▼ 2.鳶の泣き声
ちょうど赤子のてのひらのような形の、赤や黄色の落ち葉が重なり合う景色の中。リヴァイはハンジを見送るために、山小屋から少し離れた場所まで歩いてきていた。
「まぁ、あれだよリヴァイ。貴方が口下手なのは知っているけれど、私がいない間はナマエにフォローしてもらうがいいさ。新兵達と仲良くね」
敢えて明るい口調でハンジは言った。冷やかし半分のその調子に、てっきり「うるせぇ」と返ってくると思っていたハンジは、押し黙るリヴァイを不思議に思った。
ーーー先の戦いでアルミンとハンジが導き出した、エレンが硬質化をしてウォールマリアの壁を塞ぐという案。当初の目的はエレンの力を持って壁を塞ぐことだ。それはぶれていない。しかし立ちはだかるのは「中の人間」。
ハンジが匿っていたニック司祭は兵舎内で殺された。それは恐らく中央憲兵の仕業で、調査兵団の行く手を阻む根源もそこにある。ニックの件で一時は逃げ腰になっていたハンジだったが、一同は中央憲兵に立ち向かいつつ、エレンの巨人化の実験を強行する運びとなった。
そして今日、そのエレンの実験は失敗に終わりーーーハンジは本部への帰路につこうとしているのだが。
「リヴァイ?」
そもそもリヴァイがハンジを見送りにくること自体まれな光景だ。リヴァイは視線を、紅葉で彩られた遠くの山々に移した。焦燥が、空気を蝕んでいるようだった。
「事態がクソなことに変わりはねぇが」
「うん?」
「ひとつ頼まれてくれるか」
手紙のようだった。リヴァイの封蝋で留められたそれを、ハンジは黙って受け取った。
「地下街の娼館に行ったのを覚えているか」
「ナマエがいた例のあそこかい?」
「あの店の裏手に、俺が以前馴染みだった酒場がある。そこの主人にこれを渡してくれればいい」
肩からかけていた鞄の中に手紙を仕舞い込んでから、ハンジは「私に貸しだなんて珍しいね」と口角を上げた。
「俺は今、ガキ共のお守りで忙しいからな。エレンの奴もあのザマだ」
「……ナマエのこと、疑ってるのかい?」
「違う」
ナマエ達の戸籍を調べあげたのは、ハンジ班の一同だ。ライナーとベルトルトにはアニとの共通点が見られたが、ナマエに怪しい所は無かったはず。
「これは、それとは別件?」
「俺の妹かもしれねぇからな」
ひゅう、と風に乗った楓の葉が2人の間を通った。
「は……はぁ?!」
急にボリュームの上がった叫び声に「うるせぇ」と、今度こそリヴァイは顔をしかめる。
「な、何がどうなったらそんな考えに至るんだよ!」
「突拍子が無い話しじゃねぇ。なんとなく……予感はあった。それにもし妹っつっても、母親は違う」
「腹違いの……?やめてくれよ。そんな話し聞き飽きたよ、最近。貴方達までそんな冗談」
両手で顔を覆ってから、ハンジはリヴァイを見やり、それからため息を一つ。
「……これを渡してくれば、何かわかるのかい?」
「さぁ、な」
「そうか……」
わかった、と小さく呟いてハンジは手綱を引いた。そして数歩、馬の足を進めた所でふと思い立ち、振り返る。
「あんまり聞きたくないんだけれど」
「なんだ」
「今これを私に頼んできたのって、確かめる必要がある事柄……が、起きたって事?」
仏頂面のリヴァイの眉の端が、少しだけ吊り上がる。ハンジはまた前を向いて、リヴァイに背を向けたまま手を振った。
***
リヴァイが山小屋に戻ると、食卓の椅子の上にミカサが立っていた。
「……何をしている」
ミカサは黙ったまま、人差し指で下を指さした。ミカサのスカートの裾を持って、ナマエが針を動かしていた。
「リヴァイ兵長、お帰りなさい!分隊長はもう戻られたんですか?」
「どうでもいいが……おい、てめぇさっさとそこを降りろ。軽く俺を見下してんだろうが」
少しミカサの表情が柔らかいことにリヴァイが気付いていた。ふん、と鼻で笑いだしそうな勢いだ。
「ちょっと待ってください。スカートの裾のほつれを直していて……はい、終わった。いいよミカサ」
「ありがとう。では、エレンの所に戻る」
「うん。夕飯出来たら呼びに行くから。ミカサもちゃんとエレンの横で休んでね?」
こくんとミカサは頷いて、顔の半分をマフラーの中に埋めた。そのまま消え入りそうな声で「失礼します」とリヴァイに向かって言うと、颯爽とエレンの部屋へと向かって行く。
「お茶でも淹れますか?」
「いや、食後で構わん」
「そうですか」
針箱を仕舞いながら、ナマエは周辺に糸くずが落ちていないか、目を皿のようにして辺りを見回した。
「仲がいいな」
「ミカサですか?まぁ、親友ですから」
「ヒストリアの方はどうだ……あれから」
あれからーーーとは、ヒストリアが自身の過去を打ち明けた時から、の意だ。
貴族レイス家の妾腹の子であったヒストリア。名前を偽って、訓練兵団へと入団して。その過程を説明したその日から、クリスタの面影は無くなっていた。
「まだ、時間が必要なんじゃないでしょうか。ヒストリアの一番の親友は……ユミルだったから。私達じゃ、ユミルの変わりにはなれません」
リヴァイはナマエの向かいの椅子を引いて、腕を組んで座った。黙ってナマエの話しを聞く素振りだったので、ナマエは努めて笑顔を作った。
「みんな……失うものが多すぎて」
「お前も失ったのか、何か」
あはは、とナマエは困った顔のまま笑った。
「私には最初から何もありませんでしたから。でも、リヴァイ兵長らしいですね。そうやって、ミカサやヒストリアのことを気に掛けてて」
「俺の今の仕事だ」
「そういう所、本当に好きです。尊敬します」
ぎろりと薄いグレーの瞳を光らせて、リヴァイは組んでいた腕を解いて頬杖をついた。
「てめぇ……俺を買い被るな」
「厳しい所も、です。ぼっこぼこに殴られても」
「そりゃエレンの話しだろうが」
「エレンもそうだと思いますよ」
ふふ、とナマエは表情を緩めた。
「あいつには……やってもわらなきゃならねぇことが多すぎるからな」
「私も頑張ります。ミカサのフォローとか!」
「そりゃ頼もしいな」
高い笛の音のような鳥の声が響いた。2人が同時に窓に目を移すと、真っ青な空の中に点のような影が弧を描いて飛んでいる。やらなくてはいけないこと、今成すべきこと、この狭い世界の情勢。慌ただしい状況下だけれど、この山小屋の中の空気はやけにゆっくりだ。それは地団太を踏んでいるような状態が、そうさせているのだろうけれど。
「そろそろ夕飯の準備にかかりますね。今日は私とアルミンが当番なんです」
「ナマエ」
「はい?」
「作るのはいいが、そろそろ飯はちゃんと食え。さすがに昨日は、サシャもお前に突っ返してただろう」
台所の方へ向かおうとしていたナマエを、背後から見下すようにリヴァイは立ち上がっていた。あえて振り向きはせずに、ナマエは「ばれてましたか?」と呟いた。
「てめぇのことに関しては、手にとるようにわかるからな」
「少しは、食べてますから」
「俺がいるだろうが」
ナマエは視線だけで恐る恐る振り返る。窓を背に、黒いコントラストになったようなリヴァイがナマエを見下ろしていた。
「……リヴァイ兵長?」
玄関扉を強く叩く音が響く。外からは「ニファです」と声が掛かった。
「今開ける」
いつもの鋭い表情に戻してから、リヴァイはナマエに背を向けた。本部から緊急の伝達だ。どうしてリヴァイがあんな表情でナマエを見下ろしていたのか。ナマエには考えてもわからなかった。
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