06.花嫁修業



 ――好きだよ。
 思い出すだけで赤面してしまう。イデアくんが私のことを好きって言った。
 昨日、私が耳慣れない愛の言葉に何も言えずにいる間に、彼はさっさとエッチの後処理を済ませて通常モードに戻ってしまった。何でこのタイミングで、とか、どうして今まで言ってくれなかったの、とか本当は色々と聞きたいことがあったはずなのに、結局私はタイミングを逃して今に至る。今日も今日とてイデアくんの部屋で過ごし、今度ばかりは自分の学校のオンライン授業に参加しているが、どうにも集中できないのはきっと絶対間違いなく婚約者のせい。
 イヤホンで先生の言葉を聞き流しながら、時折出される練習問題にとりかかり、指名されたらチャットに回答を書き込む。いつもだったらその間にも友達とのプライベートチャットに勤しむのだが、今日はどういうわけかそんな気になれない。私はベッドに寄りかかりながら膝にパソコンを置いて、イデアくんの背中をチラチラと見ていた。小さな頃から見ていた背中。いつの間にかこんなに背も高くなって大人になって、私はその姿をずっと見てきたはずなのにそれでもわからないことばかり。私のこと、いつから好きだったの? ずっと好きでいてくれたの? 聞いたら答えてくれるの? 昔から婚約破棄したがってたのはどうしてなの?
 不意にイデアくんが振り返った。こちらもイデアくんのクラスも、いつの間にか休み時間になっていたようだ。私は咄嗟にイヤホンを外して言葉を紡ごうとしたが、何を言っていいかわからなくて、ただ自分の頬が熱くなるのを感じていた。
「名前、もしかして暑い? 顔、赤いけど」
 ゆっくりと椅子から立ち上がってイデアくんがこちらに来た。何故だか少し緊張する。
「大丈夫だよ、ありがとう。顔、赤くなってる? なんでかな」
 目を背けて誤魔化す。しかし彼はしゃがみこんで、自分の額を私のそれにくっつけた。至近距離に迫った端正な顔立ちに急に心臓の音が大きく聞こえ始める。今までだって昨日だってこれ以上のことを散々してきているのに、昨日のイデアくんの言葉で何故だか急に彼を意識してしまって、まるでもう一度恋に落ちてしまったかのように呼吸も儘ならなくなる。
「熱くないし、風邪って感じじゃなさそうだけど」
「平気だってば……イデアくん、近いよ……」
「え? ち、近いって……いつもこれくらいの距離感じゃん。急になに?」
 渋々といった様子で離れたイデアくんが自分の椅子に戻って行った。イデアくんにキスしたい。だけどなんだか急に恥ずかしくなってしまってものすごく困難なミッションに思えてくる。キスっていつもどうやってしてたっけ。あれ、そういう雰囲気になったら勝手にしていいんだっけ?
「あの、イデアくん」
「なに?」
 立ち上がって今度は私が彼の隣に行く。口を開きかけてはやめる私を、イデアくんは怪訝そうに見ていた。
「……キス、してもいい……?」
「え? うん、別に……ていうかわざわざ確認とらなくてもいいのでは……」
 やっとの思いで告げたのに、拍子抜けするほどにあっさりと頷かれた。イデアくんはわざわざ椅子ごとこちらに向いて手を握ってくれた。キスを待っている。
 恐る恐るくちづけて、一瞬で離れる。昨日もっと濃厚なキスやそれ以上のことをしたのに、たった一瞬の軽いキスが途轍もなく恥ずかしい。
「え、もう終わり?」
 不服そうな声に心臓がキュンと鳴いて、もう一度勢い任せでくちづけた。重ねた掌が優しく撫でられピクリと反応してしまう。彼の舌が私の口内に侵入し、優しく犯してくる。今なら聞ける、かも。
 唇をはなして、聞きたいことがある、と告げる前に、彼のスマホが着信した。イデアくんは手に取った機器の画面を見て一瞬だけげんなりした表情になると、仕方なさを隠そうとも出ずに電話に出た。はい、とか、いますけど、という声色に嬉しそうな様子は微塵もなかった。
「名前。ケイト氏から電話」
「え、私に?」
「うん。用件は大体想像つくけど」
 はぁ、とため息を吐いた彼のスマホを手に取る。もしもし、と恐る恐る声を掛ければ驚くほどに陽気な声が返ってくる。
「やっほー、名前ちゃん。明日ってお休みでしょ、何か予定ある? まだ帰らないよね?」
「はい、まだいます。特に何もないですよ」
「よかった。この前言ってたうちの寮のパーティーなんだけど、よければ参加しない?」
「パーティーですか」
 復唱して婚約者の顔色をうかがう。絶対に聞こえているはずなのに反応を見せない。何も言わないということは行ってきていいのかな。そこまで考えてハッとする。
 そうだ、昨日教室でうまく振る舞えなかった失態をここで挽回できるのでは? 婚約破棄についてはどうなるか未定だが、ここで自分の有用性をアピールすればイデアくんも考え直してくれるかも。イデアくんの真意はわからないけど、婚約破棄をしたがっていたのは確かだし、それは私への好意には全く関係ないことなのかもしれない。例えば、私のことが好きでも何らかの要因で結婚相手には不適格と見なしているとか。
「ぜひ参加させてください。どこに向かえばいいですか? 何かお手伝いできることがあれば、何でも言ってください」
 イデアくんが盛大に息を吐くのが聞こえた。

 翌日昼過ぎ、ケイトさんではなく、トレイさんがイデアくんの部屋までわざわざ迎えに来てくれた。何でも、ケーキの焼き上がりまでに時間があるのだそうだ。
 じゃあ行ってくるね、と手を振った私に、婚約者は不機嫌な表情で告げる。
「聞かれた場合は仕方ないけど、なるべく僕の名前は出さないで。あと、僕が許可した人以外は基本的に喋っちゃだめ。嘘ついてもすぐにわかるから。いざとなったらオルトに確認させますぞ」
「もう、わかったってば……」
「イデア、それもう五回目だぞ」
 あまりのしつこさにトレイさんが表情を引き攣らせる。こんなに注意事項を述べられたら、せっかく誘っていただいたのに申し訳なさすぎる。そっと嗜めると、イデアくんは私を一睨みして背を向けた。乱暴に戸が閉められ、頭の中が疑問符でいっぱいになる。
「本当はイデアも来れたらよかったんだが、どうもああいう場は苦手みたいだな」
 苦笑交じりに告げたトレイさんに慌ててフォローを入れる。
「そうなんです。イデアくんはちょっと人見知りっていうか、繊細なところがあるから賑やかな場所とか人の気配とかで色々集中力が途切れちゃったりするみたいで。イデアくんは考えることが多いから、いっぱい頭を使うからそういうのが苦手なんだと思います」
「わかってるよ。名前も苦労が多いな」
 理解力のある彼にホッとして思わず表情を緩める。しかし、安心してばかりはいられない。私はこのパーティーを好印象で終えて、イデアくんの私への評価を変えなくてはならないのだ。
「ケーキはトレイさんが焼いているんですよね。お食事はトレイさん担当なんですか?」
「寮のみんなで分担することもあるぞ。パーティーにはそれなりに準備が必要だからな」
「私の役割は何でしょうか?」
「名前はただ座っているだけでいい」
「そういうわけには……」
 役立つ場面が用意されていない。早くもピンチに陥り、それなら私は何のためにパーティーに行くのだろう、と内心で息を吐いた。もちろん純粋に楽しそうだから参加したいというのはあるけれど、イデアくんの側とどっちがいいかと言ったら断然後者に決まっている。
 明らかに気落ちした様子の私に気付いたのか、トレイさんが慌てたように付け加える。
「あぁ、そうだ。名前には重要な役割があるんだったよ」
「重要な役割! 何ですか?」
「監督生と話をしてほしいんだ」
「え」
 監督生。誰だったっけ、と記憶を手繰り寄せる。どこで聞いたんだっけ。つい最近、その名前を聞いたはずなのに。
「この学園唯一の女子生徒でな。すごくしっかりしていていい子なんだが、男の俺たちじゃ話せないこともあるだろうし、せっかくの機会だから色々聞いてやってほしい。こんなこと頼んで、悪いな」
 ――なんか異世界から迷い込んできたとかいう特殊設定の監督生って呼ばれてる子。
 そうだ、この前イデアくんから聞いたんだ。男子校に女子一人で心細い思いをしていることだろう。いや、先入観はよくない。案外、めちゃめちゃエンジョイしているかもしれないし。
「わかりました。監督生さんとお話しすればいいんですね」
 もしこれで監督生とやらが私を好印象に感じてくれたら、イデアくんが苦手とする対人折衝について長けていると判定が下り、彼は婚約破棄について考え直してくれるのでは。
 もはや自分の目的もよくわからなくなっていたが、とにかく監督生と話、とミッションを認識して、トレイさんの背中についていく。







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