雲雀の登場に、獄寺は反射的にみちるに伸ばしかけた手を引っ込めた。
みちるは、驚いて目を丸くしながら雲雀を見ていた。涙は止まったものの、ひくっ、と一度しゃくり上げた。

雲雀は一瞬だけ、みちると、彼女の前に膝をついている獄寺を見た。
だがその視線はすぐに逸らされ、「連帯責任でここにいる全員咬み殺すから」と言い出した。

レヴィが雲雀に対して明らかな怒りを向け、背中の剣に手をかけた。
しかし、みちるはもう恐怖を感じなかった。雲雀の「咬み殺す」宣言にしても、ヴァリアーにしても。
それほどまでに、雲雀はみちるにとって、大きくて強くて、優しい人間であった。



程なくして、雲雀はリボーンと少し言葉を交わしたかと思うと、その場から去っていった。
彼は去り際にみちるを見なかった。好戦的に、ただ小さく笑っていた。
みちるには彼らの話は聞こえなかった。
彼の笑顔の理由も知らないし、思い出せなかった。

ただ、骸さんかな、と、思った。



「ってゆーか、獄寺くん治療しなきゃ!」

ツナの焦ったような声に、獄寺は笑って「カスリ傷っス」と答えた。
本当は視界も霞んでいるはずなのに。
ツナに勝利を持ち帰るために、命をも投げ出そうとしていたのに。
今は笑って、この輪の中に戻ってきてくれた。
みちるは怒りとやるせなさがない交ぜになった胸中で、獄寺の横顔をじっと見ていた。
ひっくと大きく嗚咽を漏らすと、みちるのほうを向いた獄寺と目が合った。

「千崎」

不意に呼ばれた。
言葉を何も用意してなかった。
でも、顔を見たら、やっぱり泣きそうになった。

獄寺は、今度は手を伸ばそうとしなかった。

「うん」
「……」

獄寺も獄寺で、特に言葉が出てこない様子だった。
よくわからない沈黙の中で、周囲の人間の話し声だけが耳に届く。
シャマルは「邪魔しちゃわりーから帰るな〜」などと言いながらその場を去っていったが、珍しく獄寺は何の反論も噛み付きもしなかった。聞こえなかったのかもしれない。


「よかった」


みちるのほうから、獄寺の手に触れた。

たった一言の、その声が擦れた。



* * *



獄寺くんの怪我は大丈夫だろうか。
雲雀さんは仲間として戦ってくれるのだろうか。
山本くんは、今日の勝負でスクアーロさんに勝てるのだろうか…

授業に身など入るはずがない。
ツナと獄寺と山本の席は、揃って空席だ。
翌日、みちるは自分の席でボーっと頬杖をついて、何もない宙を見つめていた。

思い出すのは、考えるのは、勝負のことばかりだった。


放課後、みちるは校舎の三階を歩くことにした。
昨夜の勝負でボロボロに爆破されてしまったはずの壁は、跡形もなく修繕されている。
いや、“修繕されているように見える”というだけである。
開いているように見える窓から、風がビュービューと吹き込んでみちるの髪を揺らした。
その窓に手を触れようとみちるが手を伸ばすと、手はするりと窓をすり抜けた。
これは、幻覚だ。

以前は、どれが幻覚でどれがそうでないかは、感覚としてわかっていたはずだった。
しかし、今のみちるには、さっぱりわからなかった。

「いッ…!」

あるはずのない窓だと思って油断した。
手を引くときに、そこに在る割れた窓の破片に、腕を引っ掻いた。
昨夜、ハリケーンタービンによって粉々になったはずの窓。縁取られるように、鋭利なガラス片が残っているのだ。

薄く巻いていた右腕の包帯に、細く筋が入って解けた。
みちるの真っ白な右腕に、細くて小さな、新たな切り傷が入った。

「……あーあ…」

もう、この包帯の下は、気にするほど痛々しい傷じゃない。
それでも、もうこれを巻いていないと、なんだか物足りない気すらする。一年以上、この状態だったのだから。
みちるは、自身の腕に目を背けたくなるような気味悪さを覚えた。
傷跡ではない。あまりにも、白すぎる。
ずっと光合成をしていない肌の色だった。

見てくれだけの窓から、生温い秋の風が吹き付けた。
薄く雲のかかった西日が、校舎をオレンジ色に染めていた。

みちるは、ふと日の光が恋しくなって、屋上へと続く階段を上り始めた。



…今、みんなはどうしているだろう。
ゆったりとした速度の風に流される雲を見上げて、みちるはそう考えた。
世界で一番、ゆっくりと流れる世界にいるみたいに感じた。
「時間が足りない」と必死で修行に身を投じているツナたちを思うと、やはり自分とは違う世界の人間なのだと再確認させられる。

そんなことはない。
彼らにも、確かにこんな時間があったはずなのに。

不意に、バン!と音を立てて屋上の扉が開いた。
みちるが驚いて振り返ると、そこにいたのは、雲雀だった。

みちるはその場から動かず、だが驚いたように目を丸くして雲雀の挙動を見ていた。

雲雀は特に驚いた様子もなく、みちるの目を見て不敵に笑うと、「やあ」と言った。

いつになくフレンドリー。
みちるはますます驚きながら、「…こんにちは」とあいさつを返した。
ご機嫌なのだろう。よっぽど、修行の仕上がりが良いのか、はたまた骸と戦える日が楽しみなのだろうか。



雲雀は給水塔を背負っている大きな倉庫の壁を背もたれにして、足を投げ出して座り込んだ。
みちるは言葉もなくそんな雲雀の動きを目で追っていたが、雲雀はみちると視線を合わせると、「おいで」と言った。

お、おいで?
みちるはその言葉を消化しきれずに反芻し、そして消化に至った瞬間、かあっと顔を赤くした。
雲雀は、自分をペットの小動物か何かだと思っているのだろうかという気恥ずかしさと照れに、自然と身体が熱くなった。

雲雀の表情は、みちるを見るときいつもそうするように、不敵に笑っていた。
みちるはごくりと息を飲み込むと、そろりとゆっくり、雲雀に近づくと、彼の隣に座った。


「目が腫れているね」
「えっ」

間髪入れず、雲雀がそう言った。
昨日、獄寺の生還を喜んで散々泣いたせいだとみちるはすぐに思い当たった。
しかし、教室では誰にも指摘されなかった。もう治ってしまったとばかり思っていた。

雲雀の意外な観察力に、みちるはなんとなく恥ずかしくなって肩を竦めた。
しかし、何も言わない雲雀に気まずさを感じて、「だいじょうぶです」とぽつりと呟いた。


再び、沈黙。
この人、風紀委員長をしているときと、戦っているとき以外は、何をやっているんだろうか。
みちるが雲雀のほうをちらりと盗み見ようとすると、いつの間にか肩が触れそうな距離に間合いを詰めた雲雀に、右手首を掴まれた。

「ひっ」驚きに息を吸い込んだ音が、みちるの口から漏れた。
バランスを崩したみちるの身体を自身で受け止めながら、雲雀はみちるの腕を見つめていた。


あぁ、なんて状況なの。
いつだってこの人は、わたしの心臓に悪い。

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