摩天楼におぼめく



 オフィスの内線が鳴りOB訪問予定の学生達が到着を告げる。オフィスの天井を仰いで嘆息し、手元のノートパソコンをぱたりと閉じると、向かいの村田君が「お、きたのか」とお気楽そうな声を上げる。今日ばかりはそんな彼に静かな怒りが湧きあがってきて、噛みつくような視線を走らせたあと、私はそのまま学生達の待つエントランスへと足を向ける。一瞬、村田君が「俺何かした?」という狼狽した表情を浮かべていたが、勿論そんなことは気にも留めない。
 オフィスの入り口には、就活生の戦闘服とも呼べる真新しい黒色のリクルートスーツに身を包んだ数名の女子学生が、私を見つけると見本のように60度の角度で頭を下げる。
 膝丈のスカートがミニに見えてしまう程足が長い最近の女子大生を恨めしく思いつつ、私は好印象を心掛けて彼女達に順番に視線を移して挨拶する。
 その集団の中に予想通り彼女はいた。栗花落カナヲちゃん。この3週間足らずという短い期間で会うのはもう3度目だ。カナヲちゃんも例にもれず、漆黒のリクルートスーツに身を包み、頭頂部に天使の輪が出来る程に艶めく髪の毛を、頭の後ろで丁寧に結い上げている。そして私の顔を見るなり、ツチノコでも目撃したかのように大きな瞳を一層見開き俯いた。
 カナヲちゃんの居心地の悪さがたっぷりと伝わってくる。私としても、先日の竈門君との熱い口付けを思い出し良心の呵責を感じてしまう。
 そうはいっても仕事は仕事。向き合いたくない現実から逃げられたのは学生までの話だ。私は顔に笑顔を張り付けて、マニュアル通りに学生達を会議室へ案内する。インスタントのお茶を準備して、担当が来るのを待つよう声をかける。淡々とした流れるような動作で危機を切り抜けた私は、魂が抜けたように自席へと舞い戻る。 
辟易した表情を浮かべてがっくりとデスクに突っ伏した私を、恐る恐る向かいの席から覗き込んだ村田君が言葉をかけるかどうか逡巡している様子であったが、私は気が付かないふりをした。

「苗字さん。今日の夜って空いてないですか?」
 ランチタイムを目前に、トイレで化粧直しをしていた私に営業事務の女子社員が声をかけてくる。我妻君や嘴平君と同期の彼女は、若さと―それは私の偏見かもしれないが―小悪魔のような可愛らしさから、我妻君を筆頭に男性社員からもとても人気があった。
「今日の夜?うん、特に予定はないけど」
 正直、夜の予定を聞かれる程親しい関係ではないと認識している。そもそも年齢も私よりかなり若く、話が合うとはとても思えなかった。
「よかった!実は今日の夜合コンがあるんです。一緒に行く同期の子が一人来れなくなってしまって。苗字さん良かったら一緒にどうですか?苗字さんは彼氏いないって我妻君が言ってたんです。それに…今日のお相手企業は超優良物件なんです!」
 彼女の予想もしていないお願いに私は目を見開く。こんなに若い子と合コン?とてもではないが、並んで自己紹介―主に年齢の部分―など出来っこない。いい引き立て役となり笑いものにされるのは想像に難くない。我妻君…今度会ったら説教だな。
 私みたいなアラサー女を連れていったらお相手側も可哀そうだよと、冗談めいた調子で断ろうと口を開きかけた時だった。
「い、行きたい!彼氏どころか好きな人もいないから嬉しい!ち、超優良物件なんて絶対ゲットしたい〜」
 私の口から心にもない虚言が零れる。OB訪問を終え、女子トイレに入ってきたカナヲちゃんを鏡越しに見てしまったからだった。

 終業後は想像以上の疲労感が私の肩にのしかかった。特別なことをした訳ではないけれど、混沌とした気持ちが拭い去れなかった最近の私にとって、今日のカナヲちゃんの一件がとどめをさした。
 正直な所、今日は一刻も早く帰路につき、冷たいシャワーの流水を頭から被りたい気分だった。夏場特有の纏わりつく不快な汗と一緒に、身体中に蓄積したアナーキーな感情を一緒に流してしまいたかった。
 しかし、一度参加すると言ってしまった合コンのお誘いを断ることは出来なかった。女子トイレでたまたま私達の会話を聞いていたカナヲちゃんへの贖罪のつもりで放った台詞で、私は自分の首を絞めることになってしまった。
 こうして私は、オフィス街に高々とそびえたつ真新しいビルの摩天楼のテラスバーで、本日の合コンのお相手である男性達を前にしているのである。
 確かこの高層ビルは最近完成したばかりであり、最上階のバーは人気で数か月先まで予約が埋まっていると、会社の誰かが話しているのを聞いた気がする。「超優良物件」と言われる所以に納得する。それはイコール「経済力」「安定性」「将来性」なのだ。
 男性陣は私と同い年かやや年上に見え、明らかに年齢が他の女子と異なる私に少し驚いているようだった。それに加えて5人対5人の会であるはずなのに、男性側は一人遅れているとのことで、開始一時間を経過しても男性側がマイナス一人の会は続いた。
 折角今話題のホットなスポットに来られたにも関わらず、私の心は暗澹とした。
 しかし、そもそも私はこの会自体に露ほど興味もなかったわけで、男性がより若い女性を好むのも婚活パーティーで経験済みだ。虚しさや恥ずかしさを感じることもとっくに放棄し、ひたすら白ワインを煽る私の耳には、なんの意味もなさない雑踏に似た無機質な他人の笑い声や室内に響き渡るメロディーだけが通過していた。
「苗字さん、結構お酒強いんだね?俺、酒強い人好きなんだよね」
 トイレから戻った男性の一人が私に声をかけ、空席になっていた私の隣に腰掛けた。流石に飲みすぎたかもしれない。私はこめかみを抑えながら興味がなさそうに男を見ると、彼は磯巾着のように私の腰に手を巻き付けてくる。飲みすぎによる頭痛も相俟って不快感が全身から沸き上がる。私は笑顔を作ることも諦めて、淡々と男の手を払おうとするが、その動きよりも早く耳元に唇を寄せられる。
「ねぇ、このあと2人で抜けない?」
 全身が粟立ち私の全てがこの男を拒否していた。男の言動を聞くに、所詮私は一夜の女としか見られていないだろうことが容易に想像出来、放棄したはずの虚しい気持ちが自分の使命を思い出したように動きだす。目頭が熱くなり、瞬きをすれば零れてしまう涙を、唇を噛み締めて必死に食い止める。こんな男の前で絶対泣いたりしない。
「すまない、遅くなった」
 アルコールに浸かった脳が鉄の味を認識し、強く噛んだ唇から出血したのだと気づいた時、聞きなれた淡々とした声を私の鼓膜はキャッチした。真打さながらの最後の一人の登場に女子達の好奇の視線が向けられる。そしてその視線は間もなく眉目秀麗な彼に釘付けになる。勿論声の主はそんなことには気が付かず、双眸を見開き私を見つめているのだけれど。
「名前、お前どうしてこんなところに…」
「…こっちの台詞。なんで、義勇君」
 重い頭で記憶を辿ると、自己紹介で確かに彼が務める銀行の名前を聞いた気がした。驚きと合点がいっている私とは対照的に、義勇君は全身を突き刺す氷柱のような冷たい瞳で、私の腰に手を這わす男に視線を走らせる。義勇君を「冨岡先輩」と呼んだ彼は、肝を冷やしたように小さくなる。なるほど、彼は義勇君の後輩だった。
「来い、名前」
 異業種交流会という名の合コンがえんもたけなわであるにも関わらず、到着したばかりの義勇君は空気も読まずに私のほんのり赤くなった手首を掴んで、王子様のように私をこの場から連れ出してしまう。心臓を指先でひっかかれたような切ない痛みが私の身体中を駆け巡る。同時に蓄積された夥しい量のアルコールが一気に全身へと流れだす。世界が回転し、情けないことに真っすぐ立っているのもやっとの状態だ。
「義勇く…まって、私結構…よっぱらって…」
 うまく呂律も回らずに、枝を立たせたみたいに不安定な足下はいとも簡単に崩れ去り、私に先立って地上行きの大きなエレベーターに乗り込んだ義勇君の胸を借りるように雪崩れ込む。義勇君の胸が容易く私を受け止めて、アルコールのせいで視界がぼんやりかすむ私の唇に覆いかぶさるような口付けが降ってくる。誰もいない広々としたエレベーターの壁際に押しやられた私は、そのまま義勇君の絡みつく舌を受け入れる。繋がった唇から全身に熱が広がる。気づけば私も両手を義勇君の首に回して、ねだるように彼の唇を貪っていた。お互いの唇と舌を絡めあったまま、義勇君の骨ばった長い指がシャツの上から私の胸を弄りはじめる。
「ちょっ!ぎゆ…だめっ、こんな、ところで、ゃっ…」
「こんなところじゃなければいいのか?」
「そうじゃなくてっ」
 義勇君の地を這うような艶気のある低温に鼓膜を支配されると、アルコールが回った私の身体では、彼の手を軽く掴むことが精一杯だった。頭では拒否しているのに、身体は不思議と彼を求めている気がした。子宮が熱く疼きだす。
「んぅっ…」
 合わさった唇から驚く程切ない声が零れていく。そんな私に煽られるように、義勇君はタイトスカートから伸びる私の太ももをぞくりと撫でた。濡れた瞳から零れた涙を頬に貼り付けて、小さく喘いだ私の口から飛び出た言葉の真意は正直自分でも良く分からなかった。
「…お願い、ちゃんと抱いて」
 気がつくとエレベーターは地上に到着していた。



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