時刻は午前八時。
白蘭たちミルフィオーレファミリーとの決戦の日は、五日後。
ボンゴレアジトに帰り着いたら、京子・ハルと話をすることになるだろう。
早く聞きたい。みちるはそう思った。ツナや獄寺たちと何を話し、何を感じたか。
彼女たちの心が真に晴れやかであるかどうかは、今のみちるにはわからない。
それでも、話したいと思った。自然と心に浮かぶ気持ちを共有したい。
ほんの数日前の自分ではそう思えなかった。みちるはそう考えている。
多くの人の優しさがみちるの背中を押し、みちるは少しずつ、自分自身を信頼することを学び始めた。
早く、誰かの力になりたい。
大切な人たちの輪の中にいたい。
「自分には無理だ」なんて弱音は言葉にしない、強い人になりたい。
この未来の世界で、他人を受け入れ思いやる気持ちを教えてくれたのは、ディーノであり、正一であると、みちるは思う。
アジトではフゥ太やビアンキ。彼らは皆、十四歳のみちると違い、更に十年の年を重ねた者たちだ。
この世界はみちるの居場所ではない。
居場所がないことを怖いと思う。
だが、ここでしか出会えなかった人たちがいる。みちるは決して、それを忘れることはない。
そして受け取り学んだ温情をきちんと自分のものにして、いつか誰かに返してゆく。
だからもう決して振り返らない。悲観しない。目の前の全てから目を逸らさない。自分を諦めない。
それは、未知の恋情を伝えてくれた雲雀と向き合うためにも必要なことだと、みちるは信じている。

みちるは顔を上げた。
早朝の並盛駅前は、スーツ姿のビジネスマンや、ローヒールを鳴らしながら速足で進んでいく大人たちの往来が盛んだった。
学生も多い。みちるは自らの存在の異様さを内面から感じていた。外からは向けられることのない、異質な視線。
みちるがマフィアの関係者で、過去の人間であることなど、この場にいる誰も知らない。故に、誰もみちるを気にはかけない。
本当であれば、制服を着て学校へ向かう日常が、自分にもあったはずなのに。
過去に帰らなければいけない理由は、変わらずここにある。絶対に。

ふと、行き交う人々の中に、一人の女性を見つけた。
後ろ姿である。ふわりとゆるく巻かれた長い桃色の髪と、白いシフォンワンピースが風に吹かれて揺れていた。
黒いジャケットや制服の往来の中では目を惹くシルエットだった。
ドクンと、みちるの胸の中で心臓が跳ねた。息が一瞬止まる。みちるは直感した。

――あくあさんに似ている。

否、似ているだけで本人のはずがない。
みちるは直後にそう思い直した。そして、止まってしまった歩みを再開する。

あくあ。みちるが十年バズーカに被弾し、飛ばされた先・イタリアの小さな市場で出会った少女の名。
今、みちるが立っているのは日本であり並盛町だ。
偶然出会うなどありえない。あるとしたら出来過ぎている。
それはつまり、そういった存在は、マフィア・ボンゴレファミリーと遠からぬ関係の者であるという証明に等しい。
では、そうだとしたら?これが偶然ではないとしたら?
あの少女が本当に、あくあだとしたら?

次の瞬間、みちるの背後に黒い影が落ちた。
後ろに誰かがいる。
それを悟ったと同時に、みちるは自身の身体から徐々に力が抜けていくのを感じた。
不思議な感覚だった。どこか懐かしくもあるが、痛みはない。風景が曲がり、回転したと思ったら、直後には膝を着き、地面に伏していた。

みちるの背後に立っていた長身の男は、なんの色彩もない目で彼女の挙動を見下ろしていた。


* * *


目を覚ましたみちるは見知らぬ部屋にいた。

「…………?」

身体の下にあったのは赤いソファだった。横たわり、寝かされていたらしい。
ふかふかの座面を縁取る金色の金具は、絵に描いたような高級品だと一目でわかる。
部屋は薄暗かった。豪奢な調度品に囲まれたその空間は、いつかに連れ込まれたヴァリアーの城や、ディーノのイタリアの邸宅に似ている。
目覚める前、自分は駅前にいたはずだ。あれからどのくらい時間が経ったのかはわからない。
寝ていたせいか、頭がずきずきと痛んだ。みちるは額を抑えて目を閉じ、息を深く吸い込み、そして吐いた。

「あ、気が付いた?」

突如かけられた聞き覚えのない男の声に、みちるは咄嗟に身をこわばらせ、顔を上げた。
髪から洋服から、全てが白い男が扉の前に立っていた。

「……」
「あれ、まだ頭が痛むの?幻覚に弱い体質なのかな?」

――問われているのだろうか。
みちるは僅かに震える唇を引き結び、ゆっくりと歩み近づいてくる男に警戒を示すように、きっと鋭い視線を向けた。
男は幻覚と言った。そこでみちるは、気を失う直前の感覚の正体に思い至った。
ぐるりと回るような視界は倒れたせいだと思っていたが、どうやらそうではなく、幻覚を見せられていたのだ。
みちるは以前は幻覚への強い耐性を持っていた。だがそれは、先祖であり他人である千崎スイを内包していた副産物であり、今のみちるの身体は一般人のそれ。
目の前の男が幻術使いであるかどうかは知らないが、腕に覚えのある者の見せる幻覚に抗う力など、今のみちるにはなかった。

「やだなぁ、そんなに警戒しないで。取って食ったりはしないよ」

男は人懐こい笑顔を浮かべた。
まるでビジネスマンだ。そうでなければペテン師。
状況から察するに、自分は男の幻覚によって気を失い、ここに連れてこられたのだ。その笑顔を信用するなど無理がある。
どんな危険人物かはわからないし、自分には何の力もないことだけは確かだ。みちるは慎重に口を開いた。

「…………ここは、どこですか?」
「うん?そうだなぁ、日本での僕のセカンドハウスってとこかな」

言葉を交わしながらも、みちるはソファから立ち上がった。対して男は、ソファまであと三歩という距離で立ち止まった。

「わたしは、あなたに誘拐されたんですか?」
「まぁ、そうとも言えるね」

男は終始笑顔で、穏やかにみちるの問いに答えた。
誘拐したことを否定しないあたり、向こうはみちるを知っている。何らかの目的があって、この場所に連れてきたに違いない。
取って食ったりはしないと言った。だが、みちるにとって良い話であるとは思えなかった。
男の笑顔の仮面の下に、その瞳に、明らかな冷徹な“何か”を感じる。敵意なのか、興味なのか、何らかの欲なのかまでは読み取ることができない。

「きみの知りたいことは教えてあげるよ。ね、千崎みちるチャン?」

みちるは息を呑んだ。恐怖した。
男は、ちっともみちるを歓迎などしていない。向けられた視線は、嫌悪だった。
いっそその笑顔と物腰とは不釣り合いなほど、明確な嫌悪と憎悪。みちるは背中に悪寒が走り、唇が震えた。
何故。わたしはこの人を知らない。みちるはがちがちと自らの奥歯がぶつかり合う音を聞きながら、やっと言葉を絞り出した。

「……あなたは……誰ですか……?」
「僕は白蘭だよ。名前くらいは聞いているんじゃない?正チャンにさ」

どっどっどっと音を立て続ける心臓が、ぎくりとペースを乱す。
白蘭。ボンゴレ殲滅を目論む、ミルフィオーレファミリーのボスの名だ。

みちるはぎゅっと両手を握りしめた。しっかりと両足をその場に着ける。
想像力を働かせても意味がないと腹をくくった。何故、会ったこともない自分に嫌悪感を露わにするのかは、みちるには想像もつかないが、敵対する立場の相手であることは理解した。
そして、白蘭は質問には答えてくれることも。

「……わたしを、どうするつもりですか?」
「僕もきみに質問があるんだけど、あんな早朝からどうして一人でふらふら歩いていたの?」
「……、今の並盛は平和と聞いたので」
「うーん、僕の聞きたかった答えとは違うけど、まあいいや。そう、平和だよ。別に僕はきみに危害を加えるつもりはないし」
「……じゃあ……」

じゃあなんで、わたしを誘拐なんてしたんだ。なんのために。
白蘭によって遮られた質問が再度みちるの脳に浮上する。白蘭の唇が弧を描く。

「きみに会いたがっている子がいるからさ」
「……」

まだ聞きたいことがあったはずなのに、みちるは言葉が出なかった。
頭に浮かんだのは桃色の少女の軽やかな背中だ。イタリアの市場の路地でも、並盛の駅前でも、彼女はそうやってみちるの前から去った。

ああ。
こんなところで、繋がってほしくなかった。

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