「みちる!」

タオルが山盛りに入った洗濯カゴを抱え廊下を歩いているみちるを、呼び止める声があった。
みちるが振り返ると、眼前のタオルの山の向こうに山本の笑顔が見えた。

「山本くん!休憩中?」
「おー。部屋に飲み物取りに来た」

山本は右手に持った水のペットボトルを振って見せた。
今日は男性陣はバイクの練習のはずだ。
広いトレーニングルームのコースをそれぞれ自主的に練習に使っているとのことだが、どうやら休憩のタイミングも各自のようだ。

「洗濯ありがとな」
「ううんそんな、わたしはまだ今日だけだから……」

お手伝い初日でそんな風に感謝を示されるのは少々くすぐったい。
みちるは謙遜の意味も込めてそう答えて苦笑を浮かべた。

「笹川にもハルにも、ジャンニーニやみんなにもちゃんと言うからさ、みちるにも言わせて」
「………そういうことなら」
「はは、やった」

隣に並んで歩きながら、にこにこと上機嫌に笑う山本の表情を見上げて、みちるはふっと表情を緩めた。
本当に無邪気で性格の良い好青年だと、改めて思う。

「山本くんも……ありがとう。あと、今日もお疲れさま」
「ん?なんで?」
「だって、わたしたちのこと守ってくれてるでしょ」
「それは…だってさ、当たり前じゃね?」
「当たり前じゃないよ。当たり前だとしても、お礼は言わせてよ」

山本は一瞬目をまるくして、そしてすぐに嬉しそうに笑った。

「おっし、んじゃ、午後もがんばるか」
「うん、がんばって!わたしもがんばる」
「おぉ。なーみちる、」
「うん?」
「俺、ほんとはみちるのこと探してたんだ」

え?と間抜けな声を発し、みちるはその場に立ち止まった。山本が足を止めたからだ。

「今朝言えなかったこと伝えたくて」
「……?なんだっけ…?」
「んー……」

山本は口許だけ笑いながら、突然、ひょいっとみちるの手から洗濯カゴを取り上げた。
みちるは「あっ!?」と驚きの声を上げながら、遠ざかるカゴを視線で追った。

「ははっ、やっとちゃんと顔が見えた」
「へっ?」
「髪、短いのも似合うな。かわいい」

――そんな、いい天気ですねみたいなノリで。
さらりと特大の爆弾発言を投下した山本が、カゴをみちるから遠ざけるものだから、想像以上に、二人の距離は近かった。

「……これ、初めて見た。学校でつけたことあった?」

わざとなのか天然なのか。
近い距離を存分に利用し、山本は、みちるの左耳の上で役目を果たす、水色の花模様の石が嵌められたバレッタに指先で触れた。

「なっ…、」

みちるはその指から逃げるように一歩後ずさるが、耳まで熱くなった顔は隠しようがなかった。

「ないっ、よ……!これは、あのね、ちょっと前にイタリアでもらったもので」
「もらった?………もしかして、ディーノさんに?」
「えっ!?ううん!違うよ!?女の子の友達に!」

なんであっちでもこっちでも、みんなディーノさんのこと言うの――みちるはディーノへの申し訳なさと、なぜなのかという疑念とで頭が混乱していた。
少し大人びたデザインのヴェネチアングラスのバレッタは、イタリアの市場で出会った不思議な少女、あくあから贈られたものだ。

「なんだ、そっか。イタリアでも友達できたのか?すごいなー」

どこか複雑な色を宿して、みちるのバレッタを見つめていたように感じていた山本の瞳は、跡形もなく元の無邪気な山本のものに戻っていた。
どうしてわたしばかり翻弄されなければならないのかと、みちるはじとっとした視線を山本に向けた。
別に山本のせいではなく、みちるが素直すぎるせいでしかないのだが。

「そ…そんなことよりカゴ返してほしいなぁ」
「え?あ、そーだった」
「忘れないでよー…」
「つーか、手伝うよ。どこ持ってく?」
「え、そんな、大丈夫だよ」

洗濯カゴを渡そうとしたり引っ込めたりしながら、山本は何やら考え事をしているようで、みちるが見上げても視線が合わない。
そのくせカゴが手元に戻ってこない。器用な男だと思う。

「みちる。元の時代に帰ったらさ、一緒に遊びに行こう」
「え…?あ、うん、いこっ」

みちるは楽しそうな響きに、ぱっと表情を輝かせて元気に返事をした。
山本はそれを見てつられて笑うと、洗濯カゴを取り返そうと腕を伸ばすみちるに観念したように、カゴを手渡してやった。

「よし、約束な。どこ行きたい?」
「うーん…そうだなぁ、……あ、少し前にテレビでやってた、黒曜のほうの動物園がいいなぁ」
「テレビ?」
「CMもやってるよ。ヤギとかうさぎとか、カワウソとかの赤ちゃんを抱っこできるの!」
「へー、おもしろそうだな」
「でしょ?でもみんなにも聞いてみないと」
「ん?」
「……ん?」

山本が取り繕うでもフォローするでもなく、ぴたりと言葉を止める。
みちるも空気の違和に気付き、もしかして…と一瞬思考し、ひとつの仮説に辿り着く。

「んーっと……二人で行くってことなんだけど」

山本の苦笑いに、みちるは心の中で盛大に冷や汗を流した。
大らかな性格の山本が目の前で、自身のド級の鈍感に手を焼いている。みちるはどう謝罪をすべきか考えを巡らせた。

「あっ、う、えっと!ごめ、ごめんなさい、わたしてっきり…!!」
「……さっき、約束したよな?」
「へ!?あ、えっと、うん」

そういえばそんなことを言っていた。みちるはうんうんと頷きつつも、この期に及んで安請け合いなどしている場合ではないと、焦り始めていた。
山本のことだから、いつものように明るく笑ってフォローを入れるか、みんなで出かけるのも良いなと方向転換をしてくれるだろうと甘い期待を抱いていたが、みちるの目の前の山本は存外、真剣にへこんでいる様子で、発言を曲げようともしていない。

「みちるって、断るのすげえ下手くそだよな。なんか色々苦労しそうで心配だよ」
「え、ええー……」
「……うん、もし駄目でも気にしないよーにするからさ、でもとりあえず、誤解だけしないでほしいから言っとくな」

いくら鈍感でもさすがに状況を理解したみちるは、破裂しそうな心臓を抱えながら、だができるだけ真摯に、山本の言葉を待った。

「俺は、みちるをデートに誘ってる」

――どうしよう。
その一言しか、みちるの頭には浮かばなくなってしまった。

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