▼ 6.そこまで手が届かない
一緒に暮らしていた頃、ケニーはたびたび家を空けていた。「面倒を見てやっている」とはケニーの言葉だったが、そもそもナマエと一緒に住んでいた家にケニー自身が住んでいる自覚があるのかどうか、ナマエには疑わしかった。
その日は街のはずれで、少し年上の少年達とナマエは喧嘩をした。ナマエが持っていたパンと豆の袋をよこせと、少年達は絡んできたのだ。相手は3人。手を出してきたのは少年達の方で、ナマエは全力で戦った。どうにかパンと豆は守れたものの、顔も両の手足も、血だらけのぼろぼろになった。
「……オイ、どうした」
こんな日に限って、珍しく先にケニーが家に帰っていた。
「なんでもない」
ケニーに顔を向けないように、ナマエは台所に立つと豆を水に漬けた。豆のスープを作る時、ケニーは特に口煩いのだ。
「どこぞのガキとでも喧嘩してきたって面だな?もちろん勝ったんだろうな?」
ナマエは返事をしなかった。
「そうだなぁ……お前にゃこれまで喧嘩の仕方ばっかりを教えていたが」
とんとん、とケニーは机の上を人差し指で2度叩いた。椅子に座れ、の意だ。ナマエは特段顔に表情を灯さず、洗っていた豆を脇に置いてケニーの前に座った。
「ああ、お前のそういう所は褒めてやる。信頼した人間に素直なのは悪くねぇな」
「別にケニーを信頼しているわけじゃないよ」
「はっ。でもまぁ、そうだな。あとはとりあえず、笑え」
いきなり何を言いだすんだ、とナマエは眉をしかめた。今までケニーがナマエに教えてきたのはナイフの握り方に始まり、相手の隙を突いて倒す方法ばかりだ。
「女っつーのは、それだけで武器になりやがる。俺が今まで教えたモンと併せて使えば、そのマッチ棒みたいな手足でもどうにかなるだろ」
「意味がわからない」
「笑え。人の懐に入り込む時は自分の感情は死んだと思え。従順なふりをして自分も相手も騙せ。そうすりゃ、今日みたいな怪我はなくなる」
ナマエは一瞬何かを考え込み、俯いた。そして少しの間の後に、にっこりと笑ってケニーを見上げる。
「お?」
ケニーも口角を上げる。と、同時にナマエは懐に隠していたナイフを取りだし、ケニーに向かって突きつけた。
「は!30点ってとこだな、ナマエ」
少しだけ頬を膨らませ、ナマエはケニーに掴まれた腕を振り払う。ナイフを仕舞うと、何事もなかったかのように豆の方へと振り返った。
***
「……どうしてここにいるの、ケニー」
条件反射なのだろうか。ナマエは薄い笑みを浮かべて立っていた。
「散歩だ」
「散歩?」
「それよりどうだ、調子は」
中折れのハットに手を掛けながら、ケニーは俯くような姿勢のままナマエに近付いてくる。
「調子って……別に」
「相変わらず連れねぇな。調査兵団になったんだろ?上司とはうまくやれてるのか」
上司、と言われてナマエの目が泳ぐ。ナマエの今の上司はまさにリヴァイなのだ。
「……ケニーには関係ない」
「ほぉ?随分表情豊かになったもんだな、ナマエ。まさかその上司に惚れたとか言うなよ?」
冗談交じりに図星を突かれて、ナマエははっとして顔を上げる。
「ケニーには関係無いでしょ?!」
「おいおい、マジかよ。勘弁しろよな」
ははは、とケニーは声を出して笑う。まるでリヴァイへの気持ちを嘲笑われたかのように感じて、ナマエは思わず刃を手に取った。
「もう行ってよ!事情は話せないけど、私今任務中なんだから。これ以上ここにいるなら、ケニーでも拘束する」
ケニーは軽く肩をすくめると、ゆらりと体を左右に揺らした。そうして、ナマエの感情を逆撫でするかのように。
「お前がそんな一丁前の口を聞くとはなぁ……」
「兵士としては半人前だけど、人間としてはあの頃の私とは違うよ」
「は、だろうな」
ケニーはナマエに背を向ける。
「私のこと、厄介払いして……今何をしているの?」
「なんだ?傷ついたってのか?」
「……そういうわけじゃ」
「いいじゃねぇか。立派な上司様の下で働いてんだろうが。せいぜい気張れよ」
背を向けたまま、ケニーは少しだけ片手を挙げる。すぐにその姿は木々の間に紛れて見えなくなり、ナマエはまた慌てて草陰に身を潜めた。
(なんでここにケニーがいたんだろう)
一緒に暮らしていた頃もそうだ。居たり、いなかったりした。その呼称の難しい関係で。しかしあのケニーのことだ。こんな辺鄙な場所を散歩していたとしても、ナマエにとってはなんの不思議もなかった。ナマエにとってのケニーは、そんな人間であったのだから。
「ナマエ?」
少し声を控えながらも、ミカサが走って来る。
「今、誰かいた?話し声が」
「あ……ごめん。知り合いがいたから」
ナマエの姿を見つけたミカサは、ナマエのすぐ側に来て同じように腰を落とした。
「知り合い?こんな所で?」
「うん。変な人なの」
ミカサは少しだけ考え込む。ナマエの人間関係はミカサと同じくらいに狭い。思い当たる人間はそうはいない。
「……それって、お父さんみたいな人?」
「お父さんなんて、ミカサに言ったことあった?私……」
ケニーの存在のことはミカサには話していた。けれどお父さんと比喩したことは、一度もなかったはずだ。世話人として、説明をしていた。
「アニから……少しだけ聞いたことがある。対人格闘術の授業の後、ナマエが強いのはお父さんに習ったからだと」
「ああ……そっか」
アニと縄跳びをしていた時だ。説明が面倒で、そう口を滑らせた。
「でも無意識にそんな説明しちゃったってことは……」
そこまで言って、ナマエはかぶりを振った。
「ミカサ、もう戻った方がいいんじゃない?」
「その人はどちらに行ったの」
「あっち。エレン達とは逆方向だよ」
「そう」
それを聞いたミカサは、安心した様子で立ち上がった。足音を忍ばせながら、定位置へと戻る。
ナマエも蹲って視線をブーツの先に移した。茶色い革のつま先が、雑草を踏んで地面を覗かせていた。ただそれだけを見て時間が絶つ。
(今はケニーのことなんて考えてる場合じゃないのに)
大切な仲間であるエレンとヒストリア。その2人が自身の安全とを引き換えにして作戦が行われている最中なのだ。
(集中……しなきゃ)
じり、とつま先の緑が淀む。どうしてか、少しだけ泣きたい気分だった。
どれくらい時間が経ったのかあやふやになりかけた頃、思い出したかのように山鳩の鳴き声が響いた。
(合図だ!)
顔を上げると同時にナマエはアンカーを放った。向かう先はジャン達の方向だ。そう遠くない場所で、もう一つワイヤーを巻き取る音が響く。同じタイミングで、ミカサも動いていた。
空気を切って、目に映るものが背後に飛んで行く。視界の先にジャン達を確認出来たと同時に、ミカサの姿も見えた。
「笛はアルミン達?」
ミカサがそう声を上げると、アルミンは「兵長達からだ!」と答えた。
「エレン達を乗せた馬車が迂回してるらしい。2人とも高さを上げて!」
アルミンの後ろから続いてくるジャン、コニー、サシャも、ナマエ達の方向へ向かいながら飛ぶ位置の高さを上げていた。憲兵達も馬車に乗っているので、そう音には過敏にならなくてもいい。けれど近すぎるのは危険だ。
全員が木のてっぺんのあたりに目標を定めて、移動する。
「でもアルミン!迂回って言われても方角がわからないよ!」
「人数がいるから3組に別れよう!ナマエとミカサはこのまま南へ。僕とジャンは西、サシャとコニーは東だ。兵長達はぎりぎりの距離で馬車を追っているけれど……」
口ごもるアルミン。
リヴァイ達の笛の音を聞いて、一番にリヴァイの下に駆け付けたのはアルミンだった。「お前たちは上から追え。このまま下からだと見失いかねん」そう指示を下すリヴァイに、アルミンは違和感を覚えたのだ。
(リヴァイ兵長が見失いかねないって)
それほど腕の良い御者が付いているのか。しかし真意を確かめる暇などない。今やるべきは、置かれた状況下でいかに順応してみせるか。
「馬車を見つけたらすぐ笛だぞ!」
念押しするようにジャンが叫ぶ。ナマエ達は「了解」と口々に呟き、さらに飛ぶ位置を上げた。空が近くなる。
ミカサと一定の距離を保ちながら、ナマエは南に向かって飛ぶ。先に飛んでいるのはミカサの方だ。
(……笛?)
足元の方から山鳩のような。
「ミカサ!ねぇ、笛の音聞こえない?」
「私は聞こえない」
「一応確認してくるから!ミカサはそのまま真っ直ぐ飛んでてね!」
返事はなく、ミカサはすぐに前を向いた。それを合意と受け取り、ナマエはアンカーを放つ方角を下降させる。下に向かって飛ぶときは、登る時よりもずっと重力を感じる。重い空気が、受け止める気も無いのに襲ってくるようなーーー
「ナマエか」
「リヴァイ兵長!」
ちょうどすぐ真下で、馬車に乗って走るリヴァイ達の姿。
「他の奴らはどうした」
「憲兵の馬車が見えなかったので、三方に分かれて飛んでます」
「この森を抜けるまではそのままの方がいいな……あっちは手練れだ。追手を巻くのに慣れてやがる。下からどこまで追えるかわからん。森を抜けて、憲兵を追っている奴が笛を吹け。もし全員が見失ったら一旦ストヘス区へ集合だ。行け!」
「了解!」
返事と同時に飛び上る。
ナマエは僅かに喋るスピードの速いリヴァイが、少しだけ気になった。焦っているような、苛立っているような。それほどに、状況は芳しくないということなのか。
しかしナマエの不安はそのまま的中して、一行はストヘス区へ入る前にエレンとヒストリアを捕えた憲兵を見失ってしまったのだった。
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