「僕の大切な女の子が、きみに会いたいって言うんだ」

白蘭はみちるを見下ろして笑っていた。
みちるの心臓が大きく脈を打つ。
白蘭の言う“大切な女の子”と、先刻視界に認めたあくあの後ろ姿が、みちるの脳内で重なる。

(……落ち着け。大丈夫。すぐに殺されたりはしない)

危害を加えるつもりはないと、目の前の男は言った。
リボーンとは別の意味で、白蘭の表情からその奥の心理は読めないと、みちるは思った。
力量の差は比べるまでもない。みちるは殺し屋ではないのだから。

気にかけるべきはあくあの方だ。
何故、自分に会いたいと白蘭に強請るのか。
二人はどういう関係なのか。
あくあは何が目的なのか。
考えたところでやはり答えは出ない。みちるは徐々に冷静になり、大きく息を吐いてから言った。

「……それって、誰ですか?」
「え。なに、警戒しないの?」
「……していないように見えるんですか?」
「あはは!してるね、すごく」

白蘭は可笑しそうに笑った。
みちるは諦めにも似た心地だった。自棄。覚悟。それらを少しずつ含んだ感情。
それでも、真剣な眼差しを決して崩さない。
白蘭はみちるを見つめ返すと、静かに口を閉じ合わせて穏やかな笑みを浮かべた。

「話が早くて助かるよ。ちょっとかわいげがないけど」
「…………」

やはり、彼から向けられている憎悪は気のせいではない。みちるは直感し、それは確信めいていた。
白蘭の口先や声音からではない。
今、白蘭にとってみちるは完全な弱者で小物だった。見下すことに理由はない、その程度の存在。
日用品や地を這う虫にいちいち感情を向けることがないように、取るに足らない存在――ではなく、明確な嫌悪と憎悪。
一つはその冷たい視線から。
そして、あくあを語る言葉の端緒から。
声にも態度にも抑揚や色合いの変化はない。それでもみちるは感じ取っていた。



白蘭の大きな背中を追い、明るい陽光が差す長い廊下を、みちるは黙って歩いた。
日が高い。外はよく晴れている。ホテルを出たのは早朝だったから、今はまだ午前中だろうか。
みちるは恐怖感から、その疑問の一つも白蘭に尋ねることができなかった。

白蘭が立ち止まったのは、大きな木製の扉の前だった。
映画の世界の中で、人里離れた森の奥に建つ城。
建物の壁には蔦や茨が纏わりつき、美しい王子やプリンセスが幽閉されている。そんな雰囲気が似合うお屋敷。
外からこの建物を眺めたら、そんな景色ではないだろうか。ただの扉と廊下と調度品から、みちるはそんな妄想をした。
果たしてそんな場所が、並盛の近くにあるだろうか。
だが、正一の言葉を借りるならば“ミルフィオーレの科学力”は底知れないものだ。
みちるの想像を絶することが起こっているとしても不思議はない。みちるは一瞬も気を緩めてはならないと姿勢を正した。

白蘭は扉を二度ノックした。
返事はない。白蘭は構わず「入るよ」と声を掛けた。茶色の扉が彼の手で押し開けられる。

広い部屋の真ん中に、桃色の髪の少女が立っていた。

彼女は息を荒げ、その足元にはアクセサリーが散乱していた。
それだけならば、寝ぼけてアクセサリーケースをひっくり返しただけとも言えたかもしれないが、部屋の中の様子はより異質だった。
壁の一部に水の飛沫が飛び、真下には一輪のバラの花と割れた花瓶。
少女の手からはぽたり、ぽたりと赤い液体がしたたり落ちた。
ふわりと、彼女の足元に舞ったのは鳥の羽。否、引き裂かれたクッションから飛び出た羽毛のひとひらだった。
暗い部屋に、細く差し込む陽光が舞い散る羽根に反射する光景は、天使が飛び立ったように美しい。
みちるは白蘭の背後からそれら全てを視認し、無意識のうちに息を止めていた。

「あぁ。もう大丈夫だから。ね、あくあちゃん」

白蘭の声音は、みちるに向けていたものとは明確に違った。
その場に立ち尽くす少女の眼前まで躊躇なく歩を進めた白蘭は、そのまま流れるように彼女を腕の中へ抱きしめた。
西洋の絵画のように美しい光景だ。みちるは扉の前から一歩も動けないまま、声もなく、呆然と二人の姿を見つめていた。


* * *



みちるが駅前で見た少女は、やはり想像した人物で間違いはなかった。
イタリアの小さな市場で出会い、一緒にマフィンを食べて言葉を交わした、不思議な少女。その名はラテン語で水を表す――あくあ。

白蘭とあくあが抱き合っていた時間は五分程度だったと、みちるは記憶している。
その間ずっと、みちるはその光景を眺めていた。
人形のように突っ立ったままのあくあが、白蘭の背に手を回して、ぎゅうと抱き着く。みちるはそこでやっと我に返った。

(どうして、あくあさんが……)

「白蘭さん、ありがとう。もう平気」

砂糖菓子のように、花のように甘く可愛らしいその声が、少しはしゃいだように言葉を紡ぐ。
白蘭もまた、応えるように腕を解いた。そして、スマートな所作であくあの髪に唇を落とす。
みちるは見てはいけないものを見たような気がして、反射的に視線を床に落とした。
自らの視界の端で何かが動いたことを察知したあくあが、無邪気な表情で顔を上げた。
あくあは一瞬目をまるくしたが、すぐにそれがみちるだと気付いた。
「みちるちゃん!」と、まるで花が咲いたかのように明るい声でそう言った。
動揺したのはみちるだ。あくあはぱたぱたと足音を立てながら、みちるのすぐ傍まで駆けてきた。
みちるは一歩後ろに足を引いた。驚いたが故の反射行動だった。
あくあは一瞬だけ、ほんのわずかに、足を進めるのを迷ったかように見えた。だが、彼女の歩を止めるまでには至らない。

「……あっ」

手を伸ばせばみちるの頬に指先が到達する、そんな距離で、あくあは急に立ち止まった。

「今は駄目、だった」

あくあは照れたように、そして心底残念そうに言った。みちるの顔をまっすぐに見つめ、へへ、と声を漏らす。
あくあの視線の先には彼女の両手のひら。ぽたりと落ちた赤い液体が、あくあの足の爪先を濡らす。
みちるは目を見開いて驚き、息を吸い込んだ。喉の奥がひゅうと鳴る。
のちにみちるは、彼女が手のひらに傷をこさえていることを知った。割れた花瓶の破片があくあの手を傷つけたのだった。

「あくあちゃん、手当をするから行こう」

横から割って入ったのは白蘭だ。
言葉と同時に、白蘭は血で汚れることにも構わず、あくあの手を両手で取った。

「みちるちゃん、ごめんね!ボクの部屋で待っていて。あ、割れた花瓶は危ないから放っておいて」

あっという間に部屋から二つの影が去り、みちるは一人きりになってしまった。
短時間のうちにみちるの中の常識とはかけ離れたあれこれが起こり、すっかり反抗する気が削がれてしまった。

みちるは荒れ放題の室内をぐるりと見回し、やがて部屋の中に歩を進めた。
扉の近くに電灯のスイッチを見つけ、みちるは迷わずそれに触れた。カチッと音を立てて、遥か高い位置のシャンデリアに明かりが灯る。
部屋の中にある何もかも、日本とは思えなかった。まさかまた自分はイタリアに戻ってきてしまったのか。
否、さすがに早朝からの数時間のうちにそれはないだろうとみちるはかぶりを振る。

きっと近いうちに、この場所から逃げ出すチャンスはあるだろう。
チョイス開戦はわずか五日後。必ずまたツナたちと対面できる。
絶対に希望を捨てない。

(……でも、今は無理だろうから……)

みちるは明るくなった部屋の中、扉が開きっぱなしのキャビネットの前に歩き進んだ。
可愛らしいワンピースが何着も、ハンガーから落ち、雪崩を起こしている。
みちるはそれらをできるだけ丁寧に両手で摘まみ上げ、埃を払ってからハンガーにかけ、一着ずつ中へ戻していった。

 | 

≪back
- ナノ -