- ナノ -

end

暗い海を二人で見つめていると、こんな時間なのに船がゆっくりと海峡を通過していくのが見えた。


「ごめん、名前」


私は何について謝られているのだろう。


「俺、もうこっちには来ないよ」


倫太郎は淡々と話す。
何か、返事をしなければ


そう考えれば考えるほど、頭の中に浮かぶ言葉はどれもこの場には相応しくない。


「そっか」


結局、私はそんな事しか言えなかった。


当然の結果だ。


これまで、倫太郎はずっと私に手を差し伸べ続けてきた。


教室で、コンビニの前で、新大阪の駅で


私の就活が始まると、一緒に暮らす未来まで考えていてくれたというのに。
その度に私は戯けたり、距離を置こうとした。


今だって、倫太郎が会いに来てくれる事に甘えている。
バレーの邪魔はしたくなかったはずなのに。
随分無理をさせていた上に、こんな話までさせてしまった。
どうして?
なんて、今更言えるはずない。


ほんま私、最低。


少しずつ、
夜が私を絡めとる。


倫太郎の隣にいることに息苦しさを覚えて


「ちょっとトイレ行ってくる」


そう言って逃げるようにベンチから立ち上がった。


建屋を挟んで反対側にあるトイレには行かず自販機で小さなお茶を買ってベンチに座る。


いつからか、倫太郎と昼間には会わなくなった。


お互いの仕事の休みが合わないことや倫太郎のバレーの試合や練習などで一日中二人で一緒に過ごしたことはこの一年なかった。


それでも、顔を見ると嬉しかったし、夜に紛れていれば、バレーボール選手の角名倫太郎と薬剤師の苗字名前ではなく、私達はただの恋人同士だった。


ポケットに入れていたスマホが震える。
倫太郎からの着信だった。


「……もしもし」

「名前?今どこにいんの?」

「ごめん……お茶買ってベンチで休憩してた」

「……そっか。いつまでたっても戻って来ないから心配したよ」

「……ごめんな」

「いいよ、謝んないで」

「うん」


そっち行くから
そう言って倫太郎は電話を切った。


そのままスマホで時間を見ると、あと少しで4時になるところだった。
いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。


最後の夜なのに。


「名前」


目の前に倫太郎が立っている。


「なに?」


なるべく明るく響くよう、注意して返事をする。


「あと一か所、行きたいとこあるから連れてってくれる?」


倫太郎の最後のお願いだ


「いいよ、行こっか」



倫太郎の行きたいところは、サービスエリアから10分程度で着いた。


隣接する道の駅に車を停めて降りると、辺りは潮の匂いが色濃く立ち込めている。


手をつなぐ事にためらう私を無視して、倫太郎は当たり前のように私の手を取って暗い道を歩き始めた。


整備された海水浴場に着くと、倫太郎はそのまま砂浜まで入っていき、持っていたタオルをぱさりと敷いて私にそこへ座るよう促す。


「ありがとう」


そう告げて、私はおとなしくその上に座った。
倫太郎は砂浜の上にそのまま座り、私の頭を引き寄せた。
倫太郎の肩に頭を預け、指を絡めて手を繋ぐ。


寄せては返す波の音は不規則なのになぜか心地よい。
私は、心の中で静かに泣いた。


この世にふたりぼっちだったらよかったのに。
それなら私は素直に倫太郎のそばで笑えたのに。


少しずつ、夜の闇が薄れてきた。
夜明けが近い。


赤がじわりと姿を現し始め、暗い空とグラデーションを織りなす。


「名前がさ、はじめに俺から逃げたのって単純に会えなくなるのが嫌だからだと思ったんだよね」


倫太郎が徐ろに話し始めた。


「でも最近、そういう事じゃなかったんだってやっと気がついてさ」


そう言って、倫太郎は繋いでいた手を引いて二人で立ち上がった。


海を挟んだ山の彼方から、曙光が差し込む。
ゆっくりと登る朝日が海に映って、さっきまで夜に包まれていた景色が朝に支配された。


こんなふうに朝日を浴びるのなんて何年ぶりだろう。


「綺麗」


私は久しぶりに心の底から湧き出た感情を口にしていた。


「名前」


倫太郎が、私を呼ぶ。


ポケットから何かを取り出した倫太郎は、私の左手薬指にそれをはめた。


キラキラと輝く指輪。


見上げると倫太郎も朝日に照らされてキラキラして見えた。


「50回来れなくてごめん。でも、もう限界なんだ」


さっきまで私を包んでいた夜はもうどこにも見当たらない。


「名前、バレーボール選手の俺じゃなくてさ、ただの角名倫太郎と結婚してくれない?」


……ほんと、ずるい


倫太郎はいたずらが上手くいった子供みたいな表情で私を見つめる。
何も言わずに私は倫太郎に抱きついた。
力いっぱい抱きしめると倫太郎は苦しいよと言いながら声を出して笑う。


「ね、名前、返事は?」

「……もう、別れるんかと思った」

「そんなわけないじゃん。前に言っただろ?
俺たちがのびのび生きていくにはお互いが必要不可欠なんだよ?」


私は、顔を上げて倫太郎をじっと見る。
倫太郎がプッと吹き出す。


「ひどい顔」

「うるさい」

「ねぇ、名前。俺と結婚してよ。返事は?」


そう言って倫太郎は私の顔を両手で優しく包む。
返事をしなければ離してくれないみたいだ。


「……よろしくお願いします」


私の返事を聞いて、倫太郎は満足げな顔をする。


「一生大事にするから、名前」




すっかり明るくなった空を見上げて二人で歩き出す。
来たときと同じように手を繋いで駐車場へ向かう。


「あ、そうだ。帰りにあの曲かけてよ」

倫太郎が歩きながら私を見下ろす。


「ええよ」

「あとうどん食べたい。さっきのサービスエリアで一緒に食べようよ」

「……うどん昨日の夜食べてんけど」

「え、そうなの?」


倫太郎がちょっと残念そうな声で言うので私は笑って返事をする。


「でもええよ。一緒に食べよ」



二人で駐車場に停めてある私の車へ乗り込む。
今日は、9月第2週の土曜日。


6時24分。


目的地まで約10分、
プレイリストから私と倫太郎が
話すきっかけになった曲を選ぶ。


車を走らせると、すぐそばには
私の一番大切な人の笑顔と
目の端に朝日を浴びてキラキラと輝く
海が見える。