02.手遅れになる前に



 手を引かれてイデアくんの部屋に向かう。寮にはほとんど人がいなかったけれど、廊下ですれ違った生徒の数人かがイデアくんのことを「寮長」と呼んだ。そうだ、イデアくんは寮長さんなんだった。大変だろうに頑張っているんだろうなぁ、と思うとつい笑みがこぼれてしまう。
 やや乱暴に私を部屋に押し込んだイデアくんは、不機嫌そうな様子だった。
「入って」
「別に授業休まなくてもよかったのに」
「あんなに重大な話を切り出されて授業に集中できるとでも?」
「そこまで驚くことかな」
 とりあえず荷物を適当に放り、ベッドに腰かけて部屋を見回した。雑然としているイデアくんらしい部屋。ここで寝起きしているんだ。どんな学園生活を送ってるんだろう。
「イデアくんもこっち来て」
 デスクの前に座った彼に声をかける。イデアくんは一瞬だけ躊躇して、
「僕はここでいいよ」
と素っ気なく言った。
「隣に来てほしいの」
「……はいはい」
「抱きしめて」
 大人しく隣に来てくれたイデアくんだったけれども、私の言葉にはさすがに少し困ったような表情になった。そのまま恐る恐る私を抱き寄せると、それで、と小さな声で切り出す。
「何で婚約破棄?」
「お心当たりはありませんか?」
「ありすぎるくらいだけど、どれも今更だろ」
 さすがによくわかっているようだ。連絡無精なのは今に始まったことではないし、素っ気ないのも愛想がないのもいつものことだし、私の存在を隠しているのも相変わらず。ずっと前に聞いたら、「君みたいなのが婚約者だなんて言えるはずないし」となんともひどい言い草だったものだ。
「だってイデアくんはずっと婚約破棄したがってたじゃない」
「いや……それはまぁ、家同士の取り決めでした婚約だし」
「じゃあ嬉しいでしょ。よかったね、やっと自由の身になれて」
 彼の腕から逃れて荷物を開く。書類を一枚取り出し、彼の前に差し出した。
「これ、婚約破棄に同意しますっていう書類。サインしたら持って帰るから書いて」
「……今時手書き? ずいぶんアナログだね」
「ツッコミどころ、そこ?」
 私が笑うと、イデアくんは表情を曇らせた。
「婚約破棄で嬉しいのは君の方だろ」
「どうして?」
「名前の家に未だに縁談が山のように来てる話は知ってるし」
「うん。イデアくんと婚約破棄したら、きっとその内の誰かと結婚するんだと思う、私」
 私が答えると、彼は少し黙った。何を考えているのだろう。イデアくんはとても頭がいい。その脳の中でどんな計算が行われているのか、どんな言葉が渦巻いているのか私は知る由もない。彼もいつも多くは語らないから、それがもどかしくてたまらなかった。イデアくんの気持ちが見えたことなんて、一回もない。
「今ペンないから、後で書くよ」
「私持ってるよ。貸そうか」
「……そんなに早くサインさせたい?」
「別にそういうわけじゃないけど……イデアくんは早くサインして私を追い返したいだろうなって思って」
 彼はもう一度書類を眺めてから机の上に放った。
「婚約破棄自体がどうとかじゃなくて、僕の人生に大きく関わることだからすぐには決断できない。何でこのタイミング?」
「私たち、あと数年もすれば学生も終わりだよ。なのに、イデアくんがいつまでも今後のことを決めてくれないから。式はどうするかとか、入籍の日取りとか、そういうの一切考えてないでしょう。だって私と結婚する気ないもんね。さすがにそろそろはっきりさせたくて」
「いつまでこっちにいるの?」
「しばらくはいられるよ。ちょうど学校の先生方が研修旅行に出てて、しばらくオンライン授業なの」
 イデアくんは立ち上がって部屋を出た。心なしかドアを閉める音に不機嫌さが滲んでいる。どこに行ったのだろう、と彼を待ちながら無遠慮にベッドに寝転がる。まだ婚約者だし、これくらいいいよね。

 イデアくんの家はいうまでもないが、私の家もそこそこ名が知れているため、早い内から結婚相手を決めるのは当たり前のことだった。母曰く、誰と会っても見向きもしなかった私が初めて目を止めた相手がイデアくんなのだそうだが、残念なことに私はその時のことを覚えていない。幼すぎて記憶にないのだ。肝心のイデアくんはどうだったのか、未だに聞けずにいるが、その後スムーズに縁談がまとまったところをみるに、彼も案外やぶさかではなかったのではないか、というのが私の希望的観測。本当のところは怖くて聞けない。仮に昔は気に入ってくれていたのだとしても、今の彼にとって私が迷惑な存在だというのは明らかだからだ。今日もはっきり宣告されてしまったわけだし。
 イデアくんはいつも私と目を合わせてくれないし、あまり触れてこない。そういうのが苦手な人なのだというのは重々承知しているけれども、それにしたって婚約者としては寂しすぎる。
 一方の私はというと、ファーストコンタクトを覚えてはいないものの、イデアくんと結婚できる日を心待ちにしていた。どこに出しても恥ずかしくない妻になれるように文武両道で何でもこなせるように努力してきたし、良妻賢母になれるようあらゆる家事炊事もマスターしている。自分を疎かにしがちなイデアくんの食生活を完璧に支えてあげられる自信もあるし、彼が望むなら家庭に入ったって働きに出たってどちらだって構わないと思っている。私はどこでもそれなりにうまくやっていけるし、割と何でも楽しめる人間だという自覚があった。偏屈な彼の相手としてはこの上なくぴったりだと思うのだが。
 でも、肝心のイデアくんにその気がないなら仕方ない。たぶんイデアくんは私を好きじゃないし、結婚する気もないんだと気付いたのはいつだっただろうか。愛されるように努力を重ねたつもりでいたけれど、どうしても好きになれないものは誰にでもある。イデアくんにとってのそれがきっと私だったのだ。
 彼との婚約を破棄したらきっと私はまた別の人と婚約をして、今度はその人の妻にふさわしくなるような努力を重ねるのだろう。たぶん私はまだ見ぬ新しい相手のことも愛せると思う。人のいいところを見つけるのはそんなに苦手じゃない。
 ベッドにゴロゴロしていると、イデアくんが戻ってきた。先ほどと違って静かに戸を閉める。
「おかえり。どこ行ってたの?」
「学園長室。寮の空き部屋に泊まらせていいか確認に行ってまして。ちょうど隣の部屋が空いてるから使っていいよ」
「そっか、ありがとう。でも私、この部屋に泊まりたかったな……」
 残念な気持ちを隠さずに言う。彼はどちらに座るか迷った様子だったけれど、結局ベッドに腰かけることを選んだ。
「……隣を使う許可はもらったけど、必ず使わなきゃいけないわけじゃないし」
「え、じゃあイデアくんの隣で寝ていいの?」
「勝手にしなよ」
「やったー」
 なんだかんだでイデアくんは優しいから、私を無理矢理追い出したりすることはないという自信があった。伊達に十年以上婚約者をやっていない。イデアくんのことはわからないことだらけだけれど、彼が私をぞんざいに扱うのにも限度があることを知っている。
 私がニコニコしながらお礼を言うと、イデアくんはすぐに視線を逸らした。
「ちょっと考えるから、婚約破棄の件」
「長くかかるようだったら後で郵送とかでもいいよ」
「な、なんで名前は……」
 何か言いかけたイデアくんがそのまま口を閉ざした。意味を図りかねて彼の目をじっと見るも、やはりすぐに逸らされてしまう。
「明日は何の授業があるの? 私、隣で一緒に受けてもいいかな? もっと学校の中をよく見ておきたくて」
「僕は教室行かなくても受けられますし」
「ふーん。じゃあ私だけ見学で混ぜてもらおうっと。うちの学校とナイトレイブンカレッジは提携してるでしょ、だからそういうのもオッケーなんだって。先生に確認してきたの」
「名前は今更よその学校の授業なんか出なくても四年生の範囲まで理解してるじゃん……部屋で自分の学校の授業受けなよ」
 イデアくんは暗に私が外に出ることを咎めているようだった。はいはい、私みたいなのが婚約者だなんて知られたくないもんね、と内心で拗ねる。だけど別れまでの僅かな間だとしても、イデアくんの近くにいられるのが嬉しくて仕方なかった。
 彼はちょっと考えると言ったけれど、確実に書類にサインをするだろうことを私はちゃんとわかっていた。








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