雲雀に後ろから抱きすくめられるような体勢になり、みちるは一気に体温が上昇するのを感じた。
そんなみちるの心情を知ってか知らずか、雲雀は大してみちるを気にする様子もなく、みちるの右腕を注視していた。

雲雀が以前見た傷跡とはまるで違う。
真新しい傷跡は、みちるが先刻、ガラス片でこさえたものだ。
それ以外の傷跡は、ほとんど完治に近いような状態だった。
細く、青白い腕に、数本の傷跡が薄く伸びている。

「あ、あのっ…雲雀さん……」

髪に、雲雀の息がかかるのを感じる。
みちるは必死で雲雀から距離をとろうともがいたが、いつの間にか腹部にしっかりと雲雀の腕が回され、身動きがとれない。
どんな顔で、この傷を見ているのだろう――。
どうしてもそれが気になったみちるは、すぐ後ろにある雲雀の顔を振り返った。

雲雀はもう、笑ってはいなかった。
怒っているような、切なそうな、一言では言い表せないような、複雑な表情だった。

みちるの心臓が、ドクンと大きく脈打った。

どうしてあなたが、そんな顔をするの。
わたしをこの世界に縛り付ける傷跡が消えるその日を、恐れているの?
あの、あの…雲雀恭弥が?

「雲雀さんっ…あっ!」

雲雀が、いきなり座ったままのみちるの上半身を突き飛ばした。
押し倒した、という表現のほうが的確かもしれない。
とにかく、乱暴に、乱雑に、みちるをその場に仰向けに倒した。
ごつん、と鈍い音がみちるの脳内に反響する。屋上の地面に頭をぶつけたのだ。
みちるの目の前に一瞬星が飛んだ。
雲雀は構わず、そのままみちるの肩の横に腕をついた。

雲雀は、何も言わない。
みちるの顔もまともに見ないまま、みちるの肩口に顔を近づけた。
みちるは喉元に雲雀のやわらかい髪がさらさらと触れるのを感じ、一瞬恐怖した。
「や、やめっ…!」弱々しく抵抗の言葉を搾り出し、まだ覚醒し切らない頭と身体で、雲雀の肩を押し返した。

雲雀はそれを聞き入れたのか、ぴたりと動きを止めると、ゆっくりと身体を起こした。
彼が次に見たみちるは、真っ赤な顔で、それでいて青白い額に冷や汗を浮かべていた。
雲雀は内心で舌打ちを漏らした。彼女に対して、ではなく、自分に対して。

雲雀がみちるの身体をまたぐようについていた腕を引っ込めると、みちるはゆっくりと起き上がった。
逃げようとはせず、心配そうに雲雀に声をかけた。雲雀さん、と。

“いい加減にしてよ”。
雲雀が心の中で呟いたはずのその声は、間違いなく声となって、みちるの耳に届いた。

「……」

拒絶の言葉、だ。
みちるは伸ばしかけた手を引き、雲雀から視線を外して俯いた。
何がなんだかわからない。それでも、今この人は、わたしを遠ざけたのだと思う。

どうしよう、泣きそう――。
みちるはその場から動けずに、涙を必死で堪えた。
みちるがずずっと鼻をすする音が、雲雀の耳に届いた。
雲雀は無表情でみちるを振り返った。みちるが目をこすっている。

「……すみません…」

目が合ってしまった。
みちるは、その言葉しか、思いつかなかった。

「…きみ…」
「……」
「いい加減にして。どうしていつまでも、いなくなってくれないんだ」

「あ…っ」

雲雀の言葉を額面通りに受け取ったみちるは、慌ててその場を立とうとした。
しかし、それは叶わなかった。雲雀が、みちるの腕を掴んで、自身の腕の中に閉じ込めたから。
今までで一番、強い力だった。みちるが呼吸をするのすら困難なほど。

「いなくならないなら、いい加減に……」
「……?」
「僕の隣に来ればいいんだ」

いつもは抑揚のない口調の雲雀の声が、切なげに震えている、ような気がした。

心臓が身体の中で暴れまわって、苦しい。
取り出すことができたらどんなに楽だろう。
いつだってわたしは、この心臓に身体中を支配されている。
怖くても、恥ずかしくても、泣きたくても嬉しくても、わたしの気持ちとぴったり反響するみたい。

腕の中で大人しくなったみちるを、雲雀は急に解放した。
かと思うと、もう一度、みちるの右腕を掴んで、じっと見つめた。
みちるがそんな雲雀を真っ赤な顔で見つめていると、雲雀は次の瞬間、みちるの右腕の真新しい傷跡に、唇で触れた。

「っ!ま、待って…!」

みちるの腕を掴んでいるのは、決して強い力ではなかった。
雲雀が軽く音を立てて、みちるの右腕に吸い付いた。

雲雀さんに、キスされている。

そう確信したとき、一気にこれが夢なんじゃないかという疑いに駆られた。
じわりと滲んだみちるの赤い血を丁寧に舐めとると、雲雀は自身の唇についたそれもぺろりと舐めた。

みちるは、天敵の猫に見つかったネズミのような心地だった。
雲雀が、獲物を前に舌なめずりをする黒猫に見えた。

だが、次に落とされた唇は、傷口に優しく触れるだけのキス。
その次には、跡を残すような強いキス。
ちゅう、と音を立てて吸い付かれた瞬間、頭がくらくらした。
身体の内側が燃えていくみたいに、ぞくぞくした。
雲雀は一度、みちるの表情を伺い見た。
目が合った瞬間、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
みちるは雲雀のその表情を見た瞬間、ぞわっと背中に悪寒が走るのを感じた。
でも、逃げられなかった。
逃げたくなかった。
この次には、雲雀さんは、どんな刺激をくれるだろう…
危ない衝動に駆られている自分に焦りながらも、みちるは腕を引くことをしなかった。

「本当は、傷をつけてやりたいくらいだ。一生もののね」
「……え…」
「こんな跡、すぐに消えるよ」
「ひば…、」

反論の余地もないまま、雲雀はもう一度、唇を寄せた。
右腕の内側を痛いくらいに吸い上げられ、彼が顔を上げたとき、そこには青紫色のアザがくっきりと残されていた。

痛々しいそれを見て、雲雀は「いいね」と、満足げに笑みを浮かべた。
みちるが口を半開きにしたままアザをじっと見つめていると、雲雀の手の平が、みちるの頬に触れた。

みちるが驚いて半身仰け反るように引くと、雲雀は大人しく腕を引いた。
強引だったり、たまにこうして余裕を見せたり、
――雲雀さんといると、心臓が壊れてなくなってしまいそうになる。

「千崎みちる」

みちるの右腕に、十数か所と残されたキスマークを親指でなぞりながら、雲雀は言った。


「僕は、置いていかないから」


――なんて、強烈な言葉だろう。
一緒にいる時間は決して長いものではなかったはずなのに、
出会いは最悪だったはずなのに、誰もが恐れる凶悪な風紀委員長なのに、

――この人は、どうしてこんなにも。


「だから、おいで」


そうやって、雲雀はまたみちるを呼ぶのだ。
小動物を愛でるように、飼い猫に手を伸ばすように。

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