▼ 1.回想
訓練兵団へ入団して10日程が経った頃ーーー
104期生は壁上固定砲の整備のため、全員が開閉門の方へと歩いている時だった。まだ気軽に話しの出来る相手もいなかったナマエは、ぼんやりと目の前の大きな壁を見上げていた。
『3年そこで訓練すりゃ、嫌でも外に出れるようになるさ』
ケニーはそうナマエに申し渡した。拒否権の無い選択だった。
ナマエはどうしてケニーがナマエの面倒を見てくれていたのか、その一切の事情を知らされていなかった。あの混乱の最中、ナマエの手を引き、ケニーはエルミハ区の外れの小さな小屋にナマエを連れて来た。そこから、唐突に日常は始まったのだ。
(ケニー……今頃、どうしてるんだろう)
優しい、という単語はおおよそ当てはまらない彼。粗暴で気まぐれ、口も悪ければナマエに教示するそれらも倫理には反していた。穏やかな会話を長くした記憶も無い。
ふ、とナマエが顔を上げると、同期生達がざわめき立っていた。
「……なにごと?」
小さく呟くと、隣に居たベルトルトが「有名な兵士長がいるみたいだよ」と微笑んだ。
「有名な兵士長?」
「なんだよナマエ、お前調査兵団志望とかぬかしてた癖に、リヴァイ兵士長のことも知らねぇのか?」
ちょうど昨夜の夕飯時、ライナーとベルトルトに「どうして訓練兵団に来たのか」と話しをしたのだ。2人はナマエの志望先に驚いてはいたが「頑張れよ」と応援してくれた。
「はぁ?!お前調査兵団志望なのかよ、信じらんねぇ!」
ナマエ達の会話が聞こえたのか、反対側にいたコニーが驚いたようにナマエに向き直った。ナマエはきょとんとして「どうしてみんな驚くの」と首を傾げたが、ライナーはくすくすと笑いながら「いいから見とけよ」と遠くを指さした。小さなナマエは必死でつま先立ちをして背を伸ばすと、姿勢よく馬に騎乗した兵士の姿が目に入った。
「調査兵団のリヴァイ兵士長だ。人類最強、とか言われてるんだぜ」
「リヴァイ……兵士長」
「1人で一個旅団分の兵力とかなんとか。まぁ、調査兵団志望なら覚えてて損は無いんじゃねぇか」
ふぅん、と呟きながらナマエはもう一度視線を調査兵団一行の方へと移した。リヴァイ兵士長、と呼ばれたその人はもう顔までは見えない。何故かその時、ナマエはリヴァイから目が逸らせなくなった。じっと、その背中を見つめたまま。
少しだけ、騎乗したその人が振り返る。目が合ったわけでもない。なのにナマエは、ケニーのことを思い出していた。
***
その翌日、ナマエは自由時間を利用して資料室を訪れていた。訓練兵が自習などでも使用できる、閲覧可能な資料を置いた部屋だ。
「ナマエ、何を見ているの?」
「……クリスタ、だっけ?」
「やっと覚えてくれたんだね。調査兵団の名簿?」
手元の資料に目を落として、クリスタは小さな頭を傾げた。ナマエは人の名前を覚えるのが苦手らしく、未だ同期全員の名前を把握してはいなかった。そんな彼女が、名簿表を見ている。
「そっか。調査兵団志望って噂になってたもんね」
「噂になることのほどなの?まぁ……そうなんだけれど」
「だって調査兵団は……ね、ナマエは怖くないの?その……巨人とか」
怖いか、否か。
ナマエは思ったことが言葉に繋がらず、喉の奥で詰まった想いを転がした。調査兵団になりたかったわけじゃない。ナマエは自由になりたかっただけだ。ただ、ひと時でも。壁の外へ、縛られない世界へーーー
でもここへ来たのはケニーの薦めであって。
船には乗っているのに舵はとれない。それを誤魔化すように、ナマエは笑顔で同期生達に言っていた。「調査兵団に入る」と。口にする事で、その張りつめた糸が保たれるかのように。
黙り込んだナマエを見て、クリスタはその場をとりなすように微笑んだ。ナマエもまた、言葉の代わりに表情で返事をした。
「そろそろ次の講義が始まるんじゃないかな」
「そうだね。戻ろうか、クリスタ」
2人が連れだって資料室を出ると、扉のすぐ脇の壁にもたれるようにしてミカサが立っていた。
「どうしたの、ミカサ」
クリスタがそう声を掛けると、ミカサは少しだけ視線を逸らしながら「ナマエに用がある」と言った。
「そうなの?じゃあ私、先に教室に行っておくね。2人とも遅れないように気を付けてね」
ミカサとナマエは同じように「うん」と呟くと、2人きりになった廊下には気まずい静寂が訪れた。先に口を開いたのは、ナマエだった。
「私に、用があるの?」
「ナマエの、名前を」
「名前?あ、ちゃんと自己紹介ってしてなかったっけ」
ミカサもナマエも入団初日の通過儀礼では指名されていなかった。けれど大体の同期生は人伝に名前を聞いている。
「私の名前は、ミカサ=アッカーマン」
ナマエはこの時のミカサの表情を、いつだって鮮明に思い出すことが出来た。期待と不安と、少しだけ照れのまじった子供のような可愛い顔。そして同時に自分の中にも生まれた、僅かな高揚感。
ケニーのことを特別に大切だとか、そういう風に意識したことは無い。けれど彼の影はいつだってナマエの側にあった。
***
控えめにドアをノックする音が響く。ナマエがうっすらと目を開くと、真っ白なシーツの向こうにミカサの寝顔があった。気だるい体を寝返りして窓の外を見ると、まだ空は薄暗い。
(……昔の、夢)
意識は夢うつつ。
懐かしい情景が夢に現れたのはきっと、昨日から訓練兵時代のような生活が始まったからだ。
(私の見張りは夜が明けたらサシャと交代だったはず……)
なんのための見張りなのかーーーナマエにはその意味がまだよくわからなかったが、名目はエレンとヒストリアを守るためとしてこの山小屋へと移動してきたのだ。調査兵団本部から移ってきて以来、104期の面々は交代で見張り台に立っている。
とんとん、とん。
控えめなノックはまだ、響く。
(ヒストリアかミカサが起きてくれちゃったりしないかな)
山小屋は街中よりもずっと冷える。一度立ち上がってしまうと、布団の中はあっという間に冷え込んでしまうだろう。ナマエは注意深くミカサとヒストリアを交互に見比べてみたが、2人とも規則正しく布団を上下させているだけだった。
とんとん、とん。
ノックは鳴り止まない。ナマエは布団の中で「もう」と小さく呟くと、勢いをつけてベッドから立ち上がった。
「誰?こんな朝早くから」
ゆっくりと扉を開くと「悪ィ」と呟きながら片手をあげてあやまる素振りをするジャンの姿。
「どうしたの、見張りならまだ私時間じゃ」
「そうじゃなくてよ。ちょっと……一緒に降りて来てくれるか」
ナマエはゆっくりと後ろ手に扉を閉めた。どうやらジャンは一緒に台所に来てくれ、という風だ。眠い目をこすりながら薄いガウンを引っ掛けて、ナマエはジャンと共に1階にある台所へと降りる。灯りの無い台所スペースは薄暗い。
「俺も次見張りだからさ。なんかあったけーモンでも飲んでおきてぇんだよ」
声を潜めながら、ジャンは台所を覗き込む。ダイニングスペースには椅子に座った人影があった。
「リヴァイ兵長」
急に普通の声のトーンになったナマエに、ジャンは小さく「ばか」と言ったが、ナマエは構わずリヴァイに駆け寄った。
「こんな場所で何もかけずに寝てたら、風邪引いちゃいますよ!」
「ああ……?問題ねぇ」
少しだけ眠っていた様子のリヴァイは、視線だけでナマエの方を見上げた。ナマエは自分の肩にあったガウンをリヴァイの肩へと引っ掛けた。
2人の背後では「ああ、もう」と小さく言いながら、ジャンが2階の寝室の方へ退散していく。ナマエはその気配に気付いてはいたが、今はこんな冷え切った場所で眠っていたリヴァイの方が心配だった。
「何か温かいものでも淹れます。ジャンも飲みたがっていたし……」
台所の裏口のかんぬきを外して、ナマエは外に置いたままになっていた薪を取るとすぐに竈に火を起こした。パチパチとはじけるような音と共に、ティーカップのこすれる音が響く。
「次の見張りはお前か」
「はい。私とジャンの予定です。今はサシャとコニーが立っているので……」
「そうか」
「眠れないのはわかりますが、ベッドで休んでください。体壊しちゃいますよ?」
トレーに茶葉を入れたポットと5つのカップを並べると、ナマエは振り返った。そこには物音ひとつさせずにリヴァイが立っており、急に現れたリヴァイにナマエは目を丸くした。
「お前がいれば、ベッドに入る理由もあるんだがな」
リヴァイはナマエのガウンを彼女の肩へと戻した。ふわりとかけられると、リヴァイの腕が頭の上を通る。前にも同じことを言われたな、と思い返しながらナマエはリヴァイを見上げた。
「……もう、お茶が入ります。温まってください」
「ああ」
しかしリヴァイが手を伸ばしたのはカップではなくナマエ自身だった。
「確かに。今朝は殊更に冷えるな」
急にリヴァイに抱きしめられ、ナマエは腕の中で小さく悲鳴を上げた。
「ジャ……ンが」
「もう上に戻った。茶が入ったら呼んできてやれ」
「兵長、もう」
と言いながらも、ナマエもリヴァイの腰に腕をまわしていた。触れた部分が、お茶よりもずっと温かい。
「……落ち着く」
ナマエが額をリヴァイの胸にうずめて、その心地よさを堪能していると、前触れもなくリヴァイはナマエを引きはがした。そしてトレーの上に乗ったカップをひとつ持ち上げると、何事もなかったかのようにダイニングの椅子に腰掛ける。
「リヴァイ兵長?」
急にどうして。
しかしそれはすぐにわかった。2階からミカサが降りてくるのと、見張りの交代にサシャとコニーが玄関扉を開けるのは同時だったのだ。
「お茶を……いれていたの」
「お、おはようミカサ。ミカサも飲む?あ、サシャとコニーの分もあるよ」
「ありがてー。外めっちゃ寒いぞ。お前、ちゃんと厚着して来いよな」
「わー、お茶嬉しいです。ほんと、急に冷え込んできましたね」
急に騒がしくなる室内。
片隅でリヴァイは、いつものようにカップの淵に指をかけてお茶を傾けていた。ナマエは自身の頬を二度叩くと、顔を上げた。
今度はナマエがジャン達男子部屋の扉をノックする。今日はハンジ班も一度こちらへ来て、今後の方針を決める会議が行われる予定だ。
(大丈夫。もう、目は覚めた)
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