。走ってきてくれたのだろうか、少し乱れた呼吸に、義勇君の溢れ出る優しさを感じて寂寞の想いに拍車がかかる。
「義勇君、早かったね。仕事は大丈夫だった?」
「ああ。こちらこそ、突然すまない」
「ううん。私はお休みだったから全然平気。…こんな所で立ち話もなんだし、その…あがっていけば?」
 以前義勇君が家を訪ねてきた時のやり取りを思いだし、私はおそるおそるスリッパを勧める。私達の関係が変化してしまったからなのか、義勇君は躊躇うことなく框を跨いだ。
「それで…、話って?」
 いつかのように義勇君をソファに促して、私も横にちょこんと腰掛ける。不自然に空いた二人の距離が、20年以上変わらなかった私達の関係の変易を如実に表している気がした。
「実は、今日胡蝶からあることを聞いた」
「胡蝶さんて、義勇君の大学のご友人の?確か大学病院で医師をされているって」
「そうだ。産婦人科から出てくる名前を見たと言っていた。…あのクリニックは彼女の実家だ」
「ええっ…!?」
「なぁ、やはり何かあったのか?」
 世間は狭いと思ったことは今までに何度もあったけれども、どうしてこうも広い世の中の一画で運命というものは回っていくのだろうか。
 突然の告白に動揺し二の足を踏むが、憂いを含んだ真剣な双眸に見つめられてしまえば、ひた隠しにすることは到底無理な話であった。
 私はびくびくしながら義勇君に事実を告げた。途中彼も辛そうに端正な眉目を歪めたが、堪えきれずにはらはらと涙を流して伝える私を大きな胸に引き寄せて、落ち着かせるように繰り返し頭を撫でていてくれた。
 診察結果は、妊娠判定不可能。現時点では胎嚢も心拍も確認出来ないため、2週間後に再度受診をして欲しい。それが医師から告げられた診断だった。
「すまない、名前。本当に…っ」
 義勇君が私の髪に顔を埋めるように口付けて、抱きしめる手に力を込める。いつも冷静沈着な彼の声が震えている。泣いているのかもしれない。こんなに優しい幼馴染を泣かせてしまう私は、どこまで酷い女なのだろう。
「なんで義勇君が謝るの。悪いのは全部私なのに」
「俺が、俺があの日…」
 頭頂部に雨水が落ちてきたかのように冷たさが滲んでいく。あぁ、やっぱり義勇君は泣いているんだ。こんな私のために胸を痛めて。
「義勇君泣かないで。義勇君が泣いてると私も辛いから。…それにまだ確定しているわけじゃないから」
 そんなことを口では言いつつも、妊娠の可能性が100%なのはほぼ間違いなかった。胎児の確認が出来るまで少し時間を要する。医師の診察はとどのつまりそういうことだ。
「名前。…俺と結婚して欲しい」
 いつもは淡々とした彼の声に感情の波が揺れている。胸から顔をあげて見上げるように視線をやれば、義勇君の少し赤く充血した真摯な瞳に見つめられる。
「ずっと名前のことが好きだった。俺は、ただの幼馴染として名前を見たことは一度もない」
「義勇君…」
「好きだ。愛している。名前、どうか俺の手で幸せにさせてくれ」
 義勇君の真っ直ぐな台詞が心に刺さる。
「どうして、そんなこと今更っ…言うのぉ」
 彼は今までどういう気持ちで私の数々の相談にのってくれていたのだろう。そしてそれは、どれだけ彼を傷つけてしまってきたのだろう。不器用すぎる義勇君の優しさが、ぼろぼろになった私の心を柔らかく包み込んでいく。
 きっと私の正解は彼の手をとることなのだろう。義勇君なら私を幸せにしてくれることは明白だった。

 私が救急車で運ばれたのはそれから2週間後のことだった。職場で急激な腹痛に襲われた私は自力で動くことが出来なかった。あまりの激痛とそれに伴って引き起こされた過呼吸により、その後のことはぼんやりとしか覚えていない。怒鳴る様に指示をする鬼舞辻課長に抱えられたことだけは可笑しいくらいに鮮明に覚えていたが。
 イソジンの匂いが鼻につく救急外来のベッドに横たわっている私は、左腕の留置針から全身へと送り込まれる点滴のバックへ視線を走らす。かなり大げさなことになってしまったと小さく溜息をつく。ここ最近は多忙と睡眠不足とストレスで疲労がピークに達しており、自己管理が十分に出来ていたとは言い難かった。
 しかしそれが今回の腹痛の原因と直接関係しているとは当然ながら思わなかった。私はこの痛みにある確信を持っていた。
「苗字さん、担当医の胡蝶です。お痛みはどうですか?」
 救急外来に並べられたベッドを区切るカーテンが開けられる。ひょっこりと顔を覗かせたのは、胡蝶さんだった。
「…胡蝶さん。はい、痛みはかなりよくなりました。大したこともないのに、ご迷惑をおかけしてしまって。大学病院はただでさえ忙しいのに。…お恥ずかしいです」
「お気になさらないでください。この病院は都心にありますから、軽傷から重症まで多くの患者さんの窓口になっているんです」
 胡蝶さんはベッドの横に置かれていた丸椅子に腰かけて、聴診と触診で私の身体を確認していく。「問題ないですね」と耳から聴診器を外すと、逡巡した様子で言葉を続ける。
「苗字さん。今回の腹痛の原因ですが…、流産によるものです。妊娠されていたことはご存じでしたか?」
 予想通りの結末に、不思議と涙は沸いてこなかった。もしかすると心のどこかで安堵するような気持ちがあったのかもしれない。
「以前苗字さんを私の実家のクリニックでお見かけしました。もしかしてと思っていたのですが」
「……はい、仰る通りです。その時は、確定診断をするには時期が早いといわれてしまい、…明日再診の予定だったのですが」
「そうですか。お気持ちはお察しします。お辛いと思いますが、妊娠初期は2割近くの方が流産を経験されます。原因は胎児そのものにあることが多いと言われています。ですから、ご自分を責めないで上げてくださいね」
 諭すような彼女の言葉は、母親になる覚悟もなかった私には身に余る言葉だった。そんな言葉をかけてもらえるほど私は立派な者ではない。
 私の手を取って優しく微笑む彼女の笑顔が歪んでいく。私はそこで初めて自分が泣いていたことに気が付いた。



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