▼ 4.時のおじさんの船
「……血のにおいがする」
ナマエがケニーに向けた最初の言葉だった。
「なんだ、お前喋れるんじゃねぇか」
「血なまぐさい」
「お仕事ってやつだ。ちょうどお前くらいの女の子に会ってきた」
それはヒストリアのことだった。
ヒストリアがクリスタ=レンズになったその日、ケニーもその場所にいたのだ。
「その子のこと……殺したの?」
「いや、その子は殺してねぇよ」
「貴方は悪い人?」
「今日はよく喋るな、ナマエ」
ウォール=マリアの壁が壊されたあの日、ケニーがこの家にナマエを連れてきてから、ナマエはずっと黙ったままだった。
「言葉は知ってる。喋れるよ」
「もともとよく喋る方か?」
「わからないよ」
「そうか。俺はもともと、よく喋る」
部屋の端にあった粗末な木の椅子をナマエの目の前に置いて、ケニーはそれに深々と座った。ナマエは唇をへの字に曲げたまま、その様子をじっと見つめていた。
「……とりあえず、そうだな。まずはこれを茹でろ」
脇に持っていたらしい、ナマエの両のてのひら程の布袋をケニーは机の上に投げた。
「何、これ」
「豆だ」
「豆を茹でるの?」
「俺の言う通りに、だ」
湯の沸かし方くらい、ナマエも知っていた。
しかしケニーはその豆を洗う過程から口を出してくる。やれ、洗い方が雑だ。そうじゃねぇ、もっとふっくらなるように茹でるんだ。半分をマッシュするんだ、全部潰すんじゃねぇ。
どうしていきなり豆なのか。けれどこうして、ケニーとの生活は始まった。
***
替え玉作戦で功を奏した新リヴァイ班は、憲兵団と癒着のあったリーブス商会を味方に付け、次の一手を打とうとしている所だった。
「ついに始まったか……」
地下室からつんざくような悲鳴が響き渡り、ジャンは額に手を当てながら項垂れた。「拷問」にあたっているのはハンジとリヴァイだ。
104期生は別室に集まり、場の空気を淀ませていた。
一同が落ち込むのは今ーーー「調査兵団」が相手にしているのが、巨人でなく人間だから。悲鳴の主は、確かにニック司祭を殺害した。しかしその彼もまた、人間。
「僕らはもう、良い人じゃないよ」
両手を抱え込むようにして、アルミンは机の上に突っ伏した。
「……そういや、ナマエの姿が見えねぇな」
話題を少し変えようと、ジャンは呟いた。変えたところで、その背景音楽のような悲鳴は絶えないのだけれど。
「少しだけ、様子を見てくるって言ってましたよ。ついさっき」
げんなりとした様子のサシャに、その主語がなくてもジャンはナマエの行先がすぐにわかった。
「は?!あいつ正気かよ」
拷問の様子など、頼まれたって見るのはごめんだ。敢えて104期生達は、この部屋にいるよう指示されていたというのに。
「まぁ、ナマエだしな」
何故かため息交じりにエレン。押し黙ったままのミカサだけは、何故ナマエがそこに行ったのか、理由はわかっていた。
***
その頃ナマエは1人、台所で湯を沸かしていた。
リヴァイには104期生は別室にて待機との命を受けていたのだが、こっそりと地下を覗きに行った。しかし聞こえてくるのは悲鳴ばかりで、少しだけ考え込んでから、台所へと移動してきていた。
「オイ、どうしてここにいる。てめぇら新兵は別室で待機のはずだ」
入ってくるなり、リヴァイはナマエを睨んだ。両手に手袋、大きめのエプロンといった肉屋のおじさんさながらのいでたちだが、その辺の肉屋と違うのはその返り血が人間のものということ。
「すみません。そろそろかと思って……お湯を」
「ああ。すぐに戻れ。命令違反で罰せられてぇのか」
「いえ」
リヴァイのピリピリとした空気を、ナマエは感じ取っていた。特に表情はいつもと大差ない。けれど僅かな、猛り。
「血のにおい……がします」
「当たり前だ。お仕事ってやつだからな」
「殺しました?」
「はっ。いつからそんな冗談言えるようになった、ナマエよ」
リヴァイが台所のシンクに手袋を投げだしたので、ナマエはそれに目掛けて熱い湯を掛けた。くもる視界の中で、ナマエは薄く目を細める。
「いつだって……私にとってのリヴァイ兵長は良い人、です」
どうしてか、最近ナマエは不安だった。それを口にする事で、何かを再確認するような。
丸い銀色の排水溝に真っ赤な色が吸い込まれていく様を見つめながら、リヴァイは少しだけ間を置いた。ナマエは笑顔でもない、憂いでもないその表情を携えながら、じっとリヴァイの方を見ている。
もう少し、リヴァイは考える。
しかし適当な言葉は全て鮮血と共に流れてゆき、彼は「ああ」とだけ言ってナマエの方に視線を移した。やり場の無い感情全てを、彼女に叩き出したい気分だった。
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