- ナノ -

end

何かと理由をつけて準備を手伝ってくれている北くんからは「最後の舞台、角名に声かけとこか?」と言われていた。

「別にええよ、そんなん。それに絶対けぇへんと思うし」

笑い話のようにそう返事をしたものの、心はざわざわと落ち着かず、誰かの話し声にも敏感に反応してしまう。もしかしたら来てくれるかも…という淡い期待を完全に捨てきれずにいた。

倫太郎が手を離すように仕向けたくせに。


だからびっくりした。

まさか本当に来るとは思わんかった。



あかんあかん、集中せな。
これで後輩たちと部活をするのは最後やねんから。

倫太郎の姿を見つけてすっかり動揺してしまった気持ちを落ち着かせようと、いつものように瞳を閉じて集中する。



昨日の本番後のミーティングで部長の辻尾が私に言い放った。

「あ、明日の本番なんですけど、最後は名前先輩の一番好きな字ぃ書いてくださいね!」

辻尾の言っている意味がわからなくて、しばらくその顔をぽかんと見つめていたが、働き始めた私の思考がそれがどういう意図で発せられたのかを理解する。

「いやいやいや、あかんて!気持ちはありがたいけどこのパフォーマンスのテーマやん最後のやつは!それ変えたらあかんやん!!」

練習もしてないし、最後の最後で失敗してしまうかもしれない。せっかく後輩たちががんばってきた成果を台無しにしてしまう事だけはなんとしても避けたい。
気持ちはありがたいが慌ててその申し出を断ろうとした。

「そんなん、コンテストでも何でもないんですから何書いたって誰も怒りませんよ」

と芦川がいつものようにサラリと外堀を埋めてくる。でもそれを言ってしまうと元も子もないのでは……と怯んでいると

「名前先輩、明日で引退じゃないですか。私ら名前先輩の一番好きな字で最後飾って欲しいんです」

辻尾はいつも以上に熱く迫ってくる。

辻尾だけではない。後輩たちが口々にお願いしますと言う。
こうなるともう断ることはできない。いつの間にか後輩たちの押しに弱くなってしまった。

でも最後の最後まで書きたい文字が浮かばなかったらどうしよう。

「…これまでのと同じやつ書いても……逆に何の脈略もなくても文句言わへん?」

念の為、後輩たちに了承を得ておこうと小賢しい私は少々下手に出てみる。

「それが名前先輩の一番書きたいものなら」

芦川がそう言いながら珍しく笑った。



うん、
イメージは掴めた。


私が入部したとき、書道部は先輩が2人だけの同好会で、好きなときに好きなだけ書く。ただそれだけの部活だった。

あっという間に引退してしまった先輩のいない部室で、ひとりで真っ白な紙に向き合う日々。

気楽だけど孤独だった。

でもそういうもんだと思っていた。

春になって辻尾達が入部してきて、部長として足りないことも多かったと思うけど、毎日同じ部屋で一緒に白い紙に向き合って、一緒にパフォーマンスをするうちに自分の満足いく字を書く以外の楽しさを見い出せた。

稲荷崎に来てよかった。

今日はすべてを出し切れる。

そんな確信を得た私は瞑った瞳をゆっくりと開いて倫太郎を見つめる。

愛想のない表情を浮かべる倫太郎。
久しぶりに見たわ、その顔。

私は今どんな顔してるんやろう。

たぶん

きっと

笑ってるんやろな



「見てて」



倫太郎に向かって私はそう呟いた。


曲に合わせて白い紙に言葉が埋められていく。

食べる、眠る、学ぶ、遊ぶ、走る、作る、選ぶ、悩む、笑う、泣く

どこにでもある、ありふれた単語ばかり。
けれどこれらは俺たちの日々を構成している動作や感情の中のほんのひとにぎりでしかないのだと改めて気付かされる。ひとつひとつの動作、思考、感情が複雑に絡み合って俺たちは日々を生きている。

今回は1年生も演技に参加しているようで、俺が春に手伝っていた時から随分と演出に手を加えている。

数人ずつ、曲の緩急に合わせて紙の上で文字を書き、色を変え、筆を変え、クライマックスへ向けて盛り上がりを見せている。

最後に名前さんが一番大きな筆でこの紙のど真ん中にこの演目のタイトルにもなっている一文字を書く段階に来た。

名前さんがためらいもなく筆をドンっと紙に叩きつけた。
その位置は俺が知っているものとは違っていて、ここも演出を変えたのかと思っていた。

飛び散る墨を物ともせず、彼女は本当に楽しそうに全身を使って筆を運ばせていく。
大きな紙の上を軽やかな足取りで、まるでステップを踏んで舞うかのように。
鼻歌まで聞こえてきそうだった。

徐々に顕になる最後の文字を見て、俺は思わず息をのむ。

この演目の顔とも呼べる最後の文字は、俺が思っていたものではなかった。


そこには《倫》と書かれていた。


『わたし、"倫"て字、好きやわ』

いつかの名前さんの言葉が蘇る。

「っ、ほんっと……、あの人はっ」

認めたくない

認めてたまるか

けど

瞬きすら惜しい。

満足げな笑みを浮かべた彼女が筆を置く姿を焼き付けるように見つめる。

俺はまだめちゃくちゃ名前さんのこと好きだ。

演技を終えて整列した書道部員に体育館中から拍手が響く。

照明が落とされて、休憩を知らせるアナウンスが入ると俺は体育館を飛び出た。








































8年後



「角名もついに代表入りか、感慨深いなぁ」

顎に蓄えた髭をスリスリとさすりながら尾白さんは「おめでとう」と俺を労う。

「ッス」

まだ学生時代の癖が抜けきらぬような返事をすると

「おっそいねん!!!」

と侑が顔をしかめて憎まれ口を叩く。

「うるせぇな、俺はスロースターターなんだよ」

「まだそんな事言うてんのか、お前は!」

2021年4月 大阪

つい先日、今年の日本代表メンバーが正式に発表され、それから間もなく母校である稲荷崎高校バレーボール部創部50周年の式典のゲストとして尾白さん、侑、俺がキャスティングされた。

大阪城の近くにある御三家と呼ばれる豪奢なホテル。
控室として案内された部屋の中、3人で顔を突き合わせていると、扉をノックする音が響く。

侑がはーいとも、ほーいともどちらにも聞こえるような間延びした返事をすると

「入んで」

と聞き覚えのある声が返ってきて俺と侑は姿勢を正した。大人と呼ばれる境界を越えてもう何年も経ってるのにいくつになっても後輩根性が抜けきれなくてうんざりする。

カチャリと扉を開いて入ってきたのは、北さん、大耳さん、赤木さん、銀島の4人だった。
年に一度、治の店に集まって近況報告がてら飲み会が開催されるのでそんなに珍しい光景でもないが、普段はラフな服装で集まっている面々が正装して顔を突き合わせる機会なんてほぼ無いので思わず手元のスマホのカメラを起動してしまう。

「おまえら忙しいのに悪かったな」

「角名、代表入りおめでとう!」

「なんやアラン、ヒゲ剃ってきてへんのかい!」

「侑えらい気合入った格好しとんな!」

みんな思い思いに話し出すので相変わらずバラッバラだなと思っていると「お前ら自由か!順番に話せや!!」と尾白さんが即座にツッコむ。

「ああー!これやねん!アランくん!!!このツッコミー!!!」

と侑が泣きそうな顔で尾白さんにしがみつくので、いよいよこの狭い控室が暑苦しくなってきたところで一人足りないことに気がつく。

「あれ?今日治は?」

このメンツが揃っているのにあいつがいないのはなぜなのか。すると銀島が

「治は今日出張おにぎり宮やるねんて」

「え、ここで?」

「さっき見てきたけどいつもの格好で黙々と設営しとったわ。うちの米使こてもろとるからこちらとしてもありがたい」

と話す北さんに被せるように侑がぼやく。

「何やご新規さん開拓や、言うて気合い入れとったわ。俺も手伝わされるところやった」

「なんつーか、商魂逞しくなったもんだね、治も」

北さんはOB会でも役職についており、今回のパーティーでも運営側として立ち回っていた。後援会会長の「日本代表にぜひゲストとして来てもらいたい」という思い付きを実現させたのは北さんが事前に手を回していたおかげである。
まぁ、事前に手を回すというか、前回の飲み会の時に「お前らこの日は予定空けとけ」の一言だったと思うのだが。治の出張おにぎり宮もきっと北さんが手を回したに違いない。

「いや、でも北さん。俺やアランくんが代表入りすんのはまぁ想定通りですけど、よう角名が代表入るてわかりましたね、あたっ!何すんねん、角名!」

さっき代表入りすんのが遅いと俺に噛み付いたくせに本心では俺が代表に入れないと思っていたのだろうか、こいつは。
ムカつくので肩を叩いてやった。

北さんは「うん」と一呼吸置いて

「まぁ、角名も中堅やし、実力も経験も申し分ないしな。実際このシーズンも調子良さそうやったし。それに代表MBもそろそろメンバーの生まれ変わりをはかる時期やろなと思とったから」

「……でも俺が代表に入るかどうかなんてあの時点でわかんなかったでしょ?なんで……」

ちょっと自虐的な言い回しになってしまった。
北さんは俺をじっと見つめて破顔する。

「まぁ、多少なりとも俺の希望も入ってたな。ええやんか、代表入りおめでとう」

「……ありがとう…ございます」

あぁ、やっぱまだ慣れない。こんな笑う人だったっけ、北さんて。

「なんや角名、照れとんか?」

「うっさい侑。黙ってなよ」


「それでは本日の特別ゲスト、稲荷崎高校OBであり2021年バレーボール男子日本代表に選出された尾白アラン選手、宮侑選手、角名倫太郎選手にご登壇いただきます。皆様盛大な拍手でお迎えください!」

司会のアナウンスの後に順番に舞台の上に登っていく。
今日は現役の吹奏楽部も駆り出されているようで、俺たちが舞台に上がるのに合わせて懐かしい曲を演奏している。大人の余興に付き合わされるのも大変だな。

簡単な挨拶を一人ずつこなしたあと、OB会会長、後援会会長、黒須監督と俺達で大きな酒樽を囲んで鏡開きが行われ、ようやく宴が始まった。

呼ばれるがまま、挨拶、握手、写真、サインに応じていよいよ疲れてきた頃におにぎり宮の前に佇む大耳さんに呼ばれる。

「角名、ちょっとここで休憩しとき」

「おつかれ角名。なんでも好きな具握ったんで」

「じゃあ鮭とたらこ」

「はいよっ」

手際よくご飯に具を握り込んでいく治の手元を見つめながら大耳さんに聞いてみる。

「俺初めて参加しましたけどOB会後援会総会って毎年こんな感じなんですか?」

今、舞台では後援会会長が自前の和太鼓を披露している。
完全におっさんたちのお楽しみ会だ。

「あぁ、角名は初めてやったな。あれは毎年恒例や。まぁ、今年は特別やから他にもいろいろ出しモンあるらしいで」

振る舞われた日本酒を傾けながら大耳さんは笑っている。そして俺はいつもの質問を大耳さんへ投げかける。

「あれから……名前さんから連絡ありましたか?」

「……いや、ないな」

「……そうですか」

このやり取りにも、もう慣れたものだ。


あの文化祭の書道部のパフォーマンスの後、名前さんと俺は期間限定でよりを戻した。
俺としては期間限定のつもりはなかったが、彼女の卒業式の日、帰り道で別れを告げられた。
今度は名前さんの方から。

その頃には俺も卒業後はバレーで食っていく覚悟を決めてバレー部のOBを頼りに動き始めていたので

「これからは、お互いの道をしっかり歩いて行こう。だからお別れや」

名前さんは片手に後輩たちから貰った花束を抱えてすっと右手を差し出した。

「……キスはなし?」

「あかん」

「ハグも?」

「あかん」

「……つれないな」

俺がそう言うと名前さんは少し寂しげに微笑んで

「……あんた、ほんまに私のこと好きやな」

と言った。

俺ははぁーと長いため息をついたあと、彼女の柔らかい右手をそっと握る。

「俺、絶対プロになるから」

「うん」

「日本代表になって名前さんがどこにいたって俺の活躍見れるようにするから」

「うん」

「だから……こっちに戻ってきたら……」

バサッ

さっきまで名前さんが抱えていた花束が地面に落ちて、その衝撃で散った花弁がアスファルトに不規則な模様を作る。

唇に柔らかいものが触れる。

キスはなしって言ったくせに。

ほんと気まぐれだ。

ゆっくりと唇を離した名前さんは静かに話す。

「続きはいつかまたお互いの道が重なることがあったら聞くわ」

じゃあ

地面に落ちた花束を拾って名前さんは歩いていった。


あれから8年経った。

俺はプロになって日本の代表にも選出された。

この8年の間にバレーの傍ら名前さん以外の女の子と親密になってみたりもしたけど、なぜか長続きしなかった。

まるで呪いだ

そう思った。

彼女の道が俺の道と再び重なることなんてこの先あるんだろうか。


ふと、会場の照明が徐々に落ちていることに気がついた。
後援会会長の和太鼓が一定のリズムを刻んでいる。

何か次の余興が始まるのだろうか。

舞台に視線を送ると黒の着物と袴を身に着け狐の面を付けた人がいつの間にか立っている。

なんだあれは。

会場に低音の和太鼓の音が響き、漆黒の狐が腕を振り上げた。

それを皮切りに和太鼓がまた躍動する。その音に合わせるように、狐が舞う。

幻覚なのだろうか。でも舞台で舞う狐は間違いなく名前さんだ。

何年経ってたって見間違えるはずはない。

長い紙の上を、あの文化祭の時より洗練されたステップで文字を書き上げていく。

息を呑んでその姿を見つめていると、いつの間にか俺の隣に北さんが立っていた。

「サプライズ成功やな」

大耳さんがそう呟くと

「せやな」

と北さんが俺を見上げて笑う。

次の瞬間、ワッという歓声と共に拍手が鳴り響いた。

狐が書き上げた書が掲げられる。

『思い出なんかいらん』

それは稲荷崎高校バレーボール部のスローガンだった。

面を外すことも、声を発する事もなく鳴り止まぬ拍手の海の中、狐は会場を後にする。

「俺、行きます!」

「「おう」」

前にもあったな、こんなこと。
この二人には後でちゃんと説明してもらわないと。
そう思いながら俺は狐の後を追って会場を出た。


会場の外に出ると通路の突き当りの角を曲がっていく黒い影を捉えた。

走るわけにもいかないので足早にその姿を追いかけて通路を曲がると名前さんが階段のそばにあるソファーに腰かけていた。

狐の面は外していた。

「久しぶり」

名前さんはあの頃の面影を残しつつすっかり大人の女性へと変貌を遂げていた。

「……遅えよ」

彼女の前に立って膝をつく。

「ね、俺プロになったんだよ?」

「うん、ずっと見てた」

「代表にも入ったんだ」

「うん、がんばったな、倫太郎」

「……ご褒美下さい」

少しキョトンとした表情を浮かべた名前さんはしばらくすると優しく微笑む。

「あの日の続き、聞かせてくれたらええよ」

何度も反芻した。
あんたに伝えたくて。

ずっとずっと、伝えたかった。

彼女を閉じ込めるように抱きしめた。
墨の匂いが鼻をかすめる。
肺いっぱいに吸い込んで思いを込めて彼女にぶつける。


「今度こそ……ずっと一緒にいてよ、俺と。一番近くで応援してよ」

ふふ、と俺の腕の中で笑う名前さんが

「ええよ、ずっと一緒におる。倫太郎のそばにおる」

そう言って きゅっと俺のスーツを掴んだ。

「名前さん気まぐれだからな……」

「んなことないよ」

「嘘ばっか」

抱きしめた腕を緩めて彼女の額に自分の額をくっつける。両手で彼女の頬に触れてその暖かさに安心する。

あぁ、俺はこれからも名前さんに振り回されるのだろう。

抗えない

人はきっとこれを

愛というのだろう。



-end-