03.朝焼けの抱擁



 眠くて目が開かない。半分だけ覚醒した脳で今何時だろうとかそういえばイデアくんの部屋に泊まったんだっけとか思いながら寝返りを打つ。
「名前」
「ん……」
「……名前」
 ほとんど寝息で返事をするが、彼に届いたのかはわからなかった。ずっと優しく髪を撫でられている。よく寝れなかったのかな、もしかして私の寝相悪かったかな、と思うも、眠気が勝ってやっぱり問うことが出来なかった。
 再び眠りの淵に引き込まれそうになった時、ギシ、とベットが軋む音が聞こえた。もう起きる時間なのかも、といよいよ頑張って目を開けようとした時、突然、ぎゅっと抱きしめられた。
「名前」
 イデアくんの珍しい行動に一気に眠気が吹き飛ぶ。起こそうとしてくれている……という感じではない。私の首筋に顔を埋めながら優しく髪を撫で、切なそうな声色で名を呼ぶ。どうしたんだろう。
 眠気も覚めたところで、私はようやく口を開いた。
「イデアくん、どうしたの?」
「ごめん、起こした?」
「大丈夫だよ、半分起きてたから。何かあった?」
「……別に何もないけど」
 そう言いながらも私を開放してくれる気配はなかった。人肌恋しいのかも、と思ってされるがままでいる。顔が見えないからどんな表情をしているのかはわからないけれど、ただ事ではなさそうな雰囲気に思える。私もそっと彼の頭を撫でてみたが、特に振り払ったり嫌がったりする素振りは見せない。いつもだったら不機嫌に「やめて」とあしらわれてしまうはずだったのだけれど。
「本当にどうしたの? エッチしたいの?」
「違う」
 別に不都合なことはないからしばらく抱き締められたままでいようと大人しくする。もうすぐイデアくんとこうすることもなくなっちゃうんだなぁ、と思うと寂しくて死んじゃいそうだけど、でもイデアくんは婚約破棄したいんだし、仕方ない。きっと彼なりに別れを惜しんでいるのだろう。
 不意にイデアくんが腕の力を緩めた。薄暗い部屋の中で向かい合った彼の顔を見ると、何か言いたそうな、迷っているような様子が見てとれる。これもまた珍しいな、と思いながら私は何も言わなかった。イデアくんは口下手なことも多いけれど、慣れ親しんだ仲の私にはそこそこ毒舌を放ってくるから、言い淀んでいること自体が貴重だ。
 今何時だろう、ともう一度疑問に思って、ベッドに適当に放ったはずのスマホを探ろうと手を伸ばす。するとイデアくんが私を押し倒すような体勢になり、枕元へ伸ばした手をぎゅっと掴んだ。もう片方の手も同じように掴まれてしまう。突然自由を奪われて少々驚いた私は、困惑しながら再び彼の顔を見た。
「やっぱりエッチしたくなった? 今何時かな。時間大丈夫なら……」
 いいけど、と言いかけた私の唇がいきなり彼のそれで塞がれる。イデアくんが変だ、と思いながらももちろん嫌ではないので恐る恐る舌を絡める。
「名前っ……」
「んっ……イデア、くん……」
 イデアくんからキスしてくれたの、もしかしたらこれが初めてかもしれない。手を繋ぐのもキスもエッチも、いつも私から頑張って誘っていたから。何で今更なんだろう。婚約破棄したい理由に彼からエッチを誘ってくれない、とかは別に含まれていないのだけれど。いや、そうだとしても婚約を破棄したいイデアくんには関係ないはずだろうし、私がいなくなったらしばらくできなくなるから、今ここでしておこう的な感じ? 理由は何でも私は嬉しいからいいけど。
 らしくもなく激しく息を乱したイデアくんが深くくちづけてくる。熱い舌が絡まり合って朝から変な気分になる。こんなに情熱的なキスをする人だったっけ。本当にどうしちゃったんだろう。男だらけの寮生活で性欲が溜まっているのはわかるけど、いきなりこんなのびっくりしちゃう。
 少ししてキスを終えたイデアくんが、私を見下ろした。相変わらず手を拘束されたままの私は、疑問をぶつけることしかできない。
「ど、どうしたの……? 続き、する? エッチが面倒なら抜いてあげよっか?」
「……いい」
「そっか」
「もう起きる」
 パッと私の手を離してイデアくんが起き上がった。今のは何だったんだろう、と胸がドキドキするのを感じながら私もベッドから抜け出した。手探りで見つけたスマホで見てみても、ちょうどいい時間のようだった。
「私、準備できたら学園長に許可貰って授業見学に行ってくるね。どこのクラスがいいかなぁ。やっぱりイデアくんのクラスにしようかな」
「……本当に行くの?」
「うん。教室の配置とかわかんないから、遅れないように早めに出ないと」
 どうせイデアくんは部屋に受けるんだし、と思いながら顔を洗ったり髪を整えたりと準備を進める。無事に身支度を終えて部屋を出た私を、彼は相変わらず何か言いたそうな表情で見送った。

 無事、学園長に許可をもらった私は、三年B組を目指して校舎内を歩いていた。色々な人が私を見るなぁ、と少々辟易してしまう。キョロキョロしながら廊下を往けば、偶然にも昨日見かけた二人を視線に留めることができ、少し小走りで駆け寄る。
「おはようございます、トレイさん、ケイトさん」
 二人はぎょっとした様子になった。トレイさんは眼鏡の度が合っているか疑うような仕草で私の姿をまじまじと捉えた。
「……おはよう。どうしてここに? まだ帰らなくて平気なのか?」
「うちの学校はナイトレイブンカレッジと提携しているので、許可さえもらえば授業見学もしていいことになっているんです」
「どこの授業を見学するの? やっぱりイデアくんのクラス? つまり、オレのいる三年B組だったりして」
「それがいいかなぁと思うんですけど、どうしようかな。今日の授業は何ですか?」
 ケイトさんは何とか思い起こすようにして今日の時間割を答えてくれた。実技系があるようなら知らない人とは気まずいから避けたいけれど、今日は座学ばかりのようだ。やはりこのクラスにしておこうか。
「昨日言ってたアレ、どうなったの?」
「婚約破棄の件ですか?」
「ずいぶんあっさりしてるな……」
 ケイトさんへ問い返した私に、トレイさんが苦笑した。
「今、イデアくんにサインしてもらう書類を預けてるんです。ちょっと考えたいって」
「ふーん。婚約破棄したくないんだろうね。そりゃそうか、こんなに可愛い婚約者じゃ離したくないよね」
 ケイトさんがニヤニヤと笑う。私は頬が熱くなるのを自覚して、手で煽いで風を送った。
「か、からかわないでください……別に可愛くないです……」
「なんだか意外な反応だな」
「いや、名前ちゃん、総合的にかなり可愛いよ?」
「総合的にって何ですか?」
 私が訊くと、ケイトさんはにっこりと笑った。
「顔も普通に可愛いけど、昨日の、イデアくんと一番に話したかったっていうのがけーくん的にはかなり好印象。ギャップ萌えっていうの? 何も喋らなかった名前ちゃんが、イデアくんが登場した途端にニコニコしちゃって、可愛すぎるでしょ」
 言葉に詰まっている間にトレイさんも頷いて賛同してくる。
「あぁ、あれは確かに可愛かったな。でもあの様子からすると、名前はイデアのことが好きなんだろう? どうして婚約破棄なんて」
 恥ずかしさで熱くなった頬を抑えながら何とか口を開く。
「イデアくんは……ずっと昔から婚約破棄したがってたから。もうすぐ学生じゃなくなるし、結婚しないならいつまでも一緒にはいられないから、どこかで区切りはつけなきゃ」
「それ、ほんとにほんと? サインしたがらないってことは、絶対に婚約破棄したくないんだと思うけど」
「決められた婚約が嫌なんだって前から言ってましたから、本当のことです。サインしないのは、人生に関わるからすぐにはできないっていうだけだから。私、イデアくんに好きとか可愛いとか言われたこと、一回もないんです。だから、男の人に褒められるのが珍しくてちょっと照れちゃいました」
 私の言葉に、二人は何と言っていいのかわからない様子だった。困らせてごめんなさい、と頭を下げて三年B組に入る。
「……遅いよ。早く来るんじゃなかったの?」
 出迎えたのは不機嫌な婚約者だ。何でここに、と目を見開いている私に隣への着席を促す。
「別に今日は教室に来てもいい気分だったから。それだけですし」
「そ、そうなんだ……」
 イデアくんはあまり気分屋という印象はなかったけれど、彼が言うのならそうなのだろう。腑に落ちない何かを感じながら、私は彼の隣で大人しく授業を受けることにした。








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