足元から冷たい風が吹き上がり、みちるのカーディガンの裾を揺らす。
真っ暗な奈落の底を見下ろし、みちるはひゅっと息を呑んだ。

「いらっしゃい。あんまりそっちには行かないでね、危ないから」
「危ないってレベルじゃないよね!?」

思わず声を荒げると、正一はあははと苦笑を浮かべ、再度「危ないからこっちに来て」と忠告を飛ばす。
みちるはごくりと息を呑んだ後、谷底に背を向け正一の傍へ駆け寄った。

正一の後方には、壁に埋め込まれた巨大な“白く丸い装置”が鎮座していた。
メローネ基地跡地。今やこの場所にあるのはこの装置だけで、基地内の全てのものは白蘭の手の中にテレポーテーションし飛ばされていった。
みちるが足を止め、ぼうっと装置を見上げるのを、正一は黙って見つめていたが、やがて真剣な表情でみちるの肩に手を置いた。

「本当に気を付けて。万が一足を滑らせでもしても、僕らじゃ助けられないかもしれない」
「う、うん」

表情を引きつらせるみちるに、正一はたちまち青い顔になり「お、怒ってるわけじゃないんだ!ごめんね」と付け加えた。
わかってるよ、とみちるはゆるく微笑む。いつだって他人の心配ばかりの正一は、みちるよりもよっぽど長い時間この場所にいるというのに。
寒く静かで、危険なこの場所に。それでも正一にとって、あの巨大な丸い装置は、命をかけて守り通す理由があるのだろうと、みちるは考え至る。

「正くんも…スパナさんも、気を付けてくださいね。事故もだけど、食生活とかも……」
「う、痛いところを突くね……」

たはは、と苦笑を浮かべ後頭部を掻く正一のその言葉に、スパナがモニターから不意に顔を上げた。
無表情の視線がじっと自分を見つめる感覚に、みちるはどうして良いかわからず瞬きを繰り返した。
正一は「そうだね、紹介しないと」と言いながらみちるの肩を押し、スパナの前に歩みを進めた。

「スパナ。こちらが千崎みちるさん。本来は僕らと同い年なんだけど、10年前から来たから今は中学生」
「はじめまして。千崎みちるです」

スパナは笑顔を浮かべることもないばかりか、その場から立ち上がりもしない。
みちるは助けを求めるように正一の顔を見上げた。正一は一瞬、なぜみちるに困り顔を向けられているのかわからず思案したが、やがて合点がいったように微笑んだ。

「スパナは、なんていうか、あんまり人に興味がないんだ。技術とか、文化とか、そういうのが好き」
「はぁ……」
「でも悪い人じゃない。むしろ、僕にとっては最高の相棒なんだ。本当に優秀な技術者でね」

「愛想良くすべきだったか?正一」

急に口を開いたスパナに、みちるは少々驚いたが、正一は「いいや」と首を横に振るばかりだった。
なんの皮肉も邪推もなく、純粋に疑問だけを滲ませ問いかける姿に、みちるは今まで出会ったことのないタイプの人だと、新鮮な気持ちになった。

「スパナは自分に正直なところが美徳だと思うよ。みちるちゃんが不快に思っていたらちょっと申し訳ないけど」
「いえ、そんな全然」

正一は嬉しそうに笑顔を浮かべると、みちるに「そうだよね」と言った。
心臓が小さく疼く。正一がスパナへ全幅の信頼を寄せていると同時に、自分に対しても信頼に近しいものを感じたからだ。

「で、もう流れで紹介しちゃったけど、みちるちゃん、彼がスパナ。メカニックで、イタリア人。日本びいきなんだよ」
「へえ…。よろしくお願いします」
「よろしく、みちる。飴、食べるか?」

スパナはごそごそとツナギの内ポケットを漁ると、みちるの眼前にカラフルな棒付きキャンディが差し出された。
みちるは「わあ」と小さく歓声を上げると、胡坐をかいて座っているスパナの前に膝をついてしゃがみ込んだ。
工具のスパナと同じ形の飴は、薄暗いその場でも光を反射してきらきらと輝いている。万華鏡のようだった。

「手作りなんですか?すごい!」
「型があれば誰だって作れる」
「型も飴も、わたしには作れません!すごいです」

スパナのごつごつとした大きな手の中から、みちるが赤い飴を摘まんで引き抜く。
飴を見つめて「かわいい」と呟くみちるを、スパナはふっと穏やかに笑って見つめ返した。

「みちるちゃんは、花を咲かせるのが上手だよね」

ふと正一が、みちるの横にしゃがみ込むとそう声をかけた。今度はスパナが感心したように口を開く。

「それはすごいな。命のあるものは専門外だ」
「いえそんな、大げさな……。正くんよく覚えてるね、そんな小さな頃のこと」
「覚えてるよ。きみが僕の洋楽好きを覚えていてくれたのと同じ」

果たしてそれは同じだろうか。みちるは喜びに胸が高鳴るのを感じながら、正一の笑顔を見つめ返した。
小学校時代の数年間を、同じマンションのお隣さんとして過ごした。
みちるは当時から園芸が好きだった。学校の緑化活動や、夏休みの朝顔の栽培などに精を出す少女だった。
そんな彼女の姿を、正一は忘れられなかった。おそらく家族以外の人間で、唯一覚えていた笑顔だった。

「……二人みたいに、誰かの役に立つことをできたほうが良いと思うけど」
「それは、今が有事だからさ。花も、自然も、なくしちゃいけない。僕がどれだけ救われたか」

正一の言葉に、みちるが目をまるくする。
正一は「なんでもない、作業を始めよう」と言ってその場に立ち上がった。
モニターに視線を戻すスパナを見届けると、みちるも腰を上げた。飴は後でいただこうと、ポケットに大切にしまって。

いつか伝えられるだろうか。正一はみちるの小さな肩を見下ろしながら、考える。
――花を愛でるようなきみの優しさと笑顔に、僕が今まで、どれだけ……。



* * *



かれこれ10回はショッピングセンターとこの場所を往復したのではないかと、正一は動き続けるみちるの姿を眺めて思案する。
正午頃、ここに到着してすぐの時は、崖下の谷底に怯え、気温の低さに身体を震わせていたというのに、今は上着を脱ぎ腕まくりをしてちょこまかと走り回っている。
時折顔を上げてその姿を見つめるスパナは、みちるの働きぶりに素直に感心していた。
装置の真下には、みちるの働きの成果物でもあるゴミ袋の山が積み上がっていた。中身は主に、分別収集されたコンビニ弁当の空き箱やペットボトルだ。

「スパナさん、お茶どうぞ」

深緑色の緑茶をなみなみ注いだ湯呑を、みちるはスパナの横に定期的に届けていた。
ありがと、と画面を見つめたままのスパナが答える。みちるはいいえと言いながら立ち上がり、また電気ポットの近くへと歩を進める。

「正くんはコーヒー?」
「ああ、ありがとう。うん、コーヒーをブラックで」
「はーい」

正一に笑顔で返事をしながら、みちるは丸盆の上のインスタントコーヒーの瓶を手に取る。
ものの数時間で、空虚な作業場の一角に生活感が漂う空間が生まれた。加えて、働き者の少女。
悪い気はしない。しないのだが、正一はどうしても、全面的に享受するには抵抗があった。

「はい、どうぞ」
「ありがとう。……大変でしょ。気の利いた話もできなくて、退屈してない?」
「……忙しすぎて、退屈する暇なんかないけど。…なんちゃって。役に立てて嬉しいよ」

正一がぽん、と自身の隣の地面を叩いたので、みちるは薄いブランケットをその場に敷き、正一の隣に腰を下ろした。
みちるは湯気の立つマグカップを両手で包みながら、正面の谷底を見つめた。
休みなく白い湯気が立ち昇るのを見つめながら、ああ、ここは本当は寒いのだと思い至り、捲っていたカーディガンの袖を手首まで伸ばした。
正一が数日前に購入した電気ストーブがフル稼働していることと、休みなく動き回っていたおかげで、みちるは寒さなど忘れていた。

「本当に、大変なことをしているんだね……」

何もない谷底を眺めて、みちるが呟く。
正一もスパナも、モニターの前からほとんど動かず働き詰めだ。
みちるはゴミの片付けや掃除をしながら、彼らの手元の飲み物がなくなっていないか、入用なものがないかと目と気を配っていたが、彼らはなかなか自分たちから要望を発することがない。
それだけ、来たる白蘭との決戦に向け、やらなければならないことが多いのだろう。

「そうだね。本当はこんな世界、きみには見せたくなかったけど」

正一も、正面の真っ暗闇をぼんやりと見つめて言った。
みちるはかぶりを振った。夢の中にいるように、無関係者として、非戦闘員として保護されてきた自分。
だが、冷たい風を身体に受ける度に、これが夢の中の出来事などではないことを、思い知らされる。

「これが現実なのはもう知ってる。正くんたちは技術で対抗しようとしてる。自分たちの手で」
「…うん、そうだね」
「わたしにはできないけど、できる人がいることを知ってる。だからこれは夢じゃないし、わたしの世界の話で」

正一が、隣のみちるを見つめた。
みちるは笑っても泣いてもいなかった。だが、不思議と弱いだけの存在には感じない。

「……だから、わたしも、ちょっとでも役に立てたらいいなって、思うよ」

正一の表情を見つめ返すと、みちるは笑った。

言葉を紡ぎながら、みちるは京子たちのことを思い出していた。
同じだと思った。ツナたちと一緒に戦いたいと言った京子やハルと、同じことを考えていたのだ。
自分に敵を倒す力がないことを嘆くんじゃなく、一緒に進むために。

「……わたしは、わたしにできることをするために、ここに来たの。受け入れてくれてありがとう」
「………、ねえみちるちゃん」

正一が目を細め、ふうと一つ溜め息をついた。
みちるは正一の言葉を待ちながら、ドキドキと緊張に胸が高鳴るのを感じていた。
受け入れてくれている、そう思っていた。それが一方的な気持ちだったら、わたしはどんな顔をすべきなのか。

「こんな寒いところで、不便なところで、……僕らみたいな不愛想な大人と、きみみたいな…いい娘が。買い被り過ぎだよ」
「………」
「感謝してる、本当に。ここに来てくれてありがとう。……怖い思いをさせたのに、僕を、許してくれてありがとう」

正一の両目が、少しだけ濡れているように見えた。
みちるは胸の中で高鳴り続ける心臓が、少しだけ違う意味を示しているように思えてならなかった。
恐怖、安堵、喜び。心が通じ合わない寂しさが解けていく。踏み込む勇気の向こうに、あたたかな春の風を感じる。

「わたしは……、正くんが生きててくれて、……味方で、本当に嬉しかったんだよ……」

役に立ちたかった。
必要とされたかった。
こんな不便な場所で懸命に役割を果たす正一に、少しだけでも報われてほしかった。だから、みちるはここに来た。
救われたのは、報われたのは、許されたのは、きっとわたしのほうだ。みちるはそう感じた。

ふいに触れたみちるの指先を、正一が握った。
あたたかい体温に、涙が零れそうになり、みちるは自身の膝に顔を埋めた。

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