- ナノ -

08

私にとって、この夏は特別だった。

春にエントリーした書道パフォーマンス甲子園の予選には当然のことながら落選していたが、その結果にへこむ間もなく現書道部部長の辻尾に

「せっかくなんでこれをブラッシュアップして文化祭で披露しましょう!名前先輩!」

と熱く語られ、もう少しやってみたいという思いもあってその提案に乗ることにした。

おかげで本来ならさっさと引退して部活には書きたいときだけ顔を出す生活を送ろうと思っていたこの一年は想像していたものよりもハードになりつつある。

夏休みの間も練習日を設けて炎天下の中パフォーマンスの練習をしたり、本選へ進んだ学校の動画を見て研究したり、普通に書道をしたり。

そんなわけで3年になってからようやく部活らしい部活を満喫しながら私はこの夏を過ごした。

一方、バレー部は今年も兵庫県代表としてインターハイへ出場し、準優勝という立派な成績を収めた。

最後の夏ということもあり、私は練の家族とともに決勝戦の試合を会場まで応援しに行った。

県内の大会へは何度か足を運んだことはあったのだが、さすが全国大会。
会場の雰囲気も、応援も、選手の迫力もこれまで見たものとは桁違いだった。

いつもとは全く違う彼らの躍動する姿に目を奪われ、心を奪われ、声が枯れても声援を送り続けることをやめられなかった。
いつの間にか自分も彼らと一緒に戦っている、そんな感覚に囚われていた。

最後にボールが床へ落ちた瞬間、それはほんの一瞬だったはずなのにスローモーションのように瞳に焼き付く。

そこで試合が終わってしまったことを受け入れられず、観客席が騒然とする中、こちらへ背を向けて天井を見上げたまま動こうとしなかった倫太郎の姿を見たときにようやく私は稲荷崎高校が破れてしまったことを理解した。

なぜか涙が止まらなかった。

観客席の前に整列した彼らは悔しそうな表情を浮かべる子が多かった。でも北くんをはじめ3年生は、もう次の春高を見据えているような、静かに燃える炎をその瞳に宿しているように見えた。


長い2学期が始まり、我が校は9月末の体育祭に向けて着々と準備が進められている。

高校生の体育祭なので内容自体は単純な競技がほとんどだ。短距離走や障害物競争、学年別クラス対抗リレーなど、当日登校すればすんなり参加できそうなものが多くを占める。

先日のHRで出場する競技を決めて、私は大縄跳びのみに参加することになった。

そんなに運動が好きというわけでもないし得意でもないので毎年出場する競技は必要最低限に抑えているのだが、たった1競技のために1日中暑い日差しの下で過ごさねばならないこの行事が私は嫌いだった。

「なぁ、頼むわ苗字ー!」

「だからなんで私がこの子らの尻拭いせなあかんの?」

「持ちつ持たれつやん!助け合いの精神やん!だから助けてくれ!」

今、目の前で私に対して拝むように手を合わせているこの男はバレー部所属の同級生、赤木だ。

赤木の後ろにはふてくされた様子の双子が先程から「治が悪い」「いいや、あれは侑のせいや」などどぶつくさ文句をこぼしている。

赤木は隣のクラスの体育委員で、昨日の放課後に体育祭で使用するパネル類の確認を行っていた。

たまたま通りがかった双子が赤木を見かけて話をしていたのだが、何が原因か、いつもの小競り合いが始まりエスカレートしてパネルをいくつか破壊してしまったらしい。

当然、双子は仲良く先生やバレー部の監督、挙げ句の果てに北くんからも説教をくらったのだが、いくら説教をしても壊れたパネルは当然元には戻らない。
これを機会にと、壊れていないものも古びてきていたので新しく作り直すことになった。

その新しいパネルの製作(主に文字を書く部分)を書道部に依頼してきた、というのがことの顛末だ。

「確かにバレー部には部活関連でお世話になってるけど、こんなん美術部に頼んだ方がええやん。絶対うちらよりええ感じに作ってくれるって」

「美術部に知り合いおらんねん!」

「何なん、そのしょーもない理由」

「頼むわー、ほら、お前らからもお願いせぇ!」

そう言って、赤木は双子に頭を下げさせようとするので

「いらん、いらん!」

とあわてて断った。

「ほなどないしたら頼まれてくれんねん!」

と赤木もちょっとやけくそ気味になってきたので、なんとか断る理由をと脳をフル回転させながら考えていたのだが、逆に引き受けてしまおうという考えに至った。

「わかった、引き受ける。そのかわり」

「そのかわり?」

私は赤木に近付いて耳打ちをした。


真夏に比べるとだいぶマシだけど、それでも朝からこんなに暑いのはどうかしている。

もう9月も終わろうとしているのに。秋晴れと言うには日差しが厳しすぎるだろ。

それはもう立派な快晴で、今日の体育祭を楽しみにしている祭り好きの双子は「日頃の行いがえぇからな、俺は」
「なに言うとんねん、お前やなくて俺の行いがえぇからや」
と、顔を合わせればくだらない小競り合いを繰り広げていた。

開会宣言を終えて青いビニールシートの敷かれた待機場所へと移動が始まる。

体育祭は縦割りでチームが編成されるため、この待機場所には1年から3年までの1組のやつが集まっている。
名前さんは5組だからここからはちょっと遠い。

そういえば今日は名前さんの姿を見てないなと思い軽く5組の方を見ていたのだがなかなか見つからない。

ポケットからスマホを出して【今どこ?】ってメッセージ送っても既読付かねぇし電話かけても出ねぇし。
そもそも学校に来ていないのかもしれない。あの人運動嫌いだから。

5組の待機場所に行って尾白さんに聞いたら「さっきまではおったで?」って言ってたから学校にはいるみたいだ。どこでサボってんだよ、あの人は。

せっかく名前さんとはちまき交換したり写真撮ったりしようと思ってたのに。

そろそろ競技も始まるので、また後で探すつもりで自分のクラスに戻ると治が声をかけてきた。

「角名ぁ、どこ行っとったん?」

「名前さん探してた」

「お前はほんまに毎日毎日飽きもせず……」

「飽きる気配すら感じねぇよ」


陸屋根からグラウンドを見下ろすと、競技に出ない生徒は思い思いにあたりをふらついている。

その中に辺りをダルそうに見回す倫太郎を見つけた。

倫太郎を観察していると、私のクラスへ行って尾白と何か話をしている。
しばらくするとそこも離れてまたウロウロしていた。

赤木と交渉の結果、私は各チームの得点ボードの万が一の補修係という名目で点数係の人たちと共にグラウンドを一望する食堂の陸屋根で過ごす権利を得た。

この事を知る人はごくわずかで、その人たちにはかたく口止めしている。
尾白もそのうちのひとりだ。

倫太郎に居場所を教えなかったのには訳がある。

ひとつは私がここにいることが判れば倫太郎もここに居ようとするだろう。

そうなってしまうと、きっと得点係の人に気を使わせることは目に見えている。
快適な待機場所の空気を悪くするわけにはいかない。

そしてもうひとつ。

もし、午前中に倫太郎に見つかってしまったら

その時は

その時はずっと言えずにいた事を告げようと決めている。


午前中最後の競技、学年別クラス対抗リレーへ出場するため治と集合場所へ出向く。
相変わらず名前さんは見当たらない。
まさか家に帰ったんじゃないだろうな。

「せや、角名知っとったか?」

急に隣を歩く治に声をかけられて反射で返事する。

「何を?」

暑いしだるいし名前さんいないしで投げやりになってしまうが、治はそれを一向に気にすることなくトラックに設置された入場門を指差す。

「あの門とか苗字さんが字ぃ書いてんで?」

「は、何それ聞いてないんすけど」

初耳だ。そんなこと一言も名前さん言ってなかったし。
つーか、どうして治がそんなこと知ってるんだよ。

聞きたいことが山程あって頭の中はフル回転なのに暑さのせいかそれをいちいち口に出すのも億劫だ。
代わりに汗だけがだらだらと額を伝う。

そんな俺の様子などお構いなしに治は話を続けた。

「あの人すごいな。得点のパネルとか結構数あってんけどあっちゅうまに書いてもうたんや」

「おい、どうしてその現場に俺を呼ばないんだよ」

さすがに声に出てた。
なんだよ、お前名前さんが書いてるとこ見てたのかよ。

「お前おったらうるさいやん」

最終走者の治はそう言い捨てて一番後ろへ並びに行ってしまった。

走者順に並びながら名前さんが書いた文字を眺める。

読みやすいようにきっちりと並んだ美しい文字

名前さんのお手本みたいな文字も好きなんだけど、俺はやっぱり書道部の連中とのパフォーマンスで見せた何て書いてるかよくわかんない文字の方が名前さんぽくて好きだ。

また見たい

文字を書く名前さんは、なにものにも囚われず、縛られず、気まぐれでどこまでも自由だ

このまま見ていたい
でもそこには俺が存在しないみたいでそれは少し嫌だ
俺だけを見ていて欲しい

あぁ

こんな矛盾は

これは一体どういう感情なのだろう

そんなことを考えながら陸屋根の上の得点ボードに視線を送ると名前さんがこちらを見下ろしていた。

なんだよ、あんなとこにいたのかよ。

俺が名前さんを見ていることに気がついたのか、名前さんが軽く手を上げた。

早く終わらせて名前さんのとこに行かなきゃ。

暑さでバテてたはずなのに急にやる気が漲るあたり、俺は自分でも笑ってしまうくらいにどうかしている。


午前中の競技が終わった。

そろそろ来る頃かな。

スマホを見ると倫太郎からのメッセージや着信の通知が届いていたがすべて無視して時間だけ確認した。

11時55分

軽くため息をついてちらりと扉に視線を送るとちょうどドアノブがカチャリと音を立てて回る。

倫太郎が扉から顔を覗かせて私を見つけた。

「名前さん、一緒に昼飯食べようよ」

「ええよ」

私はいつものように返事をして倫太郎の側へ歩いていく。


食堂で倫太郎とお昼ごはんを食べた。

食事中も倫太郎は今日スマホで撮影したバレー部員の気の抜けた写真を私に見せながら説明してくれる。

なんだか子供みたいだ。

こんな日々がずっと続けばいいのに。

「倫太郎、ここ暑いからジュース買って移動せぇへん?」

「いいよ。あ、後で一緒に写真撮ろうよ」

「えー?いらんやろ、写真なんて」

「はちまき巻いてる名前さん可愛いから写真に残しときたい」

「……あんた…ほんまに私の事好きやな」

「何度も言わせないでよ。好きだよ?」

「……ん」

「名前さん?」

私の顔を隣から覗き込もうとする倫太郎を避けるように席を立って食器を片付けに行く。

「待ってよ」

すぐ後に倫太郎も自分の使った食器を手についてくる。

「……なぁ、倫太郎。ジュースおごってや」

「いいけど?」

食堂を出てすぐのところに設置されているパック飲料の自販機の前まで来た。

「名前さん、何飲みたい?」

「いちごオレ買うて」

私がそう答えると倫太郎はフッと笑う。

「あの時みたいだね」

自販機に小銭を入れながら倫太郎は私にそう話しかける。

「あの時?」

「春に二人で花見したじゃん」

「……せやったっけ?」

倫太郎がいちごオレのボタンを押す。
ピ、ガコンと音を立てて落ちてきたいちごオレを取り出して、それを私に差し出した。

「ひどいな、忘れたの?」

忘れるはずはない。あの日から私達は彼氏彼女として日々を過ごしてきたのだから。

「じゃあ、久しぶりにあっこ行こっか。日陰くらいはあるやろ?」


日陰に移動して二人で並んで腰を下ろした。

汗でじとりとした肌をそよそよ風が撫でていく。

「結構涼しいね」

半袖の体操服の袖で額の汗を拭いながら倫太郎は呟く。

「もう暦の上では秋やもん。朝夕涼しなってきたしな」

ぷすりとパックにストローを突き刺しながらそう答えると倫太郎がすり寄ってきた。

「何?暑いやん。もうちょっと離れてや」

私が咎めても倫太郎は言うことを聞かず肩を抱かれて唇を奪われた。

ゆっくりと私を見つめながら離れていく倫太郎に

「暑い」

と抗議すると、ニヤリと笑って

「こういう事したかったから移動したんじゃないの?」

なんて言う。

「ちゃうよ」

「ま、名前さんと二人きりだったら理由なんていらないんだよ、俺は」

そう言って私の膝の上に頭を載せて横になった。
しばらくそうしていたが、倫太郎がまた口を開く。

「こうやってさ、学校行事の度に二人で過ごせるのってこれっきりなんだよね、よく考えたら」

「そらそうやん。私来年は卒業してるし」

「あとどんな行事あったっけ?文化祭と…マラソン大会と…あとなんかあった?」

「……予餞会と卒業式やな」

「……卒業するのやめたら?」

「私に留年しろと?」

「してくれない?」

「あほ」

倫太郎の汗に濡れてしっとりした髪に触れる。

言わなければ

はやく

見つかってしまったから
倫太郎に
私は私との賭けに負けたのだから

そんな葛藤を繰り広げていると、倫太郎が目を瞑ったまま、彼の頭に置いていた私の手を掴んでぎゅっと握る。

「名前さんさぁ、最近なんか悩みでもあんの?」

「え?」

「なんかたまに考え事してるよね、俺といる時」

「……そうかな?」

「そうだよ。なめないでよ?俺が毎日どんだけ名前さんのこと見てると思ってんの?」

「……ごめん」

倫太郎が目を開いて私をじっと見つめる。

「俺に言えないこと?」

私は首を横に振る。

「倫太郎に……言わなあかんこと」

私がそう告げると倫太郎は体をおこして私と正面から向き合うように座った。

「聞くからさ、ちゃんと話してよ。俺、名前さんの彼氏でしょ?」

倫太郎にしては柔らかく微笑む。
彼に背中を押してもらってようやく私は話をする決心がついた。

「……あのな、進路の話やねん」

「うん」

「私、地元の女子大受けるつもりって言ってたやん?それ辞めることにしてん」

「そっか……もしかして別の大学受けるの?どっか……その…遠くの?」

私は倫太郎を見つめる。彼がなるべく感情を表に出さないように、あくまで淡々と私の話を受け止めてくれようとしているのがわかって切なくなる。

「大学受けること自体を辞めるねん」

「……じゃあ卒業したら何するの?」

私が遠くの大学へ行こうとするわけではないとわかったので少し倫太郎の緊張感が緩む。

でもごめん

違うねん

「卒業したら……海外行く」

倫太郎が少しだけ目を見開く。

「…え?……海…外?」

「父親の…あ、うち両親離婚してて今父親はアメリカでアート系のイベントプランナーというかプロデュースを生業としてんねんけど」

倫太郎からの反応がない。でもこのまま黙って過ごすこともできなくていつもより口数が多くなってしまう。

「別に親の後を追うとかそんなつもりはなかってんけど、志望校と進路の話をばあちゃんにしたら学校行くよりそっち行く方が有意義やいうて父親に話通してくれてな……」

「…それ……いつ決まったの?」

倫太郎がボソリと言う。

「6月の……進路相談の時には…決まってた」

「どうして……どうしてもっと早く言わなかったんだよ」

倫太郎の声に動揺が見え隠れする。

「本当はずっと言おうとしててんけど……倫太郎インターハイ控えてたし」

倫太郎はうなだれて両手で顔を覆ってしまった。彼の表情を見ることができない。

「……そんな……大事な事だろ?……ねぇ名前さん、俺……そんなに信用なかった?」

それは違う

大事やから

倫太郎のことは

ずっと一緒にいたかった

でも自分のやりたいことを諦めることもできなかった

ぐるぐると頭の中で気持ちが渦巻く

でもこれは言い訳だ

倫太郎に相談できなかったことは事実なのだから

「……言うたら終わると思った」

私がそう告げると倫太郎は「そっか」と言って立ち上がった。

そのまま黙って立ち去る倫太郎に私は声をかけるなんてできなくて、黙って遠ざかる彼の背中を見つめていた。