- ナノ -

08

「ほんと……治が言ってた通りだ」


角名はその長い腕を伸ばして
あの日のように私の頬にそっと触れる。


「な……んで」


やっとの思いで絞り出した声は、
周りの喧騒に掻き消されそうなほどか細く、
角名まで届かないと思った。


「治がお節介焼いてくれたんだ」


そう言って角名は目を細める。
私は、角名の手に自分の手を重ねた。


夢じゃない、本物の角名だ


「せっかく会えたのに悪いんだけどさ、
俺もう行かないといけなくて」


また、置いていかれる


角名が、ふっと困ったように笑う。


あぁ、そんなふうに
無理に笑おうとしないで


「名前さえよかったら……見送ってくれる?」



新幹線の券売機で入場券を買う。
その間、角名は私の手をずっと握り続けていた。


さっきの動揺はどこへやら、
自分でもびっくりするくらい、
角名と触れ合っていると心が凪いだ。


新幹線の改札を抜けると、コンコースには
スーツ姿のサラリーマンやこれから旅が
始まることに期待している人達が
発車時刻を気にしながら歩いている。


お土産を買う人
食事をする人
誰かに電話をかける人


多くの人が行き交うこの場には
私達を気にする人は誰もいない。


私達はホームに向かうエスカレータの
影に移動し、抱き合った。


「名前、キレイになったね」

「嘘ばっかり。そんなこと、人に言われたことないわ」

「ホントだよ」


角名が私を抱きしめる力が少しだけ強くなった。
ほんのり、汗の匂いがする。


「角名はなんでこっちに来てたん?」

「ん、研修でね。このへんの近くの会場で講習受けてたから」


あれは治の話じゃなかったんや。
……あいつに一杯食わされた。


「もしかして、走って来たん?」


私は、顔を上げて角名を見つめる。
角名は私の視線を受け止めて


「だって、名前が待ってるって思ったら走っちゃうよ」


そう言って夢の中で見たような顔で笑った。


構内にアナウンスが響く。
角名の乗る新幹線が、
あと少しで駅に到着してしまう。


私は俯いて角名の胸におでこをつけた。


笑えない。


「ね、名前。俺たちはそんな遠いところにいるわけじゃないってもうわかってるだろ?」


優しく、諭すように角名が語りかける。


「そりゃ、こうやって触れたいときに
すぐに触れられないのは辛いけどさ、
今はスマホで顔見ながら話もできるし」


だから、


角名が両手で私の顔をすくい上げた。


「俺から逃げないで」


そう言って、角名は私の唇に触れた。


あの日の痛くて心が壊れてしまいそうな
キスとは違って、優しくてあたたかい
満たされるようなキスだった。



それから、


この2年近くの空白を埋めるように
私は角名と毎日のように連絡を取り合い、
月に一度は必ずお互いのいるところへ
行き来するようになった。


あの夜から開放された私達は、
限られた時間の中で日の光を浴び、
二人でいろんな場所へ出かけ、
同じものを見て笑いあった。


大学の友人からは


「名前、最近なんかええことあったん?
すごい明るなったな。やっと素がでてきた?」


と言われ、治からは


「殻破ったな」


と、笑われた。


その話を角名にすると、


「俺と名前がのびのび生きていくには
お互いが不可欠って事、証明されちゃったね」


そんな事を恥ずかしげもなく言う。



5回生になった。


角名は大学を卒業し、東日本製紙へ入社、
企業のチームであるEJP RAIJINに入団した。


サラリーマンとバレーボール選手という
二足のわらじで随分とハードな生活を
送り始めた。


私はというと、病院と薬局での実務実習が始まり、これまでの実習とは桁外れに違うその責任の重さに、少し余裕がなかった。


毎日の連絡が1日おきになり、
3日おきになり、1週間おきになるのには
そう時間はかからなかった。


それでも、角名は時間を作って
私に会いに来てくれた。


私が角名の試合を見に行くこともあったが、
沢山の人が角名のプレーに期待し、興奮し、
称賛を送っているのを見ていると、
私はまた寂しさを感じるようになっていた。


一人で新幹線に乗りながら、
暗い窓の外を眺める。


なんか高校の時みたいや。


私はまた夜に囚われようとしていた。



EJPに入団して一年が経った。


仕事と練習、秋からのシーズンで本当に
嵐のような一年だった。


試合には名前が見に来てくれる事もあったが話も出来ずに帰ってしまうことが増えた。


それでも、会いに行けばいつものように笑って
バカみたいな話をして楽しそうに過ごしていた。


国家試験の対策をしながら
就活も始まった名前に
こっちで就職先見つけたら?
と先月話した。

一緒に暮らすことも匂わせて。


名前はそうしたいけど、
と前置きをして、


「とりあえず地元で仕事に慣れて、
生活することにも慣れて、
自信が持てたらかな?」


まぁ、就職先決めてなおかつ国家試験
受かったらの話やけど


笑いながら俺の提案をかわす。


また、


名前は俺から逃げようと
しているのかもしれない。


「離れたってこれまでみたいに会いに行くから」

「ホンマに?じゃあ50回会いに来てくれたら
そっち行くわ」

「なんで50回?」


急に出てきたその数字に
俺は気の抜けた質問をする。


「……なんとなく」


そう言う名前の横顔からは、
あの夜の気配が漂っていた。