陶器の一輪挿しが叩きつけられた白い漆喰壁からは、透明な水がぽたりぽたりとしたたり落ちていた。
床には粉々になった破片が散らばり、その上にくしゃりと萎れた一輪のバラが哀れに横たわっている。
みちるは大きな破片を避けて歩み進むと、バラの花に視線を落とした。花弁が傷み、表面には黒い筋が走っていた。
視線をずらすと、ころんとしたぬいぐるみが壁にもたれかかるように転がっていた。
みちるは興味を惹かれ立ち上がり、しゃがんでぬいぐるみを手に取った。
見ると、それはテディベアだった。肩の付け根部分がほつれ、中綿が飛び出している。

みちるはテディベアを部屋の端にあった椅子に座らせるように置くと、きょろきょろと周囲を見回した。
陶器の破片を片付ける道具を探す心づもりだったが、収納されているのか、そもそも室内にはないのか、見える場所には見当たらない。
みちるは仕方なく、再度悲惨な光景の前に立つと、大きな破片を拾い上げるべくかがもうとした。

「あっ!触っちゃ駄目だよ!怪我をしたら大変」

突如かけられた声に、みちるは肩を跳ねさせた。
部屋に戻ってきたあくあが、入口付近からみちるに警告を飛ばしたのだった。
その両手には箒と塵取りがあった。
深窓の令嬢のようなふわふわのワンピースと髪を留めるリボンを身に着けながらも、使用人のような仕事を始めようとする少女の姿は、みちるの目には少々ちぐはぐに映る。

「片付けてくれようとしたの?ありがとう。ボクがやるから離れて待っていて」
「いえ……その、手伝います」
「平気だよ、慣れてるから」

そう言われても身の置き所がない。
みちるはあくあが持ち込んだ新聞紙を床に広げ、次にごみを入れる袋を広げた。
あくあは「ありがとう」と言いながら、明るく笑った。



床がすっかり綺麗になると、あくあはみちるをソファに座るように促した。
大きな部屋の中央には洋風なローテーブルと、三人掛けの赤いソファがあった。
みちるが戸惑いながらも歩を進めようとする直前、ちらりと部屋の端の椅子に視線を向けた。
あくあはその視線の動きに気付き、あ、と声を零す。
みちるが見たのは椅子ではなく、ちょこんと腰掛けているテディベアだった。

「あ、ボクのぬいぐるみ。可愛い、座ってる」
「…………」
「みちるちゃんが置いてくれたの?」

言いながら、あくあはひょいとそれを手に取り、空いている方の手で再度ソファを示す。
みちるはあくあに自身の警戒と戸惑いを見せないよう、しかし気は張ったままで、覚悟を決めてソファの前まで進んだ。
固い動きのまま腰を下ろすと、あくあは微笑んだ。

聞きたいことは山ほどあったが、みちるはひとまず言葉を飲み込む。
自分はいつまでここで過ごさねばならないのかわからない。であるならば、あくあに疑心や警戒心を抱かせるのは悪手である。
白蘭がどこで見ているかもわからない今、みちるは思考を巡らせ続けた。

「その子……肩にほつれが」
「これ?うん、ずっと大切にしていたんだけど、ボクが暴れた時に引っ張ったせいで壊れちゃった」

あくあが膝の上に置いたぬいぐるみの肩口の、中綿を指でなぞりながら苦笑する。
みちるはあくあの指の動きをじっと見つめ、おずおずと切り出した。

「そのくらいなら、直せるんじゃないかと……」

あくあが「えっ?」と驚きに声を零す。
驚きだけではなく、期待と尊敬に輝く瞳がみちるにまっすぐ向いた。
みちるはそれを見て、慌ててぶんぶんと両手を顔の前で振って見せる。

「い、いや、期待に応えられるかはわからないですよ。素人ですし!」

みちるの裁縫スキルは精々小学校の家庭科のレベルだ。
しかしあくあは満面の笑顔を浮かべ、勢い良くその場に立ち上がった。

「お裁縫箱を持ってくるね!」
「あ、ああー……」

時既に遅し。
ご機嫌な足取りで部屋を出て行くあくあの背中に伸ばしかけた手は、彼女の視界に入ることすら叶わなかった。
みちるはゆるゆるとその手を膝の上に下ろした。



数分後、あくあは木製の小箱を手に戻ってくると、みちるの隣に躊躇なく腰を下ろした。
ソファがゆっくりと沈み、みちるの身体が僅かに傾きまた戻る。
あくあはローテーブルに小箱を置き、みちるの顔を見た。

「……じゃあ、お借りします……」

みちるが小箱の蓋を開け、中身を吟味している様子を、あくあはじっと見つめた。
手を伸ばし道具を摘み上げる度、あくあはキラキラと目を輝かせる。
深い紅の瞳をみちるはそっと見返す。数日前、イタリアの市場の石畳の上で、マフィンを手にみちるを見つめていた瞳と同じだった。

針に糸を通し、みちるは指をゆっくりと動かしていった。
飛び出た中綿をテディベアの肩口に押し込み、ほつれた布地も内側に入れ縫い合わせていく。
徐々に白い傷口が塞がっていくのを、あくあは感心したように見つめていた。

「嬉しい。小さな頃、白蘭さんが買ってくれたぬいぐるみなの」

みちるは針仕事を進めながら、内心でぎくりと心臓が跳ねるのを感じた。
白蘭がどんな人間か、みちるは未だほとんど知らない。
ボンゴレ狩りという恐ろしい企てを始めた張本人。
ザンザスのように威圧的で、一目で相手に強者と理解させる――白蘭はそういう雰囲気の人物ではなかった。
だが、みちるに対しては絶対的な敵意を。あくあには愛情を、それぞれ向けて接した。
極端な性格の持ち主かも知れないが、みちるはどうもそれだけではない気がしていた。
憎悪も慈愛も、彼のほんの一部分で、感情の波はそれほどない。飄々として、“執心”のようなものを感じない。
みちるには、白蘭が声を荒げたり、激昂するイメージが抱けなかった。
その一方で、あくあはこれほどまでに感情豊かだ。
白蘭とあくあはおそらく恋人関係なのだろう。
白蘭の「大切な女の子」という言葉や、先刻のあくあの自失状態を落ち着かせた行動の一部始終を顧みるに、白蘭があくあを深く想っていることは想像に難くない。

恋人にプレゼントを贈り、大切に抱きしめて思いやる。
贈られた愛情ごと一身に受け、のびのびと晴れやかな笑顔で応える。

みちるにとって未知で、最も知りたいと切望する感情の正体を、おそらく二人は知っている。

ぬいぐるみを修復するというみちるの行動が、二人の思い出の中にひとかけらの異物となって侵入する。
みちるは空恐ろしかった。
何か取り返しのつかないことに、徐々に足を踏み出している。そんな予感がしていた。

 | 

≪back
- ナノ -