09
昼休み、部室のある旧校舎の空き教室で外を眺めていた。ほんのりと紅く色づき始めた木々の葉が風に煽られて揺れたり落ちたり、ハラハラと舞う枯れた葉を見つめているとあっという間に時間は過ぎていった。
イヤホン越しにカラリと扉を開く音が聞こえる。頬杖を崩して音のする方に視線を移すと倫太郎が立っていた。
「探したよ、名前さん」
体育祭のあと、私は倫太郎と顔を合わせるのが気まずくて昼休みはこうして隠れるように旧校舎の空き教室を転々として過ごしていた。
そうしているうちに中間テストも終わり、季節も進んで現在稲荷崎高校では文化祭の準備で活気に満ち溢れている。
その間、倫太郎を見かけることはあっても声はかけず連絡も取らずにいたし、倫太郎から声をかけられることも連絡が来ることもなかった。
イヤホンを外して「電話くれたら良かったのに」と静かに返事をした。
倫太郎はそのまま教室へ少しだけ足を踏み入れて開いた扉にもたれ掛かりながら「電源」と一言だけつぶやく。
ポケットからなんの反応もなかったスマホを取り出せば電源は入っておらず、そういえば3限目はスマホを授業中に鳴らすとうるさい先生の授業だったので休み時間に電源を切っていた事を思い出す。
「ごめん……どうしたん?なんか用事?」
久しぶりに彼と話をするのに素っ気なくなってしまった。
私、倫太郎にどんな感じで接してたっけ。
未だ感情の見えない目の前の彼を見つめながら記憶の中の彼との会話を思い出そうとするも、記憶の中の私はいつも倫太郎に素っ気なかった。
「なんか……噂になってんじゃん」
「噂?」
「俺たちが別れたって」
あれだけ毎日ベッタリだった私達がここ1ヶ月ほど距離を置いているのだから気付く人は気付くだろう。
倫太郎は今やバレー部の主力選手だし学内でも目立つ存在だ。
噂になっていたっておかしくはない。
「へぇ、そうなんや」
「……別れてねぇのに……外野に勝手なこと言われて気分悪いんだけど」
腕を組んで私から視線を外した倫太郎はなんだか居心地が悪そうだ。
早く彼を開放すべきだという想いともっと一緒に居たいという想いが私を責め立てる。
「倫太郎は……どうしたいん?」
「……それを俺に委ねるんだ?」
吐き捨てるようにつぶやきながらあの日のように彼の眉間がほんの少し歪む。
ごめんな、ズルいことして。
私は倫太郎に甘えている。
自分からは彼にして欲しいことを口に出して言わなかった。彼は文句を言いながらも私の望みを叶えてくれることを知っているから。
倫太郎からの問いに私は沈黙で返事をする。
「俺が……行かないでって言ったらやめてくれんのかよ」
本当は感情を露わにしたいのに押さえ込んでいる、すこし力んだ倫太郎の声。
こんな彼の声は初めて聞く。
「悪いけど、その選択肢はないわ」
私がきっぱりと告げると、倫太郎はふっと笑う。張り詰めた空気は緩んだがそれは終わりの気配を纏っていた。
「……だろうね」
はぁ、軽く息を吐いた倫太郎はゆっくりと私に近付く。
倫太郎はすっと私に右手を差し出した。
お別れの握手でもするのだろうか。
彼の顔を見上げて様子をうかがうと、またいつもの無表情だった。
こんなふうに穏やかに終われるのなら本望だ。
彼の右手に自分の右手を差し出した時、その腕を強く引かれてバランスを崩した私は倫太郎の腕の中に倒れ込んだ。
体勢を立て直す間もなく、倫太郎は私をきつく抱きしめた。息がしづらくて苦しかった。倫太郎の匂いが私の鼻孔をくすぐる。こんなふうに彼に触れることはもう二度と無いんだと思うと急に涙がこぼれそうになる。
こんなところで泣いてはだめだ。
私の都合で彼を振り回しているのに。
せめて
せめて倫太郎の前では涙を見せずにいなければ。
つらくて、くるしくて、切なくて
もう感情がぐちゃぐちゃになってしまった私は自分を保てなくて壊れそうだった。
「別れよ、名前さん」
倫太郎は私の耳元にそう囁いて顔を見せずに離れた。
そのまま私に背を向けて教室を立ち去る倫太郎の大きくて猫背気味な背中が見えなくなるまで、私は教室で立ちつくしていた。
予鈴が鳴ってあと5分で午後の授業が始まってしまう。ここからだとすぐに教室へ戻らないと5限目に間に合わないが今の私は急いで何かをする気になれない。
座っていた椅子にまた腰を下ろして机の上に転がっているイヤホンを装着しようとしたところでようやく気がつく。
「スマホ電源入ってないのに何を聴いてたんやろ」
ぼんやりしていた自分自身に笑ってしまう。
目尻にたまった涙を拭って、また窓の外の景色を眺める。
ようやく
わたしはひとりになった
「あー、すまん。俺そろそろ店番戻らなあかんわ。片付け頼んでもええ?」
銀島がスマホで時間を見ながら言う。
今日は文化祭2日目
中庭のステージに4人で分担して買ってきた大量の食べ物をずらりと並べて好きなように口に運んではうまい!だのちょっと肉少なない?なんて他愛もない会話を挟んでいた。
「あっ、侑!お前最後の一個勝手に食うなや!!ここはじゃんけんやろがい!!」
「いちいちうっさいねん、治!こんなん早いもん勝ちにきまっとるやろが!!」
大玉たこ焼き9個入りの最後の1個について双子が揉め始めたので銀島には「後やっとくから行きなよ」と言って見送った。
双子がお互いの胸ぐらを掴み合っているのをスルーして空になった発泡スチロール製の皿や割り箸などをまとめていると
「角名止めんかい!」
と侑と治が俺にツッコんでくる。
「んだよ、俺のツッコミ待ってんじゃねぇよ」
ほんとめんどいと悪態をつきながら近くのゴミ箱へまとめたゴミを投げ入れた。
「なぁ、次どこ行く?」
先程の小競り合いなどなかったかのように侑がパンフレットを広げながら話しかけてくる。
「あっこは?北さんのクラスの喫茶店まだ行ってないやろ?」
そういえば大耳さんに時間あったらおいでと言われてたっけ。
「いいよ、行っても」
俺がそう返事すると「なんで上から目線やねん」と二人で声を揃えてつぶやく。
3年の教室へ続く廊下を双子の後ろへついて歩いていたら侑が話しかけてきた。
「なぁ、角名なんで昨日の告白断ったん?今フリーなんやろ?」
「唐突だな。前フリとかねぇのかよ」
我が校の文化祭は飲食店や展示、お化け屋敷などのちょっとしたアトラクションの他に文化祭実行委員会主催のイベントも充実していた。
昨日、クラスの出し物であるスーパーボールすくいの店番をしていたら実行委員のやつに校庭まで引っ張っていかれ、人だかりの真ん中まで連れて行かれたところでようやく気がついた。
これ、テレビで見たことあるやつじゃん。まさか自分が当事者になるとは……なんて考えていたら屋上から知らない下級生が大声で告白してきた。
そのまま流されてOKしてもよかったけどめんどくさい。
気持ちいいコトを気兼ねなく出来る相手を確保できるのはありがたいけど、好きでもない子に合わせんのも合わせられんのも。
そういうの、今はする気になれない。
「けっこう可愛かったやん、1年の子やったっけ?」
「じゃあ治が付き合えば?俺は興味ない」
「よう言うわー!ちょっと前まで苗字サンの後くっついて回っとったくせにな!」
「侑、あんまり言うたんなや。角名くんは傷心中なんやから」
双子からのイジりがひどい。
これはリアクションをすればするほどドツボにはまると察して無視することにした。
3年7組の教室の前まで来ると、客引きをしていた顔見知りの先輩が声をかけてきた。
「いやー、角名くん!宮くんら連れてきてくれたん?ありがとう!!入って入ってー!!」
3名様ご案内でーすという明るい響きに続いて教室に入る。
通された席に座って差し出されたメニューに目を通していると、ホール担当の先輩達が集まってくる。
「侑くん、今やったら北くん休憩中やからゆっくりできるでー」
「治くん、巨大パフェの大食いチャレンジしてみる?」
ここでも双子は人気者だ。
注文したホットコーヒーを啜って暇つぶしに双子の写真を撮ってSNSを眺めて。
俺の日常ってバレーがないとこんなに退屈だったっけ。
紙コップに半分残っていたコーヒーを一気に飲み干してスマホをポケットへ突っ込みながら席を立った。
「え、角名もう行くん?治まだ食うとるで?」
「時間かかるだろ?俺そのへんぶらついてくる」
「えぇー、もうちょっと待ったれや」
と珍しく片割れを気遣うような事を言う侑に「終わったら連絡して」とだけ告げて、扉を開けて外に出ようとしたらちょうど大耳さんが戻ってきた。
「おう、倫太郎。来てくれてたんか」
「あ、はい。さっきまでコーヒー飲んでました」
「そらどうも、おおきに」
大耳さんらしからぬ、商売人じみた言い方か可笑しい。
「大耳さんは今から店番なんですか?」
「いや、今日はシフト入ってへんねん。けど暇でな。休憩がてらここに戻ってきたんや」
「あ、そうなんスか」
会話が途切れたのでそろそろ行こうかなと考えていた矢先にまた大耳さんが口を開く。
「……倫太郎、このあと時間あるか?」
「あ……はい、特に予定もない…です」
あぁ、きっと名前さんの話だろうなと思った。
正直、俺の失恋の傷はまだ癒えていない。いや、傷なんてレベルじゃない。
だから名前さんの話なんて今は一番聞きたくないんだけど……
あれ、もしかして俺責められるやつ?大耳さんに「俺の大事な幼馴染を」とか言って責められるやつ?
いや、大耳さんに限ってそんな野暮な事はしないだろ、なんて考えていたが
「ちょっと場所変えよか」
「……はい」
俺は借りてきた猫みたいに大人しく大耳さんのあとをついていく。
さっきまで居た校舎と旧校舎を繋ぐ3階の渡り廊下の柵に大耳さんと並んでもたれかかる。
下の階まではわりと人が行き交っているけれど旧校舎の3階は一般の客は入れないように張り紙がしてあるせいか、ここには俺たちしかいない。
「そういえば、北さんは一緒じゃなかったんですか?」
「あぁ、信介は今名前の所に行ってるねん」
その名を会話にすんなりと馴染ませるあたり、上手いなと感心してしまう。
でもその名前には反応したくない。
責められるのはごめんだ。だから曖昧に相槌をうった。
これ以上、彼女の話を広げないために。
そんな俺の様子を見て大耳さんは軽くため息をつく。
「部活ではする話しちゃうからな、まぁ聞きたないやろうけど……名前の愚痴大会ということで」
そう前置きをして、大耳さんは静かに話し始めた。
「あいつ、自分からはやりたい事口に出さへんやろ?」
思い当たる出来事がありすぎる。
実際、決定的な別れの言葉は俺からだったし。
「……はい……ですね」
「やりたくない事はめちゃくちゃ饒舌に語るくせにな」
「ぶっ」
大耳さんの言葉に思わず吹き出してしまった。
反応するつもり無かったのに。
「名前は……まぁ、一人っ子やったから小さい頃から両親の仕事場やらばあちゃんの個展やらに連れられていくことが多かったみたいでな、同年代の子供より大人に囲まれてる機会の方が多かったんやて。そのせいやろな、今でも人に自分の気持ちを察してもらうの待ってるフシがある」
「確かに、心当たりがありすぎます」
せやろ、そうつぶやいて大耳さんは少し遠くを見つめた。
「でも、中学の頃はそれも口に出さへんようになってもうてな」
え、嘘だろ?あんなに気ままで勝手なのに。てっきり子供の頃から甘やかされ倒してあんなふうに仕上がったものだとばかり思っていたのに。
「中学上がる前、名前んとこの両親が離婚してからやな。学校では友達も作ろうとせぇへんし喋らへんし。大人も同級生も腫れ物みたいに名前を扱ったらしい。俺は学校ちゃうかったからよう知らんねんけどな」
今よりも幼い名前さんが教室でひとりで過ごす様子が先日の旧校舎の名前さんと重なって少し切なくなる。
あの人は、どうしてひとりになりたがるのだろう。
違うな、ひとりにさせてしまったのは俺だ。
「名前がまた昔みたいに喋るようになったんはこの高校に通い始めてからやけど、明らかに変わったんは倫太郎が俺らの教室に来て名前に突っかかるようになってからや」
俺の名前が出てきて大耳さんの顔を見た。
大耳さんは俺と目が合うと部活では見せたことないような優しい表情を浮かべた。
「……倫太郎が名前を昔の名前に戻してくれたんや。俺が言うのもおかしな話やけど……ありがとうな」
「……大耳さん……過保護ですね」
「フフッ、過保護ついでにもうひとつ。もうちょっとしたら書道部のパフォーマンス体育館で始まるんや。名前の最後の勇姿、観に行ったってくれへんか?」
……大耳さん、上手すぎ
本当は名前さんの最後のパフォーマンスを観たくて今日は落ち着かなかった。バレないように体育館へ忍び込もうかと考えたりもした。でも別れた彼女に執着するのもキモイしなんか悔しいし。
「倫太郎も大概やな」
「な、何がですか?」
「ほら、もう時間無いで?とりあえず観てこいや。ホンマは名前に言いたいことあるんやろ?たまにはあいつ振り回してこい。俺が許す」
「……ッス!」
大耳さんに頭を下げて俺は走り出した。階段を駆け下りて、廊下を埋める人の間を縫って体育館を目指す。
体育祭の日、卒業後の名前さんの進路を聞いた。
ショックだった。
遠くへ行くということよりも、それを俺になんの相談もなかったことが。
わかっている。
俺たちはまだ子供だし、たかが高校生の恋愛だし、彼女の望む未来を邪魔するつもりもないし。
それでも話して欲しかった。一緒に悩みたかった。アドバイスなんてできないけど側で名前さんに寄り添いたかった。
だから動揺した。
『言うたら終わると思った』
名前さんにそう告げられて、受け止められそうにないと思われていると感じてしまった自分自身に。
彼女の荷物になるくらいならと俺はその手を離した。
本音晒すなんてカッコ悪いことしたくなかったし、彼女の事を思ってなんて口当たりの良い言葉で自分の気持ちを誤魔化した。
けどそうじゃない
そうじゃないんだよ!
体育館に飛び込んだらちょうど書道部のパフォーマンスが始まる直前だった。
体育館中の視線が俺に集まるのを感じたけど、そんなのもうどうだってよかった。
名前さんの姿が視界に入る。
彼女は俺と目が合うと、少し驚いた表情を見せたが瞳を閉じて深呼吸をした。
あれはいつも文字を書く前の名前さんのルーティンだ。
あの瞳が開いた後は、彼女は書の世界に没頭する。
俺が立ち入ることを許されない、彼女だけの世界。
名前さんが瞳を開く。
そこで名前さんが俺を見つめながら微笑んだ。
見てて
声は聞こえないけど名前さんの唇がそう紡ぐ。
見届けるよ、最後まで。
「よろしくおねがいします!」
書道部全員の挨拶が体育館に響く。
名前さん達の最後の演技が始まった。