ミラーリング



「……竈門君こそ、私が結婚に焦ってるアラサーだからってからかってるんじゃないの?」
 咄嗟に出た言葉は、私の臆病さを前面に出したような台詞だった。かすかな震えは隠しきれておらず、彼を見上げても視線を合わせる勇気は出ない。
「そんなわけないですよ」
 竈門君は、さっきの私と似た台詞を吐いた。焦りと怒りからなのか、彼の声も震えている。なんだか似た者同士みたいで笑えた。
「焦ってる人って、騙しやすいもんね」
「だからそんなことないですって」
 ドサリとサンドイッチの袋が地面に落ちる。私もまた、先ほどの竈門君と同じように彼の唇を奪った。
 ピアスで飾られた耳を優しくなぞり、何度か唇を押し付ける。舌の先で何度か唇を叩くと、彼はビクリと肩を震わせながらもほんの僅かに口を開いた。そこから唇を滑り込ませ、彼の舌と絡ませ合う。ぴちゃぴちゃという粘着質な音が路地裏に響いた。息が続かないのか、竈門君が私の肩を何度が叩く。それでも私はキスを止めなかった。
私はキスをしながら先日の大学生カップルについて考えていた。あの若々しく初々しい二人と竈門君は同い年くらいだ。彼にはあのカップルと同じく未来がある。だって、もし私を選んじゃったら。竈門君、君の未来は。
「っ、名前さん!」
 竈門君が私を強引に引きはがした。はっ、はっ、と涙目で息をする彼はやはり私から見れば初々しいことこの上ない。歯が当たったのか、私の唇から血が垂れた。
「名前さん……こんな……」
「何、びっくりしてるの? さっき竈門君だってしたじゃない」
「あ、あれは……」
「私と恋するって、こういうことだよ」
竈門君は息を荒げたままで言葉を失った。何かを言おうと開いた口が、意味をなさずに噛みしめられる。
「すぐキスして、セックスして、結婚だよ。どうやってベッドに連れ込もうかとか、そんな駆け引き一切必要ないの。いつ籍入れるか、式はどうするか、悩むのはそっちなんだよ。まだ大学生の竈門君に、そんなの想像できないでしょ? そんな覚悟ないでしょ?」
 涙目で私を見下ろす竈門君に私は残酷な真実を告げる。でも、仕方ない。本当にこれはその通りなのだから。
 私は竈門君の耳を撫で、そのまま頬に触れた。あの太陽みたいな笑顔が今にも泣きそうに歪んでいる。それを見るととても心が痛んだけれど、私は自分の頬に流れ出した涙も拭わずに、血を吐く思いで一線を引いた。
「君ってほんとに、かわいいね」

 あれから一週間が経った。私は相変わらず冴えない毎日を送っているし、何度かきた竈門君と義勇君からの連絡を見る勇気も出なかったから、どんどん未読メッセージだけが溜まっていく。唇の傷はとうに治っていたけれど、心がずっと重かった。
 週の半ばは特別憂鬱だ。水曜はいつも以上にやる気が出ない。だるい体を起こして仕方なく出社準備をし、満員電車に揺られる。たった十五分程度でもなかなかに精神的にくるものがあるが、毎日の儀式と思って仕方なく耐えぬけば、騒がしいオフィス街に一瞬で到着だ。
「おっす、苗字」
「おはよ、村田くん」
 いつも以上にいつも通りの村田くんが軽く手を上げる。私にとって、異性でこんなに気楽に接せられる人はなかなかないから彼はかなり貴重な人材だ。
「今日もOB訪問あるってよ。えっと、十時半からだ」
「そっか。今日はどんな子が来るんだろうね」
「今日は女子が何人か来るって。可愛い子いるかな」
「セクハラしないように気を付けてよ?」
 へいへい、と軽く返した村田くんに息を吐き、私は仕事に取り掛かる。
 最近の私は仕事に没頭していた。人間、やるべきことがあれば余計なことを考える暇なんて生まれない。他の人の業務も積極的に手伝うことで残業時間が増え、残業代も増える。たくさん稼げている。いいサイクルだ。人の覚えも良くなるし、成績も上がる。悪いことなんて一つもない。
「不死川係長。先日の会議の件なんですが」
 あの日の途中で抜けた会議について、技術部門の不死川係長に確認を取る。いつもは積極性に乏しい私からの自発的な声かけに、不死川係長は目を見開いた。
「あァ……工場の衛生管理の件か?」
「はい。確か、食品工場のレーンに衛生観点からの問題点が浮上したんですよね」
「そうだ」
 不死川係長は意外そうにしながらもいくつかの私の質問に的確に答え、疑問を解決してくれた。
「ありがとうございました」
 頭を下げ、事務所を見回す。次は営業部だ。問題児の嘴平くんが退屈そうに机に足を載せている。
「嘴平くん、いいかな」
「あぁ?」
 声をかけると、ガラの悪いチンピラのような返答がくる。しかしいつものことなので特に気にならなかった。
「先週の営業車の利用状況でわからないところがあって。駅の近くのこの現場に長時間止まっていたみたいだけど、これは休憩かな? ほら、木曜の昼過ぎなんだけど」
「それは……あー……あれだ、隣町の会社の偉い奴がいきなりオンなんとか会議できねぇかって言うからコンビニの駐車場でやってた」
「オンライン会議ね、ありがとう。じゃあ、こっちは?」
「そっちは休憩。ずらしてとった。文句あんのか」
「別にないよ。教えてくれてありがとう」
 メモを取り、営業部を後にする。もう一人、営業部に用事があるが、少しだけ声をかけにくい。しかし、話しかけないと仕事が進まない。
 私は金髪の彼の肩を思い切って叩いた。
「あの、我妻くん。今いいかな?」
「名前さん。何ですか?」
「社内旅行の件なんだけど、そろそろ行先って確定できそう? 参加者リストとスケジュールを福祉会に提出して、お金振り込んでもらわないといけなくて」
「もうそんな時期ですか。すぐやりますね」
「今週中にはほしいんだけど、大丈夫かな?」
「大丈夫です」
 これで最も気まずい確認事項が終了する。別に我妻くんは何も悪くないのだけれど、変に鋭いから気にかかる。嘴平くんは何も考えてなさそうだから、同じ竈門君の友達でも全く警戒しなくて平気なのに。
「あ、名前さん」
「なに?」
「唇、治ったんですね」
 パッと唇に手をやって思わず赤くなってしまう。やっぱり、竈門君から何か聞いているのだろうか。もしそうだとしたら、私は完全に彼を弄んだ悪女として認識されているはずで、我妻くんからしたら親友を傷つけた敵だろう。
 振り返って自席に戻る。技術部、営業部への用事は済んだ。あとはもらった情報を自分の仕事に反映するだけだ。一心不乱に仕事に打ち込む私を見て、村田くんが首を傾げた。
「なんか今日、ずいぶんとやる気じゃね?」
「私はいつでもやる気だよ!」
「嘘くせー」
 村田くんの軽口に笑い合い、次の業務に移る。そう、村田くんも意外に鋭いのだ。
「苗字」
「……はいっ!」
 鬼の鬼舞辻の声が背後から聞こえた。ぱっと振り返り姿勢を正す。大丈夫だ、今の私は卑屈じゃないし、真面目に仕事をしている。鬼舞辻課長なんて怖くない。
「何でしょうか、鬼舞辻課長」
「今日のリストだ」
「リストって何の……」
 答える気もなさそうに一枚の紙を手渡して、鬼舞辻課長は去っていった。よく見てみると、今日のOB訪問のリストだった。ふぅっと息を吐き、無意識に噴き出していた額の汗を拭う。
「……怖ぇー……。苗字、大丈夫か?」
「……うん、平気……」
 返事が遅れたのは鬼舞辻課長が怖かったからではない。OB訪問のリストに知った名前を見たからだ。
 栗花落カナヲ。
 この子はきっと、花火大会とパンケーキの時の子だ。間違いない。とても可愛らしい子なのに、私のせいで悲しい表情ばかりさせてしまった。
 この子に合わせる顔などあるはずもなく、私は間もなく十時を指す掛け時計をぼんやり見ることしかできなかった。



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