STORY | ナノ

▽ The monster floats in the dream.


 ああ、まただ。
 また人々の"畏れ"が近付いてくる。
 テスタメントさんの怒ってるような、でも悲しくて辛い声が聞こえる。
 誰かが傷付く音がする。争いの音がする。私の世界が震えている。
 人里離れたこの森の片隅で、私は膝を抱えてじっとそれを聞いている。膝を抱える力を強めると、ウンディーネは優しく私の頭を撫でてくれた。ウンディーネの手は優しくて、心細くて仕方ない私は少しだけ安心する。
 どうして。どうして争いはなくならないのだろう。私達はただ、生きていたいだけなのに。ギアというだけで私達は居場所をなくしていく。こんな力があるから、私達は畏怖の象徴となってしまう。
 ギアには、生きる価値がないの…?
 私はぎゅうっと目を瞑った。このまま眠ってしまおう。夢の中なら、私達は自由を得られる。生きることを許される。みんなが笑っていて、争いもなくて、平和に暮らしていける。そんな世界に行ける。
 でもそんな夢を見るたび、所詮夢は夢でしかないのだと思い知らされる。あり得ない。願望でしかない。そう現実を突き付けられる。
 目を覚めるのが怖い。現実に戻るのが、怖い。
 このまま、夢から覚めなければいいのに──。


 ディズィー、最近変わったね。
 お天気のいい、ある日のことでした。
 メイシップの甲板で気持ちのよい風に身を任せている私に、メイが後ろから話し掛けてきた。それから私の隣にやってきて、柵に両肘をかける。チョコレート色した長い髪がふわりと風になびく。いい風だね、とメイは笑った。
 さっきまでずっと私は一人でいて、メイとはなにも話していなかったから、突然の話題に少し驚いてしまう。そう? と首を傾げると、メイは深く頷いた。なんていうか、明るくなった? 前は楽しそうにしててもなんか遠慮してたように見えたけど、最近はそうは見えないなって。私はきょとんとするばかりだった。私にとってはそんなつもりはなくて、変わったところがよく分からない。それに、メイにはそんな風に見えてたのかって、少し驚いた。私らしくない? 少し不安になって尋ねると、メイは屈託のない笑みで首を横に振った。ぜーんぜん。ボク、こっちのディズィーの方が好きだな。あ、もちろん今までのディズィーも好きだよ。メイは加えて言った。やっぱり自分にはよく分からなくて首を傾げてしまうばかりだけれど、メイが笑っていると私も嬉しくなって、頬が緩んでしまう。
 で、なにかあったの? 身を乗り出して尋ねるメイに、私はうーんと思い起こしてみる。最近。最近、なにかあったかな。そういえばこの間、ジャニスが行方不明になってしまって、みんな大慌てで探してたことがあったっけ。結局ジャニスは調理室の隅っこで眠っていたんだけど…。見つかった時、きっとリープおばさんのご飯楽しみにしてたんだね、なんてみんな疲れた顔をして笑ってた。だけど見つかってよかったって安心した気持ちが強くて、今となっては微笑ましい思い出話だ。そう、その時、船の中でも見つからなくて、みんなが外にまで探しに行く姿を見て、私もいてもたってもいられなくなって…。必死に探し回っていた時、偶然あの人と会って、一緒に探してもらったんだっけ。
 あの人。
 ──あっ、そうだ! 私は両手をぽんと合わせた。閃いた私に、メイは目を輝かせて耳を傾ける。えっ、なになに? 最近、カイさんと会うのが凄く楽しみなの。あー…。メイは声のトーンを落とした。少しがっくりしている気がするのは気のせいかしら。でもね。私は話を続ける。少し、不安になる時があるの。もしまた力が暴走しちゃったらどうしようって。私は胸を押さえた。カイさんが強いのは分かってる。私の力を受け止めてくれる人なんだってことも。だからといって、心配がないわけじゃない。力が暴走すれば、例え受け止められたとしても、きっとカイさんは傷付いてしまう。カイさんが傷付いてしまうのはとても嫌で、目の前が真っ暗になってしまいそうで。考えるだけで、こんなにも胸が苦しい。
 普通は逆だと思うけどなぁ…。メイは顎に手を当てる。でも大丈夫だよ。だってディズィーはその人のこと信じてるんでしょ? 私は深く頷いた。信じている。それだけは変わらない。変わりようもない、事実だから。じゃあ大丈夫だって。心配しすぎ! むしろ心配するのはディズィーの方なんだよ? え? 私は目を白黒させた。気を付けてねディズィー。男はみんなケダモノなんだから。いつディズィーに手を出すか分からないよ。もうメイ。カイさんはそんなことしないよ。カイさんは優しくてとってもいい人なんだもの。どうだかなー。おっと、話はここまでだ。背後から声が聞こえて、私達は振り向いた。そこにはジョニーさんがいて、メイが嬉しそうにジョニーさんの下へ駆け寄っていく。ディズィー。もうすぐで着くぞ。早く支度しな。坊やが待ってるんだろ?


 ようこそいらっしゃいました。
 開かれた扉の先で、カイさんは微笑んで手を差し伸べた。きらきらして綺麗な青緑の瞳が細められているのを見て、自然と私も笑顔になる。カイさんの瞳は一片の濁りもない氷みたいに澄んでいて、とても幻想的で、思わず魅入ってしまいます。お邪魔します。私は深くお辞儀をすると、招かれるまま、カイさんのおうちに入り込んだ。カイさんのおうちに来るのははじめてではないのに、扉をくぐるこの瞬間はいつもどきどきして緊張してしまう。それでもカイさんの笑顔を見ると安心して、心が暖かくなるから不思議だ。
 こうして私はカイさんのおうちによく遊びに来ている。本当は遊びに、というわけではないけれど、気付いたらお喋りをする時間の方が多くなっていて、最近ではお話をしていたら気付いたら帰りの時間になっていた、なんてことも珍しくなくなってきていた。お喋りといっても内容は様々で、私は身近なことを話すことが多いけれど、カイさんは世界の色んなお話を聞かせてくれて、世界のことをなにも知らない私にとってどれも新鮮で、聞いていてとても楽しい。なによりカイさんの色んな表情も見れて、カイさんとお喋りをするのはとても好きだ。
 今日もカイさんと一緒に調べ物をして、そしてお話もたくさんした。休憩にしましょうか、飲み物を用意しますね。カイさんがそう言ってキッチンの方へ消えてしまった。カイさんの後ろ姿を見送った私は、手にしていた本を閉じると、元の場所へと戻した。飲み物、というのはきっと紅茶だと思う。カイさんの入れる紅茶はとても美味しいから楽しみ。そんなわくわくした気持ちで待っていると、ふとここに訪ねてくる前にメイの言っていたことを思い出した。それと同時に、カイさんがティーカップを二つ乗せたトレイを持って戻ってきた。あの、カイさん。部屋に入ってくるなり問い掛ける私に、カイさんは、なんでしょう、と不思議そうに首を傾げた。カイさんは、ケダモノ…なんですか? 思い出してから考える時間もなかったからつい無意識に口に出してしまったその質問はカイさんにとって驚きのものだったみたいで、カイさんはトレイを取り落としそうになっていた。…またジョニーさんですか? カイさんはトレイを持ち直し、一つ咳払いをした。私は首を横に振って、いえ、メイが、と答えた。カイさんは私の下へやってくると、どうぞ、とテーブルの上にティーカップとお菓子──これは、フィナンシェ?──が添えられたお皿を差し出された。紅茶のとてもいい香りがふわりと漂ってくる。私は紅茶のことはまだよく分からなくて、カイさんに教えてもらわないと種類もあやふやだけれど、これだけは分かる。この香りは、私の大好きな香りだ。
 向かい側の椅子に腰を下ろしたカイさんは真剣な表情でまっすぐに私を見据えた。安心してください。私は貴方を傷付けないし、貴方に牙を向ける者がいるのなら容赦はしません。貴方は必ず私が守ります。
 この時、私は一体どのような顔をカイさんに向けていたのだろう。多分、悲しい顔をしていたんだと思う。だってなにも返せてない。
 カイさんの気持ちは嬉しい。強く、そう思ってくれてるんだということはよく分かった。でも私は守られるような立場ではなくて。もし私に敵意を向ける人がいたとして、傷付けてしまうのは私で、守られるべきはきっと、彼らの方。私はギアだから。敵であるのは私の方なのだと、私は知っていた。赤い目を持った憂いに満ちた表情が目の前でゆらゆら揺れる。
 よかったらお菓子でもいかがですか。思案に暮れる私は、突然のカイさんの申し出に、え、と小さく声を漏らした。いつの間にか私は俯いてしまっていたみたい。紅茶をじっと見つめていたらしい私の視界に、微笑むカイさんの姿が映る。なんだか後ろめたい気持ちになって、それじゃあ、いただきます。それを隠すみたいに正方形の形をしたお菓子を一口、食べた。口に含んだ瞬間、バターの風味がふわっと広がって、まるで別のどこかに迷い込んでしまったような、不思議の国に辿り着いてしまったような、そんな感覚になる。
 …美味しい! 思わず私は口元を押さえた。どうしてだろう。フィナンシェを食べたのははじめてじゃないはずなのに。それにこのフィナンシェは、優しい味がする。
 口元を押さえて固まってしまった私に、カイさんはくすりと笑った。お口に合ったみたいでよかった。実はそれ、私が作ったんです。カイさんが? 凄い。カイさん、お菓子も作れちゃうんですね。ディズィーさんはお菓子作りはしたりしないんですか? ご飯を作ることはあるんですけど、お菓子作りはあまりしたことがなくて。ご飯を作った時、みなさんどんな様子なんです? みんな、美味しいって食べてくれますよ。苦手なものが入ってたら顔をしかめちゃう子もいますけど、きちんと残さず食べてくれるんです。みんなの笑顔を見てると、私もお料理をもっと頑張ろうって思うんです。それは、今のディズィーさんと同じ表情ですか? えっ? 私は片手をぺたりと自身の頬に当てた。いつの間に私、笑顔になってたんだろう。不思議で不思議で仕方なくて、困惑してしまう。
 不思議ですよね。カイさんは言う。料理もお菓子作りもはじめは与えられた役割か、ただの自己満足でしかなかったのに。喜んでもらえるともっと頑張りたいって思うようになって、気付いたら行動そのものが誰かのためのものになってるんです。それこそ自己満足でしかないのかもしれない。けれど、それで相手の笑顔を守れるのなら、それでもいいって思うんです。守…る…? そう。守るということは身体的な怪我や痛みのことだけではないんです。貴方は、いつも共にいる仲間の心を守ってくれているんですよ。そして私も。ディズィーさんの笑顔を守れてよかった。
 はっと息を呑む。
 時間が、止まったのかと思った。

 あ、あの。気付けば私は口を開いていた。なにを言おうとしたのだろう。開いたのに上手く言葉が出なくて、なにも繋がらない。それでもカイさんはそんな私を急かすことなく、じっと待ってくれた。あの、私、カイさんにお菓子作りを教わりたいです。もちろん。私でよければ教えますよ。せっかくですし、材料も一緒に買いに行きませんか? カイさんのお誘いに、私は両手を合わせた。頬が緩むのを感じる。でもすぐにはっとなって背中の羽をちらりと見やった。人の形を取らないただの羽。今は静かにしているけれど、でもちゃんと意思を持っていて。不安げな私を慰めるように、片方の淡い青色の羽は少しだけふわりと震えた。
 大丈夫。カイさんは言った。私がいます。私が貴方を守ります。だから貴方も、貴方の力をもう少し信じてみませんか。
 真っ直ぐな眼差し。私は心が晴れていくのを感じて、今度こそ笑顔で頷いた。


 それからカイさんとの交流は続き、いつしか一緒に暮らすようになって、心を通わせるまでにそう時間はかからなかった。
 私はなにも分からないことだらけで、失敗して迷惑をかけてばかり。でもカイさんはいつも笑ってくれて、私に色んなことを教えてくれた。お菓子作りも一人で出来るようになったし、家事だってきっとカイさんに負けないくらいできるようになった。お庭に咲いてるお花だってなんだって答えられるようになった。空を飛ぶ鳥の名前も、夜空に光るお星様の言い伝えも、今なら分かる。カイさんのお陰で、私の世界が広がっていく。世界はこんなにも素敵で溢れていて、私もその中で生きる一つのいきもので、そんな私の隣で、カイさんがいてくれる。そこにはもちろんジェリーフィッシュのみんなもいて、こんなにも大切なもので溢れている。
 幸せって、こういうことなのね。
 私は噛み締めるように、ぎゅっと心を抱き締めた。

 こんな幸せが、ずっと続けばよかったのに。


 ぱたり、と小さな音を立てて後ろ手に扉を閉める。
 灯りも月の光も差さない廊下はただただ真っ暗で、私の心を更に暗闇に落としていく。私はかぶりを振ると一歩、一歩と扉から離れた。脳裏にあの人の、辛そうな笑顔が浮かび続けて離れない。よく眠れるようにとホットミルクを用意したけど、きっと気休めでしかない。隈がまた酷くなってた。あの人はそんな風に見えないように振る舞ってはいるけど、私には分かる。ずっと眠れていないようだった。
 あの人が、カイさんが苦しんでいる。なんとかしてあげたい。でもこんなにも非力で、むしろ彼の重荷になってしまっている私には彼にしてあげられることといえばこれくらいしかなくて。私に出来ることを。分かってはいるけれど、考えれば考えるほど私の無力さを実感してしまう。
 どうして、こんなことになってしまったの…?
 なんとなく、ずっと前から気付いてはいた。カイさんが私に向ける視線に、信頼感や愛情とは別のなにかが混じっていたことを。それの意味を理解したのは、シンを身籠ってしばらくしてからだった。彼は、自分を責めているようだった。
 今も、昔も、彼を苦しめてしまっているのは、私だった。
 やっぱりギアは、世界にとって毒でしかないの…? 私がギアだから、カイさんは枷を掛けられてしまった。愛し合ったことを罪だとは思っていない。思いたくない。けれど自分がギアだからこうなってしまった。自分がいなければこうにはならなかった。
 カイさんが聖堂に向かう回数が増えた。神に必死に祈るその後ろ姿はまるで罰を待ち望む罪人のようで。見ていられない。
 どうすればいいのか、分からない。
 気が付いたらリビングの前まで辿り着いていて、私は静かに扉を開けた。目を見開いてしまった。だって、扉の先で、先程寝かし付けたばかりのシンがソファーの上で、お気に入りのぬいぐるみを抱き締めてぽつんと座っていたから。
 シンの左目とばっちり目が合う。私は小さく口角を上げると、シンに近付いた。リビングはランプを点けていたとはいえ今は子どもにとっておやすみの時間。一人でリビングまでやって来て、廊下はとても暗くて心細かったでしょう。シンは緊張した面持ちでいたけれど、私の顔を見るなり少し安心したようだった。
 どうしたの、シン。私は驚かせないよう、努めて穏やかに話し掛けた。もしかして、眠れないのかしら。でも今なにか飲むとシンにはよくないかもしれないわね。もう一度、本でも読みましょうか。膝を折りシンに目線を合わせる。シンはぬいぐるみをぎゅうっと抱き締めたまま、なにも言わなかった。なにか気になることがあるみたい。シン? ぬいぐるみに顔を埋めるシンの顔を私は覗き込んだ。…パパは? とても小さな声で、遠慮がちにシンは尋ねる。パパ? オウム返しに聞き返したところで、私ははっとなる。いけない。やってしまった。シンはだんだん顔をしかめていく。
 パパはまたママのこといじめたの? 違うわシン。パパは誰のこともいじわるなんてしないの。パパはシンのこともママのことも守ろうとしてくれているのよ。じゃあなんでママはそんなに悲しそうなの? シン…。違うの。これはパパのせいじゃない。ママが悪いの。だから…。
 シンは私の話に耳を傾けたままなにも言わなかった。でも可愛いお顔は険しいまま、ぬいぐるみを抱き締める力だけが強くなっていく。これじゃあ、まるで懺悔みたい。私はシンの頭を撫でた。あの人譲りの、綺麗でさらさらした髪は触り心地が良くて、とても好きだ。シン、おやすみしましょう。今度は違う絵本にしましょうか。なにがいい? 二匹の犬のお話がいい…。ああ、あの白と黒のね。分かったわ。私はシンの手を握ると、シンの歩調に合わせて、リビングを出た。てっきりシンはすっかり目が覚めてしまったのだと思っていたけれど、その瞼は半分にまで落ちていて、今にも閉じてしまいそうだった。これはベッドに入ればすぐにでも眠ってしまいそうかな。両手が塞がってしまってなにもできない代わりに、ぬいぐるみにすりすりと目を擦り付けた。あんまり擦りすぎちゃ駄目よ。そう言うと、シンは小さく頷いて大人しくぬいぐるみを抱え直した。あまりにも愛らしくて、私はくすりと笑ってしまう。でもこんなにも愛らしくて、愛おしいこの子があの人を恨んでしまったのは私が不安を隠せなかったからで。笑顔を上手く見せられなかったからで。私が、駄目だった。
 思った通り、シンはベッドに入って、絵本の一ページ目を読み終わるよりも先に夢の中に旅立ってしまった。私はぱたりと絵本を閉じる。シンは安らかに眠っている。私はシンの瞼にくちづけをすると優しく額を撫でた。自然に頬が緩んでいくのが分かる。シンは、凄いね。貴方がいてくれるだけで、こんなにも私達の心を救ってくれる。
 守ってくれる。
 私はぴたりと額を撫でる手を止めた。
 ──ディズィーさんの笑顔を守れてよかった。
 いつかの、ただただ幸せに溢れていた頃の記憶がよみがえる。
 私も。
 私もあの人を守りたい。あの人の笑顔を守りたい。あの人が帰る場所を守りたい。あの人と、私の宝物であるこの子を、守りたい。でも守るということは、なにも体を張って誰かが代わりに傷付くことだけじゃない。美味しいものを食べたり他愛のない話をしたり、この子みたいにただそこにいてくれるだけで心を救ってくれるような。それも一つの守り方なんだって、あの人に教わったはずなのに。それをまた、この子から教えてもらっちゃった。
 私が彼の重荷になっても、助けになれなくても、その橋渡し役にはなれる。私じゃなくてもいい。彼が救われるなら、それで。
 いつかの、ギアである私を見逃してくれた彼を思い出す。彼ならばきっと、カイさんのことを。
 空いた方の手を胸の前で握り締める。
 絶対に。絶対に彼の心は私が守る。



 お皿に乗ったお菓子を、ラムレザルさんは不思議そうに観察している。
 長方形の形をした綺麗に焼けた黄金色のそれを摘まむと、恐る恐る一口かじる。深く、味わうように目を瞑ってゆっくりと咀嚼する彼女は、飲み込むと同時に手に持つ残りのお菓子をじっと見つめた。美味しい。一言、でもラムレザルさんらしい感想で、私は嬉しくなる。
 本当に美味しいです! さすがディズィーさん…はっ、いけない。ほっぺが落ちちゃう!? 続いてラムレザルさんの妹さんであるエルフェルトさんがお菓子を持っていない手で頬を抑えた。二人とも、ありがとう。私は笑ってお礼を言う。すると二人の隣に座っていたシンが、当たり前だろ。なんたって母さんが作ったんだからな。と自慢げにお菓子を口の中に放り込んだ。お父さんもどうですか。三人の後ろで腕を組んで壁に体を預けている、赤色が特徴的な彼にも声を掛ける。お父さんはこちらにちらりと目をやると、いらん、と一言返した。なんだよオヤジ! 後悔してもしらねぇからな! そうですよ! こんなにとっても美味しいのに。ねー。とシンとエルフェルトさんが顔を見合わせる。お父さんは難しい顔のままだったけれど、そんな二人のことを邪険に思っている様子はない。微笑ましい光景に、私は思わずくすりと笑ってしまった。
 お茶の時間。今日はお天気が良くて、みんなでお布団を干したりお庭のお掃除をしたり、いつも出来るわけではない家事を積極的に行っていた。三人とも良い子でよく動いてくれるから私はすぐにやることがなくなってしまって。やることを見付けてもすぐにシンが、オレがやるから、ってお手伝いしてくれたりして、そんな三人の為にお菓子を焼いた。休憩と称してのお茶の時間だったけれど、三人がよく働いてくれたお陰でもう全部終わっちゃったみたい。みんな休憩にしましょう、と私が声を掛けるのと、母さん全部終わったぜー! とシンが戻ってくるのはほぼ同時だった。お父さんはというとカイさんに用があったみたいで、でもカイさんは今忙しくてお家にいないから、どうせだし一緒に待ちましょうよ、と三人に迫られて仕方なくここにいてくれるようだった。はじめは凄く嫌そうだったけれどなんだかんだ一緒にいてくれるから、やっぱりお父さんは優しい。
 貴方はどうやってこの技術を身に付けたの? ラムレザルさんが首を傾げる。あっ、これはね。そう言い掛けたところで、カイから教えてもらったんだろ、とお父さんが答えてくれた。あいつお菓子作れんの!? シンは飛び上がらんばかりに驚いた。ええ。カイさんはお料理もお菓子作りもとっても上手なのよ。はじめの頃、よく教えてもらってて。ままま待ってください! もしかして、もしかしてディズィーさんとカイさんの出会い話!? 身を乗り出すエルフェルトさんに、そうなるのかしら…? と私は少し自信を持てずに答えた。出会い、というともう少し前置きが長くなるけれど、出会ってから少ししてからの話だし、間違ってはいない、よね…? 頭の中で考えを巡らせる私を余所に、エルフェルトさんは目を輝かせて、素敵! と満面の笑みを浮かべた。隣にいたラムレザルさんが、エル落ち着いて、と肩を少し揺らしている。
 ふと不思議に思って、私はお父さんに目を向けた。それにしてもよく分かりましたね。散々毒味役させられたからな。そう肩をすくめた。彼女には美味しいものを食べてもらいたいんです、だとよ。勝負だのなんだの言わなくなったと思えばこれだ。憎らしそうに話して入るけど、でも満更でもなさそうにお父さんは話す。なんかすげー繋がってんな…。人の繋がりは不思議だね。シンとラムレザルさんは感心したように頷いた。
 そう、だったのね。私も驚いた。特に考えたこともなかったけれど、カイさんならお菓子作りなんて最初から出来ていたものばかりだと思っていたから。けれど違う。カイさんも私と同じ。最初は出来なかったけど練習して出来るようになって、私と同じで、誰かに食べてもらいたいって思ったから。私はカイさんに、それにジェリーフィッシュのみんなに食べてもらいたくて。カイさんは、私の為にって。そのことがとても嬉しくて、心の中に暖かいものが広がっていくのを感じる。
 私、ディズィーさんにお菓子作りを教わりたいです! エルフェルトさんがぴんと手を上げた。もっとみなさんのお役に立ちたいし、それに、私もみんなに食べてもらいたい。ね、ラム! うん、私も…。おっ、じゃあオレも手伝うぜ! テメェは味見役にしかなんねぇだろうが。味見役をなめんなよ! オレはうまいもんしか受け付けないエキセントリックな舌の持ち主だからな。つまりオレが食うもんはうまいものとしか保証されねぇ! それは味見役としてどうかと思う…。
 みんなが楽しそうに笑ってる。そこにあるのはありふれた、でも私にとってかけがえのない幸せで。私は涙が出そうになる。
 今まで色んなことがあった。辛いことや悲しいこともたくさんあった。もしかしたら嬉しかったことや楽しかったことよりもたくさんの困難が立ちはだかってきたかもしれない。それでも私は、私達は、こんなにも幸せな時間に立ち会えてる。家族も増えて、大好きな人の傍にいられて、まだ残っている問題もあるけれど、それなりに平穏な日々を迎えられている。私の世界は、希望で満ち溢れている。幸せだ。幸せだけれど、カイさん。貴方は今なにを見ているの? なにを見据えているの? 優しい彼の瞳が、時々遠くを見ては曇ることに私は気付いていた。カイさんが先の見えない未来を見つめて不安そうにしている。
 カイさん。私は、貴方が…。


 意識が覚める。目をゆっくりと開く。
 暗い。まだ夜のようだった。私の目が真っ先にある人物を捉えた。普段一つに結わえられている長い髪はおろされていて、窓から差し込む月の光も相まって、きらきらしてとても綺麗だった。
「カイさん?」
 私が声を掛けると、私のすぐ隣で腰掛けている彼、カイさんが、はっとしたようにこちらを見た。綺麗な髪がさらさらと宙を舞って、つい見とれてしまいそうになる。
「ディズィー…。すみません。起こしてしまいましたか?」
「いえ、気にしないでください。ただ、夢を見てたんです」
「夢?」
「はい。とても、とても怖かったけど、けれど凄く幸せな夢」
 カイさん、大好きです。
 カイさんは、優しく微笑んだ。慈しむような、全てを愛で満たしてくれるような柔らかい笑みで。私もですよ。その一言で、私はまた、幸せだなぁ、なんて思ってしまう。
「カイさん」
「なんでしょう」
「よかったら私が眠るまで、手を繋いでいてもらえませんか?」
 おずおずと手を差し出す。カイさんは、喜んで、と私の手を優しく、ぎゅうっと握ってくれた。
「ずっと繋いでいます。ずっと…」
 カイさんは今にも消えてしまいそうな声でぽつりと、一人言のように呟いた。
 カイさんの、細くて私に比べたら大きい手は、特別暖かいわけではないけれど、それでも私の身も心も包んでくれるようで。満たされていくのを感じる。
 この気持ちも、繋いでいてくれる手も、全て現実。夢じゃない。
 その事実が嬉しくて、安心した私は再び瞼を閉じた。

 きっとこれからも辛いことや悲しいことはたくさん起こると思う。そして私が感じる以上にそれらはカイさんを苦しめて、また、不安に明け暮れる日々も訪れる。そんな時がやって来る。
 でももう私は絶望なんてしない。未来を悲観したりしない。私はもう一人じゃないから。守るべき人がいて、守るべき場所があるから。
 今抱えているカイさんの不安も、それに押し潰されてしまわないよう、これからも彼の心を守ってみせる。彼の椅子を守り続けてみせる。
 これは私の、守るための戦い。
 私達の向かう先が、どうか幸せな未来であり続けますように。



2019/08/15



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