ティーポットフィッシュ | ナノ


▼ 1.聖典

淡い黄色は風に揺れ、ナマエの手を引くジークのジャケットの袖やズボンの端をふわふわと撫でた。

孤児院の建物をすり抜け、飛び石を渡り、二人はミモザの間を泳いでゆく。

「お兄ちゃん、どこに行くの」

「エレンとお前の秘密の場所だよ」

視界が開けるとミモザの花が終わる。傾斜な土草の間には、ローリエの木がぽつぽつと植わっている。

ヒミツを埋めた場所だった。朽ちかけた十字架が木々に隠れるようにしてまだ、存在する。

「どうして……ここに」

「エレンはここでナマエを聖典にすると決めた。お前たちだけの、秘密のはずだった」

エレンの持つ力はエルディア人として生まれた人間の中からたった一人、受け継ぐことが許される「始祖の力」と呼ばれていた。

受け継ぐ条件はまったくのランダム。いつ、どこの、誰にその力が継承されるかはわからない。エレンは偶然、力に選ばれたのだ。

エレンの力の用途は多岐にわたる。

同じエルディア人を意のままに操ったり、はたまた病気を治したり。そして彼が望めば、子供が生まれないように操作することも可能。

まさに神にも近しい力であったが、引き継ぐ存在が人間である所為か、同時にストッパーとなる存在もあった。それが"聖典"。

聖典の声だけは、始祖の力にも届き得る。

「聖典って……本とか、そういうものじゃないの?人、なの?」

「ああ。お前の声だけはエレンに届くんだよ。エレンが……そう、決めたから」

教会での祭事に役割があるように、始祖の力を取り巻く人間にも役割があった。

始祖の力を司るエレン。そして彼を止める存在である聖典のナマエ。

孤児院は昔から「聖典の候補者」を育てる施設で、かつてはヒストリアも候補の一人だったのだ。

「本当は聖典にする子供を、俺が選ぼうと思ってた」

少し顔をうつむけて、ジークは呟く。後ろ頭の髪の毛が、さっきまで視界を埋めていたミモザに見えた。

「ナマエじゃなかったら、もっと簡単に殺すこともできた」

「でもあの時、私のことも殺そうとしたじゃない!リヴァイと一緒に!」

「どうしようもなかったんだよ。リヴァイからナマエだけを無傷で奪い返せるとも思えなかった。リヴァイたちも聖典の存在を知っていたし」

「だって、あんな」

目を閉じればすぐに意識はあの日の夜に飛ぶことができた。転がり込んだダクトの中、銃弾があとを追ってくる。

同時にリヴァイの腕の中を想った。二の腕や抱え込んだ膝頭をかすめそうな銃撃から守ってくれたのは、彼の力強い腕だった。

「急に私が聖典だなんて言われても、わからない。私……私は、リヴァイの所に帰る」

「ナマエ!」

体をよじろうとしたナマエであったが、ジークに両肩を掴まれた。さっきよりも一歩分近い視線、薄いグレーに見える奥行が不確かな瞳が、ナマエを捕える。

「エレンが力を使って、俺たちの悲願さえ達成できればまた三人で暮らせる。なぁ、楽しかっただろ?三人の暮らしは……」

つけ込まれていることは、ナマエ自身にもわかる。長年一緒に暮らしてきた人だ。ナマエの弱い部分を誰よりも知っている。

突っぱねて突き飛ばして早くリヴァイの所へ行かないと──薄く閉じた瞼の裏には、柔らかなリヴァイの微笑みが浮かぶ。それが涙でにじんで歪んで見えた。

(リヴァイ……リヴァイ、助けて)

"何"から救い出して欲しいか、ナマエにはわからない。

ジークの言う通り、ナマエはジークとエレンが大好きだった。正式にイェーガー家の一員になれた時は、その先の人生が曇ることなど想像もしなかった。良い子であろうと務めた。

食事はいつもナマエが作っていたし、家事だって率先してやっていた。

(私の何がいけなかったの)

ナマエに食事を作ってくれたのは、リヴァイだけだったのに。

そっと肩に乗せられたジークの手を、振り払うことはできなかった。優しい思い出ばかりが浮かんでくる。硝煙よりもコーヒーの香りが記憶に濃く、リビングに並べた写真の順番までもが脳裏で描ける。

「ナマエは俺たちの所にいるべきなんだ」

「私がお兄ちゃんといることを選んで……それで何かすることがあるの?エレンは今、私と話してもくれない。そんな聖典に意味があるの?」

「あるさ。一度決めた聖典は揺るがない。家族の絆と同じだ」

抱きしめられると妙な違和感があった。もうすっかりリヴァイの体に慣れていたナマエにとって、ジークの腕の中は筋肉の厚みだとか、腕の長さだとか、何もかもが違っていた。

「本当に家族だと思ってるの……」

「最初は聖典のためにナマエを引き取った。でもお前は俺の大事な妹だよ」

ナマエが鼻をすすると、大きなてのひらがなだめるように背中を撫でた。ナマエが幼い頃、そうしてくれていたように。

「ナマエが迷うのもわかるさ。お前は良い子だから、長くリヴァイと一緒にいて情が移ってしまったんだろ?」

「違う、情とかじゃ」

「ちゃんとリヴァイにも別れの挨拶をしておこう。俺もついていくから」

最後にポンポンと弾みをつけて撫で、ジークは体を離した。首を傾げて微笑むと、彼はナマエの一歩先を歩き始める。教会内へと戻るようだった。ナマエはどうしようか迷ったが、行先がリヴァイのいる懺悔室のある礼拝堂の方だったので、黙って後をついてゆく。

しかし礼拝堂まで戻ってきても、リヴァイの気配はどこにもなかった。懺悔室の扉は開いたまま、がらんどうとしている。

「リヴァイは?」

先をゆくジークに尋ねると、ジークは振り返って肩をすくめた。

「物騒なもの持ってたからさ。とりあえず全部預からせてもらって、別室に行ってもらってるよ」

「武器……リヴァイにひどいことしてないよね?」

「ああ。俺はあいつ嫌いだけど、殺してしまったらナマエが悲しむだろ」

礼拝堂を抜け、脇の通路をさらに先に進んだ先でジークは立ち止まった。消し炭のように黒い扉には"神父室"のプレートがかかっている。

「ここで待っていてくれ。すぐに迎えにくるから」

返答に困って、ナマエはじっとジークを見つめる。

「もう悩むことはないさ。全部元通りにしよう。な?」

半ばうやむやに扉は閉められる。ジークが立ち去ったあと、すぐに複数の音が扉の前へと集まった。鍵穴から覗くと、ボディーアーマーに短機関銃を携え武装した男たちの姿であった。

(捕まってしまった……みたい)

ひび割れた皮のソファに座り込み、ナマエはうなだれた。ジークのあとを追ってこなければ、リヴァイとはぐれることも、心を乱されることもなかったのに。

(私……どうしたらいいの。どうしたいの)

リヴァイたちも追っている聖典というのは、ナマエ自身だった。

聞きたかったことすべてをジークの口から聞いたはずなのに、ナマエの気持ちは風が吹く湖面のようにざわめいている。扉に額を押し当て目を閉じると眩暈がした。少し、休みたかった。

信じたい。信じてはいけない。それでも祈りたい。

どんなに祈っても、すべてを助けてくれる神様なんていないのに。ナマエは痛いほどそれをよく知っているのに。

ナマエを本当に助けてくれるのは誰か。その答えはもうわかっているけれど、しばらく目を閉じたままだった。

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