アバンチュール



 よくよく考えれば、竈門君のご実家のベーカリーは義勇君が選んでくれたお店の近くであり、竈門君と遭遇することは必然だったのかもしれない。
 何かを問いたげな眼差しで私を見つめる竈門君の視線に耐えられず、私の目線を辿るように振り返った義勇君の腕を振り払って駅の改札を潜り抜け、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んで逃げるようにその場を後にした。それが昨晩の出来事である。
 出会いがないだのなんだのと騒いで裏切られて打ちのめされていた私を憐れんで、神様がまとめてご褒美をくれたのかと思う程色々なことがありすぎて、気持ちが追い付かない。
 義勇君が私にしたキスの意味はやっぱりそういうこと?竈門君は昨日の私達を見て何を思った?そして肝心な私の気持ちはいったいどこにあるのだろう。
 考えれば考えるだけ思考の糸が複雑に絡み合い、迷宮に放り込まれたみたいに心が不安定に崩れていく。出来ることならもっと違う形のご褒美をくれればよかったのに。やっぱり神様は不公平だ。
 
 土曜日の一件で折角の週末を棒に振った私は、蓄積した疲労が滲んだ自分でもぞっとする顔をメイクで隠すこともせずに出社する。月曜日の朝っぱらからミィーティングの予定があるなんてついていない。加えてミーティングの主催者が不死川係長であるから、恐ろしくて欠席なんて出来たものではない。
「名前さん、おはようございます!土曜日はどうでした…ってなんかお疲れですか?」
 月曜の朝とは思えないテンションの蜜璃ちゃんの明るい声が、女子トイレの洗面台に手をついて大きく溜息を付く私の耳に飛び込んでくる。
「…おはよう蜜璃ちゃん。月曜日から元気でいいね」
「あのぉ、名前さん、大丈夫ですか?」
 洗面台の上に設置された大きな鏡越しに、蜜璃ちゃんの心配そうな表情が伺える。悶々と燻る気持ちを彼女にぶちまけたい思いに駆られるが、腕時計にちらりと目をやるとミーティング開始5分前を告げており、それが叶わないことに失望する。
 後で話を聞いて欲しいと、魂が吸い取られてしまったような覇気のない声を残し女子トイレを後にしてデスクに戻ると、ミーティングで使用する人数分の資料をよっこらせと持ち上げる。
 ふとデスクに無造作に放置した真新しいスマホに視線を移せば、1通のラインメッセージの受診を知らせており、心臓が波打つように早くなる。一旦資料をデスクに戻し不安と期待に震える指先でアプリをタップすると、竈門君の名前がメッセージの一番上に表示されていた。嬉しいような居た堪れないような気持ちがごちゃ混ぜとなって突き上げてきて、私は思わずスマホの画面を消してそのまま机に叩きつけるよう元に戻す。
 向かいの席の村田君が少し驚いた様子で眉を顰めてこちらを見たことを気にも留めずに、デスクの上の資料を再び胸に抱えた私は、少し離れた場所にある会議室までの廊下を急いだ。

「おい苗字。お前今日はどうしたァ?ミーティングには遅刻する、用意した資料は抜けがある、挙句の果てに居眠りだァ?死人みてェな面しやがって。休み明けだからって弛んでんじゃねェのか?」
「はい…。本当に申し訳ございません」
 不死川係長、それは俗にいうパワハラというやつですよという言葉をなんとか呑み込んで、私は係長の前で小さく縮こまって頭を下げる。私に非があることも十二分に分かっているからだ。
 本日のミーティングは散々だった。詳細は不死川係長が申し上げてくれた通りである。私は殊の外精神的なダメージを受けてしまっているようだ。竈門君と義勇君が私の心をかき乱す。
「少し外出て頭冷やせェ。この間品評会で注文したサンドイッチ、ここにいる全員分買ってこい。我妻の知り合いの店のやつだ」
「えぇっ!?カマドベーカリーですか!?私がですか!?」
 唐突な不死川係長の言葉に、私は勢いよく顔を上げる。
「朝から長いミーティングになっちまったからな」
 こんなところで変な優しさを見せないで欲しいと、普段は近寄りがたい不死川係長を恨めしく思う。メンバーの株でも上げておきたいのかと不信感さえ芽生えてくる。
「不死川係長、あのベーカリーだけはちょっと。あ、別のお店で買ってきますよ!ほら、最近会社の近くに出来たカレー屋さんがテイクアウトもやってるって」
「苗字」
「……はい」
 不死川係長の鬼のような鋭い三白眼に睨まれてしまえば、私の選択肢は一つしか残されていなかった。不死川係長は、存外カマドベーカリーを気に入ってしまったようだ。

 不死川係長から無造作に押し付けられた万札を握りしめ、重い足を引きずりなんとかカマドベーカリーの前まで辿り着くと、サラリーマンやOL達が列を連ねる店内を恐る恐る覗き込む。
 幸いなことに賑わう店内に竈門君の姿はなく、私はほっと胸を撫で下ろして行列の最後尾に並ぶ。まだ彼からのラインを見ることが出来ていない。メッセージを開封してしまったら全てが音を立てて崩れ去ってしまいそうで、勇気がでない。
 そんなことを考えていると、竈門君と柔らかな雰囲気がそっくりな女性が丁寧に注文を尋ねてくれる。いつのまにか眼前の行列は消え去り、私の番になっていた。あまり意識したことはなかったが、年齢からいってとても子供がいるようには見えないがきっとこの方が竈門君のお母様なのであろう。
 私は不死川係長お気に入りの粒あん&マーガリンサンドイッチを筆頭に、次々と様々な種類のサンドイッチを注文していく。カマドベーカリーのサンドイッチはショーケースに並べられており、オーダー式になっている。
お昼時の忙しい時間帯に大量の注文をしてしまったことを申し訳なく思いつつ、丁寧に紙袋に袋詰めしてくれるのを待っていると、店の入り口から「戻りました」という溌溂とした明るい声が私の鼓膜を震わす。心臓が口から飛び出てしまいそうな程の激しい動悸が体中を打ち付ける。反射的に入り口の方に目を向けてしまうと、まるで幽霊でもみたように双眸を見開いた竈門君が私を見つめていた。
 なんという絶妙なタイミングなのだろう。あと少しでも早く店を出れていれば、遭遇することもなかったのに。これも神様の悪戯なの?何か言わなければと逡巡するも、言葉が喉元でつかえて出てこない。
「あら、丁度良かったわ炭治郎。商品をそちらのお客様に渡してくれる?」
 竈門君のお母様と思しき女性がショーケースの向こう側から、購入したサンドイッチが詰められた大き目の紙袋を竈門君に手渡した。
 当惑した様子の竈門君だったが、それ以上に困惑した表情をしていたであろう私の顔を見て観念したように小さく溜息をつくと「会社まで運びます」と紙袋を持ったまま私に先立って店を出た。私は、不思議そうにやり取りを見ていた竈門君のお母様に一礼して彼に続いた。
「竈門君、ごめんね」
 店を出て少し出たところで私を待っていてくれた竈門君に小走りで近づく。私が隣に来るのを待ってから歩き出した彼の半歩後ろを恐る恐る歩きながら、蚊が鳴くように呟いた。
「…そのごめんは何に対しての謝罪なんですか?」
 聞いたことのない彼の声色にびくりとする。いつもの優しくて明るい太陽のような竈門君の表情は陰り、悲しさと怒りが入り混じった様相を呈していた。
「一昨日、名前さんがしのぶさんとカナヲに言ったことですか?義勇さんと一緒にいたことですか?俺の連絡に返事を返さないことですか?」
 捲し立てるように質問を重ねる竈門君の声色は明らかに怒気を孕んでいる。穏やかで優しい彼にここまで言わせてしまう自分を殺してやりたいとさえ思うほど後悔の念が沸き上がる。
「竈門君、あの…私」
 大企業のビルが立ち並ぶオフィス街の私達は明らかに注目の的となっており、好奇の視線に気が付いた私は思わず出かかった言葉を引っ込める。 
 竈門君は決まりが悪そうに視線を逸らすと私の手首をぐっと掴んでそのまま会社とは反対方向に足を進める。その大きな掌と力の差に、年下であっても立派な大人の男性であることを再認識し、触れた部分から体中に熱が広がっていく。
 人でごった返す昼時のオフィス街から一線を画したビル裏まで連れてこられた私を壁際に押しやって、竈門君は煽るような瞳で私を見つめる。
「俺を、大学生だと思って揶揄っているんですか?」
「えっ、そんなわけないよ」
「年下だと思ってなめてるんですか?」
「だからそんなことないっ」
 最後まで言葉を紡ぐことは出来ずに、またしても私の唇は2人目の男性に奪われることになってしまった。義勇君が言う、私には隙がありすぎる、とはこういう所なのだろうか。
 竈門君のキスは義勇君の時とは違い、穏やかな彼に似合わず少し荒っぽいものだった。竈門君はそのまま何度も私の唇に吸い付いて、思わず息が上がって開かれた私の口角から、あろうことか彼の熱い舌を挿入してきた。
――恋はしてみたいと思いますけど
 花火大会での竈門君の言葉を思い出す。この口付けは、キスを知らない子が出来るものじゃないよ。最近の大学生はいったい何者なの。恋はしないけどやることはやるの?よく分からない猜疑心が沸き上がりつつも、悔しいくらいにうっとりする濃厚な口付けに恍惚な表情を浮かべた私は、竈門君の大きな胸を弱弱しく叩く。
 漸く解放された唇から、自分でもびっくりするくらいの色っぽい溜息が漏れる。呼吸を整えて涙目で竈門君を見つめると、彼は私の耳元に唇を寄せ普段からは想像も出来ないような艶っぽい声で囁いた。
「名前さん、俺と恋をしてください」



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