▼ 2.少しだけ触れたのは
「そういえば今日の中庭の草抜きさ、ローゼ南訓練兵も来てくれるらしいよ」
朝一番、書類を届けにリヴァイの元に訪れたハンジ。
中庭に作られる、捕獲した巨人を囲う新設備。それを作るにあたって、昨夜急遽決定した訓練兵への手伝い要請。まったくの偶然ではあるのだが、ハンジはどこか嬉しそうにリヴァイにそれを伝える。
「……そりゃあ、ご苦労なこった」
「昨日のナマエも来るかな」
「俺が知るか」
どうせ別れ際に言っていた巨人の話の続きがしたいんだろう、とリヴァイはため息を吐く。
「なんかさ、可愛かったよねぇ」
「あぁ?」
「ナマエだよ、ナマエ。地下街出身っていうわりにスレてないっていうかさ」
リヴァイの頭の中に、昨日出会った少女の姿が浮かぶ。あまり他人に興味を持たない彼だが、「壁の外に出たい」と純粋に言う彼女の横顔ははっきりと記憶していた。
リヴァイよりも一回りほど小さな、長い黒髪が印象的なナマエ。
「……腹ん中では何を思ってるが知らねぇがな」
見た目だけではないだろう、とリヴァイは思う。
ハンジは「来たみたいだ」と窓の外に視線を移した。同じ団服を着た年若い男女が、ぞろぞろと列を成して調査兵団内へと入って来ていた。
***
座学の授業が3コマ取りやめになり、大半の訓練兵は怠惰な空気の中各々草むしりをしてたが、期待に胸を膨らませている者もいた。
「昨日送ってくれたという人を探しているの?」
ミカサは落ち着きのないナマエに向かって尋ねる。
「……そういうわけじゃないんだけれど。とっても偉い人だったから、そう簡単には見つからないと思うし」
「それ、探してんじゃねぇか」
ミカサの反対側にいたジャンも、呆れた様子でナマエを睨む。
どちらかといえばナマエは優等生だ。
この二年間、座学も立体起動や対人格闘といった実技もバランスよくこなし、人当たりもいいので協調性もそこそこある。
目立っておかしなことをしでかすタイプではないので、ミカサを初めとした他の同期生達も、昨日からのナマエの落ち着きのなさっぷりには不思議がっていた。今朝もこの手伝いのことを伝えられた時、1人だけ「っしゃあ」といつにないガッツポーズを披露し、周囲を驚かせた。
「ナマエ、そのお偉い兵士長さんとやらに、一目ぼれでもしたっていうのか?」
「な、なんでジャンが兵士長ってこと知ってるの?」
「死に急ぎ野郎から聞いた」
そう言えば帰ってきた時にエレン達には言っていたな、とナマエは思い出した。別に口に出す必要はなかったのに、あの時は思わず報告してしまったのだ。
普段なら冷静に、どういう対応をすればベストかを考えるのにーーーそんなに自分は舞い上がっていたのか、とナマエは赤面する。
「……そんなんじゃないよ。なんていうか、もう少しお話しさせてもらいたかったなぁって思って」
「一目ぼれじゃねぇか」
「違うったら!」
「お喋りはそこまで。ナマエ、手が止まってる。そこの雑草、裏庭の方まで持って行ってくれる?」
厳しくミカサに言い渡されて、小さく返事をするナマエ。
「仕方ねーな。俺も手伝ってやるよ」
なんだかんだと言って、ジャンは優しい。しかしナマエは首を横に振った。
「ううん、確かに私も落ち着きがなかったね。ごめん、1人で行ってくる」
ナマエはミカサが指さした雑草の山を持ち上げる。
「おい、ほんとに1人でそれいけんのか……」
持ち上げるとナマエの体の大きさと大差ないその山。
「見た目はそうじゃないかもしれないけど、全然平気!」
そう言って小さな歩幅で駆け出すナマエ。彼女の姿が見えなくなると「私はナマエのああいう所が嫌いじゃない」と、ミカサはジャンに聞こえないように呟いた。
***
「……雑草捨ててるのってこの辺かな」
一人裏庭に回ってきたナマエ。
兵団の建物と反対側が訓練所とはまた別の雑木林になっており、その周辺に雑草は集められているようだった。
荒々しくそこに目掛けて持っていた雑草の山を放り投げる。しかし次の瞬間、ふわりと足元から重力が消えた。
「へ?」
思わず間抜けな声が出る。体は真っ逆さまに落ちていくが、直撃する前に受け身が取れたのは日頃の鍛錬の賜物。
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
ナマエが落ちたそこは、枯れ井戸のようだった。
実際にそんな効果音がしているわけではないが、ひゅうと風が通る。それくらい、結構な高さがあった。
普通井戸は煉瓦などできちんと整備されてあるのだが、ご丁寧に底の方だけは地面がむき出しになっていた。手を掛ける場所などない。どれだけ身長が高くてジャンプ力が高くても、ここを自力で抜け出すのはまず不可能だろうといった雰囲気。
「おーい!だれかー、誰かいないー?」
大声を上げても、人の気配はまるでない。
(そういえばーーー)
『その辺の草抜きが終わったら、次は地面をならしてもらう。草抜きの方はほどほどでいいからな』
(……とかなんとか、調査兵団の方が言っていたような)
そう、ナマエが持ってきた雑草はこれが最後。つまりこの後ここへやって来る者はいない。
さぁ、と背筋が冷たくなる。
「おぉーい、誰かー!誰かいないー?」
ここで置いて行かれたら死にかねない。
よもや草抜きに来た先で命を落とすなど、さすがにかっこ悪すぎる。
(……ぼけっとしていた罰かな)
そうだ、自分は確かに舞い上がっていたとナマエは改めて反省する。
憧れの調査兵団の兵長と分隊長に馬車に乗せてもらえたのは、彼女の中でそれくらいの価値があった。きっともう二度とないだろう。
「おい、またお前か」
しゅんと項垂れたナマエに、影がかかる。
井戸を覗き込んでいたのは、ナマエが朝からずっと探していた人物だった。
「リヴァイ……兵士長……」
うそ、と心の中で呟く。
「んなとこで何してやがる」
「あの、雑草を投げていたらここに落ちてしまいまして」
リヴァイは小さく舌打ちをすると「そこを動くなよ」とナマエを睨み、ひょいと井戸底まで飛び降りた。
「へ、兵士長?!」
「訓練帰りだ」
立体起動をつけたままのリヴァイ。
ナマエの隣に飛び降りた彼は、有無言わずナマエの脇腹に手を回した。
「掴まれ」
「えっ、あの、でも」
「立体起動は習ってんだろうが」
言うや否や、聞きなれたアンカーを放つ音が響く。ナマエは震える手でリヴァイの肩に手を回した。それを確認すると、リヴァイもナマエを抱く手に力を込める。
ぐい、とリヴァイに引っ張られるようにしながら井戸の外へと飛び出すと、思いのほかそっと地面へと降ろされた。
(……リヴァイ兵士長に抱きしめられた!)
「何をやっていた、阿呆が」
「申し訳ありません。不注意でした……」
一瞬高揚した気持ちも、リヴァイの怒った表情でそれは氷点下まで下がりきる。
「こんなとこで死んだら、調査兵団に入るどころじゃねぇだろうが」
「仰る通りです」
もう穴があったら入りたい……いや、その穴に入っていたからこんな事態を招いているのだが。混乱したナマエは固く目を閉じて手を握りしめていた。
「おい、今のは冗談だろうが。笑え」
「え?」
「こんな枯れ井戸、俺も知らなかった」
呆れながらも、その表情はどこか柔らかい。
(……面白がってくれてるのかな)
「あの、ありがとうございました。昨日も、今日も。助けて頂いて」
「ああ。偶然だがな」
リヴァイのてのひらがナマエの頭の上に乗る。一瞬にして、ナマエはそこに熱が集まるのを感じた。
「それにしても、てめぇは……ハンジが言う通りだな」
「ハンジ分隊長が?」
なんのことでしょう、と首を傾げるナマエ。
それを見て、リヴァイは一瞬何かを考え込んでから静かに口を開いた。
「……どうやって地下から出て来た」
「え、今リヴァイ兵士長が立体起動で」
「そうじゃねぇ、ボケてんのかお前は。地下街からどうやって出てきたか聞いてんだ」
ああ、とナマエは頬を赤らめる。
今の出来事が衝撃的すぎて、なかなか他の話題に移れない。
「そっちの地下のことですね、すみません」
「どうも調子が狂う。本当に地下街に住んでたのか?」
「はい。娼館で育ちました」
「そうか」
リヴァイの表情が曇った。
「あ、でも客をとらされていたわけじゃないんですよ。売られるために育てられていただけで」
「それからどうして兵団に入ることができた?」
「はい。あの、12になった時に貴族に買われたのですが……買われて初めて地上に出た日が、ウォールマリアが壊された日だったんです。私を買った人とは、あのどさくさにまぎれてはぐれてしまって」
ナマエは少し、いたずらっぽく微笑む。
「……正直、そのまま壁の外に出てしまいたかったです。どこに行っても同じなのなら、死んでもいいから自由になりたくて」
そこまで口にして、ナマエははっとしてリヴァイを見やった。
「すみません。不愉快な話しでしたね」
「いや、立ち入ったことを聞いたな。しかし一つ言っておく」
リヴァイの瞳と、ナマエの瞳が宙で交わった。
ちょうど陽が傾き始めたようで、リヴァイの頬に木陰が落ちる。
「ナマエ、死にたいだけなら今すぐ兵団を辞めろ」
思いもよらぬ一言に、ナマエはえ?と小さく口を開く。
「お前のその突き抜けたような明るさはそのせいなんだろうが……でもそうじゃねぇなら」
リヴァイのてのひらがまた、優しくナマエの頭の上に乗る。
「そうじゃねぇなら、さっさとここまで来い。お前の想像通り、どこも似たようなモンだがな……ちなみに、だ。俺も地下街から出てきて初めて壁の外を見た時は、悪くねぇと思った」
そう言うと、リヴァイはくるりと背中を向けた。
ナマエは慌てて視線を上げたが、そこにはマントを揺らしながら歩いて行くリヴァイの後姿。
「あの、リヴァイ兵士長?」
「訓練に励め、ナマエよ」
ちらりと横目だけがナマエを向く。
そして今度こそリヴァイが前を向いて歩き始めるのを確認すると、ナマエはへなへなとその場に座り込んだのだった。
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