カーテンの隙間から漏れる陽の光に起こされて、うっすらと瞼を開ければ、視界に映ったのは見慣れた自室の天井だった。

こんなによく眠れたのはいつぶりだっただろうか。

チフユとベランダで別れた後、布団に入ったオレは吸い込まれるように眠りに落ちた。
ホント、久しぶりに気持ちの良い目覚めだ。
熟睡出来たことにより頭は冴え、体の疲労感も全くない。つい最近の睡眠といえば眠りも浅く、寝汗もひどく掻いていたのに。まるで嘘のようだ。
質のいい睡眠が取れただけでこんなにも違うものかと驚きつつも、オレは上半身だけ起こして辺りを見渡した。部屋の明るさは、眠りにつく前よりも明るい。だとすると、今の時刻は正午過ぎといったぐらいだろうか。

さすがに腹が減ったな。

結局、何も食べられずにいたオレの腹は任務から帰って来てからずっと空腹のままだった。何も入っていない空っぽの胃がキリキリと痛む。
そろそろ限界だ。オレは空腹を満たす為に買い出しに行こうと身支度を整えて、部屋を出た。


今日の天気も昨日と同様、突き抜けるような晴れた空だった。大きく深呼吸をして、両手を挙げながらぐっと伸びをすると、いつもよりシャンと背筋が伸びた気がした。

商店街は平日の昼間もあってか、人通りは少なかった。適当に見つけた店に入ると、迷うことなく食料品が並ぶ棚へと向かった。一通り品を見渡して、これから食べる物の他に保存が効くレトルトパウチや飲料水を手に取るとレジへと向かった。客も少なかったので会計も早く済み、早々と店を出ることができた。
早く帰って腹を満たそう。そう思い、足早に家路を辿った。



今日は非番だった。こんなに天気も良いし、溜まっていた服の洗濯でもしようかな。そういえば掃除もしなくちゃな。これからの予定を頭に浮かべると、意外にもやることが多くて思わず溜め息を吐いた。

「おう、カカシではないか」

団子屋の前に差し掛かった時、ふとオレを呼び止める声が聞こえた。
低く重く、嗄れた声。その声を聞くなり心臓が跳ね上がると、急いで団子屋に顔を向けた。

「三代目、」

オレの視線の先には緩やかに笑みを溢しながら店で団子を頬張る三代目の姿があった。
なぜ、三代目がここに?疑問に思いつつも、咄嗟に腰を落として地面に膝をつけた。

「わしは今休憩中じゃ。構わんでいい」

三代目は頭を上げるよう、優しく制した。恐れ多いと思いながらもオレは徐々に視線を上げて三代目を見る。三代目は寛雅な笑みを浮かべて、オレを見ていた。

「三代目、何故ここに?」

ゆっくり立ち上がるオレに三代目は先ほどよりも目尻に皺をたっぷり刻みながら微笑んだ。

「たまにはここの団子を食べてみたくなってのう」

そう仰った三代目の前には2、3本、団子を食べた後の串が乗った皿が置いてあった。
日々、里のために神経を張り詰め、多忙な毎日を送る三代目にも時には息抜きが必要だ。オレは、三代目が団子屋でくつろぐ姿を見て内心ほっとした。少しでも心休める時間が三代目にあって良かったと思ったからだ。

「カカシも一緒にどうじゃ?」
「いや、オレは…」

突然の三代目の誘いにオレは否定の言葉を述べようと口を開く。しかし、三代目は射るような視線をオレに向けた。

「ほう。わしみたいな年寄りが相手じゃ嫌かの?」

三代目の口調は至って穏やかだ。だが全てを見透かすような鋭い視線は変わらない。
…よく考えれば、里長の誘いを断るなんて無礼な行為だ。オレはぎゅっと手に持つ袋を握り締めて「では、少しだけ」と言うと、三代目が座る席まで歩み寄った。

「それでいいのじゃ」

三代目は満足気に笑うと、オレを向かいの席に座るように促した。三代目の向かいの席なんてとてもじゃないが、恐れ多い。オレは今度こそ「それはできません」と強く否定した。それでも三代目は気にする素振りを見せずに「構わない」と言い、指定した席に座るようオレを勧めた。
これ以上断るのも失礼だと判断したオレは、戸惑いつつも三代目の向かいの席にゆっくりと腰を落とした。

「お前もどうかの、団子」
「はあ…」

三代目はオレの返事を聞くなり店員を呼ぶと、団子を一人前分注文した。…空腹時に甘い物、か。オレは肩を落として、座る際に隣の椅子に置いた袋を一瞥した。

「のう、カカシ。お前、最近ちとばかり顔付きが穏やかになったんじゃないかの」
「オレがですが?」

三代目の思いもよらぬ言葉に驚いて、オレは素っ頓狂な声を上げた。目を見開くオレを見て、三代目は目を細めながら「そうじゃ」と、ゆっくり頷く。

「以前のお前はわしよりも怖い顔をしておったからの」

声を上げて笑う三代目にオレは一体どんな顔をすれば良いか分からず俯いた。オレの視界に映ったのはテーブルの縁にある小さな染み。返答に困ったオレはただひたすらその小さな汚れを見つめるしか出来なかった。

「…カカシ。そろそろ下忍担当に戻ってきてはどうじゃ?」

重みのある声が頭上から降り注ぎ、はっとして顔を上げた。そこには先程と打って変わった、真剣な表情の三代目の顔があった。

以前のオレだったら断っていただろうか。オレではない、相応しい人間が他にもいると。
だが今のオレには迷いなどなかった。あの日、初めて先生と呼ばれた喜びを知ってしまったから。そして、新しい朝を共に迎えたチフユが、前を向いて歩き出そうとしている。だったらオレもチフユには負けていられない。自分も歩き出さなくてはいけないと強く思った。

「はい」

はっきりと言い放ったオレの返答に、三代目は破顔の笑みを浮かべてゆっくりと頷いた。

「ほう。それは良かった。今は言えないが、ちょうどお前に担当してほしい下忍達がいるのじゃよ。なに、お前も気にいるじゃろう」

三代目は煙管を口に加えると、すぅ、と紫煙を吐き出した。灰色の煙がゆるりと弧を描きながら、天に舞い上がる。

「それが三代目の命であれば、御意」

頭を下げて、深くお辞儀をする。思えばいつだってオレは三代目に助けられてきた。ミナト先生が亡くなった時も、オレに寄り添うようにして、そっと手を差し伸ばしてくれた。時に厳しく、時に優しく、一張一弛にオレを接してくれた。これ程ばかりに火影に相応しいお方はいないだろう。

「期待しておるぞ」

威厳のある声で発っせられた三代目の言葉が、するりとオレの中に溶けていった。
頑張ろう。素直にそう思った。この里のために、オビト、リン、先生のために。この里の担い手になろう。強く、固く、心に決めた。

「ほれ、お前も食え。うまいぞ」

店員がコトンと置いた目の前の三色団子を三代目は食べるように勧めた。ここの団子屋はわしのお気に入りの店なんじゃ。一言添えながら、声高らかに笑う三代目はどこか楽しそうだ。
三代目がここまで仰るのだから、甘い物が苦手だとか我が儘を言っていられない。オレは意を決して、「いただきます」と言うと、そっと串を持ち、団子を口に運んだ。
もち粉を練って作られた弾力のある塊を咀嚼して、ぐっと飲み込む。口内に広がるのはやはり甘ったるい味で。オレは眉間に皺が寄らぬよう、全神経を額に集中させた。

「…美味しいです」

ぽつりと呟くように言ったオレの言葉に三代目は満足気に笑いながら頷いた。

「そうじゃろ。美味いだろう」

三代目の吐いた紫煙はたちまち天高く、優雅に舞い上がった。オレは煙の果てを見つめながら、苦手な後味を消すように湯呑みに淹れてある茶を飲み込んだ。
三代目は穏やかに目を細めながらオレの背中越しに見える、人々が行き交う里の景色を眺めている。
その瞳の奥には到底オレには計り知れない、火影という役儀からくる大変な気苦労もあるのだろう。悲しげな、でも優しく里を見守る三代目の顔を見て、突かれたように胸が痛くなった。
オレは胸に広がる感情を消し去ろうと、団子ももう一口頬張った。やはり変わらず苦手な味だったが、三代目とこうして茶を楽しむ気持ちの方が勝っていたので、目の前の団子もそれほど嫌だとは思わなかった。
オレは振り向いて、三代目のように外の景色を眺めた。清々しく晴れ渡る空。人々の楽しげな会話。子供達が走り去ってゆく忙しい足音。

この美しい里は今日も火影様のお陰で平和に過ごすことができていた。


***


『コホン、コホンッ』

次の日の昼過ぎ。午後から任務があったオレは準備をしていると、隣の部屋から咳き込む声が聞こえてきた。

…チフユ、風邪でも引いたのか?

頭に浮かんだのは、薄い寝巻きのままベランダに出てきたチフユの姿。…毛布を使っても完全に防寒対策にはなってはいなかったか。いや、そもそもあんな薄い格好で寒空の下に出るから体調を崩すのだ。子供じゃないんだし、自分の体調管理ぐらいちゃんとしなさいよ。
心の中で悪態を吐きながらも、何となくチフユのことが気掛かりだったオレは、呆れつつもチフユの部屋と隣接する壁まで歩み寄った。

一人暮らしで体調を崩すとは大変なものだ。自分にも何度か経験があるが、食事もままならない体でただひたすら耐えるのは辛いものがある。…仕方ない。
オレは壁の前に立ちながらぎゅっと軽く拳を作り、壁にノックをした。コンコンと軽快な音が部屋に響き渡る。手を下ろすと、オレは黙ってチフユからの返答を待った。

「…待ってて、今ベランダに出るから」

聞こえてきた声はあまりにも嗄れた声だった。驚いたオレは間髪入れずに声の理由を訊ねた。チフユは話すのが余程辛いのか「風邪引いたの」と、弱々しい声で答えた。

「だから言ったでしょ。あんな格好で外に出たから」

溜息と共にチフユを咎める言葉を吐くが、これ以上厳しい言葉を掛けたら流石に病人に対して酷なものかと思い、続く言葉はぐっと飲み込んだ。
チフユからの返事は聞こえない。寝てしまったのだろうか。それとも口うるさいオレを疎ましく思い、無視しているのか。どちらにせよ、チフユを放っとくわけにはいかない。
オレは壁から身を引いてキッチンに向かうと、調理台の上に置かれた、昨日購入した粥のレトルトパウチと常備してある栄養ドリンク、そしてリビングの引き出しに入れてある市販の風邪薬を手に取った。
まあ、これだけ持っていけば充分でしょ。手にした物を暫し見つめたあと、それらを袋に入れて、オレは玄関に向かった。

ドアを開けて外に出ると、冷たい外気がオレの肌に触れた。寒さを堪えるように首を竦めながらチフユの部屋まで歩いて足をピタリと止める。冷えた指先でインターフォンのボタンを軽く押すと、呼び鈴の音がチフユの部屋に鳴り響いた。
果たして、チフユは出てくるだろうか。自室と同じ形と色をしたドアを見つめながらチフユが扉を開くまでじっと待つ。しかし幾ら待ってもチフユが扉を開く様子はない。というか、足音さえ聞こえない。
いよいよチフユが心配になり、オレはもう一度インターファンを鳴らしたあと、念のために軽く二回、ノックした。すると、ようやくチフユの部屋の廊下から玄関に向かってくる忙しい足音が聞こえた。

良かった。気付いたみたいだ。

オレは一歩下がって扉から退くと、ちょうどタイミングよくチフユが扉を開いた。チフユはオレを見るなり「あ、」と小さく驚いた声を上げた。

「やっぱりカカシだ。どうしたの?」

やっぱりってどういう意味よ。訊ねようとしたが、チフユの今の姿を見て、思わず別の言葉が口から漏れた。

「またそんな格好で出てきて」

チフユの姿は薄手のシャツにスカート。おまけに足元は裸足で、とてもじゃないが、病人に相応しくない姿だった。なんなの?チフユは風邪を悪化させたいわけ?オレは呆れて言葉を無くした。
チフユはオレの言いたいことが理解できたのか、罰の悪そうな顔を浮かべると、俯いてしまった。不意に窺えたチフユの顔は、熱があるせいか真っ赤だった。オレはとりあえず熱を測ろうとチフユの目線に合わせて腰を折り、屈んだ。そっと自身の手のひらをチフユの額に置くと、チフユの額は明らかにオレの手の温度よりも高かった。

「熱、かなりあるよ」

と、チフユに言えば、チフユの黒目とオレの目がカチリと合った。チフユとの距離が近いことに今さらになって気付き、ドキリと心臓が波打つ。自らチフユとの距離を詰めていた自分に羞恥が込み上げて、慌ててチフユの額から手を離した。
チフユはどう思っただろうか。恐る恐るチフユの顔を見れば、チフユは顔だけではなく耳までも紅潮していた。その様子だとかなり熱があるのだろう。
午後からは任務が入っていたので、本当は食料と薬をチフユに渡すだけのつもりだったが、チフユの様子を見る限り帰るわけにもいかない。

「ちょっとお邪魔するよ」
「…え、ちょっと」

部屋に侵入するオレを阻止しようと、チフユは咄嗟にドアを閉めようとした。しかしオレはそれをするりと交わし、チフユの後ろに立ってみせた。振り向いてオレを見るチフユの驚いた顔があまりにもおかしくて、つい笑ってしまう。

「忍って言ったでしょ、オレ」
「…そうだったね」

観念したように小さく呟いたチフユの声は変わらず掠れていた。オレはチフユに寝室で寝るように促すと、サンダルを脱いで部屋に上がった。
寝室の場所は教えて貰わなくても分かっていた。オレと同じ間取りだったし、何より一度、チフユの部屋に上がった事があったから。相変わらず自室とは正反対な、女性らしい色合いの家具や雑貨などを見て、住む者が違うだけで部屋の雰囲気がこうも変わるものかと感心した。

「はい、これ。手土産。って言っても、家のものを持ってきただけなんだけどね」

寝室に着いてから食料と風邪薬が入っている袋をチフユに渡すと、チフユは袋の中身を見て、嬉しそうに笑った。チフユがオレに笑顔を見せるなんて滅多にない。
なんとなく居心地が悪くなったオレは気休めにチフユから部屋の壁へと視線を移した。白い壁には洒落た絵が描かれたカレンダーが掛けてあった。

「ありがとう。助かるよ」
「まあ、オレ、料理出来ないし、これぐらいしか出来ないけど。それに、チフユの事だから料理しなさそうと思って」

自分でも分かるくらいの憎まれ口を叩けば、チフユはみるみる内に顔が曇っていった。せっかくオレに笑顔を向けていたのに。浅はかで稚拙なこの舌の根を恨んでも、もう遅かった。

「失礼ね。カカシが血まみれで倒れてた時、お粥作ってあげたじゃない」

案の定、チフユはオレに反論の言葉を述べた。オレは平静を装いながら当たり障りのない言葉を必死に考える。

「…そうだったね。だからそのお礼をしに来たの」

チフユは一瞬だけ驚いた顔をすると、すぐに納得したのか、合わさっていたオレとの視線を逸らした。そしてベッドに横になると、ふっと目を閉じた。
え、もしかしてこのまま寝るの?寝巻きにも着替えず、仕事着のままでベッドで寝ようとするチフユにオレは驚いた。

…そんな格好じゃ、寝づらいでしょーよ。

目を閉じて手探りで着替えさせればチフユの裸を見ないで済むだろう。そう思い立ったオレは軽く目を閉じてチフユのシャツのボタンに手を掛けた。
ポツリ、ポツリ。一つずつボタンを外していくと、必然的にオレの手がチフユの薄い皮膚に触れる。変わらず目を閉じながら手の感覚を頼りにオレは動作を続けた。
今触れている箇所はチフユの首筋だろうか。チフユの温かい肌に触れていると、この部屋から男を追いやった日の事を思い出した。一度だけ目にしたチフユの白い首筋。そこには男につけられたキスマークがついていた。思い返すだけであの日と同様、腸が煮えくり返りそうになる。
ーーまさか、もうキスマークなんてないよね。オレは確認しようと、目を開けてチフユの首元に視線を向けた。

「え、カカシ?ちょっと何してんの」

ぱちっと開いたチフユの瞳が俺の目を捉えた。どことなくチフユの声には焦りが混じっている。え、寝てたんじゃないの?驚きつつも、「寝巻きに着替えさせようと思って」と、チフユの質問に素直に答えた。

「信じられない!」

チフユはオレが言った言葉を聞くなり目を見開くと驚愕の声を上げた。
チフユが何をそんなに焦っているのか意味が分からない。そもそもオレは、シャツが肌蹴て鎖骨まで露わになっていたチフユの姿を知っている。何を今さら恥じることがあるのだろうか。

「大丈夫っ自分で着替えられるから!とりあえず出て行って!」

チフユは声を荒げてそう言い放つと、俺の背を押した。…どうやらオレを部屋から追い出そうとするつもりだ。オレはサイドテーブルに置いた食料と薬の入った袋を手に取ると、部屋を出た。扉越しにいるチフユは未だに信じられないだの、考えられないだの、ぶつぶつと文句を言っている。

オレはとりあえず粥を温めに行こうとキッチンへと向かった。ガスコンロの脇に置いてある小鍋を見つけて、レトルト粥を湯煎しようと鍋に水を注ぎ入れてから火にかける。ぐつぐつと煮えたぎる音を聞きながら、オレはキッチンから窺えたリビングへと目をやった。

日当たりの良いチフユの部屋は冬とは言えど、日差しが入り込んで暖かい。オレと同じ間取りなのにどうしてこうも違うのか。しばらく考えてみたが、結局答えは出ないまま粥が温まってしまったので火を止めた。
食器棚にある皿を適当に選んで調理台の上に置く。レトルトパウチの封を開け、粥を皿に流し入れた。ふわっと、粥独特の匂いと共に湯気が立ち上る。おぼんの上に蓮華と粥が入った皿を置き、忘れないようにと風邪薬と水を入れたコップも置いた。オレはおぼんを両手で持ち、チフユのいる寝室まで向かった。

チフユはまだ怒っているだろうか?

ノックをしたくても両手を塞がれているオレは控えめにチフユの名を呼んだ。恐らくチフユが怒っている理由はオレが勝手に服を脱がせようとしたからだろう。
友人とは言え、オレのしたことは浅はかで軽率な行為だった。チフユが怒るのも当然だろう。時間が経つにつれ、自分のした事の重大さが理解できたオレはドア越しにいるチフユに「ごめんね」と謝った。

「大丈夫。私こそごめん。…びっくりしちゃって。入っても大丈夫だよ」

チフユは未だ動揺を隠せないのか、か細い声で言い放った。部屋に入る許可が下りたオレは、落とさぬようおぼんを体に引き寄せて片手でドアノブを回した。ゆっくりドアを開いて部屋を見渡せば、寝巻きに着替えてベッドに横になるチフユの姿があった。
チフユはオレを一瞬だけ見ると、気まずい顔を浮かべてオレとの視線を逸らした。チフユの顔は変わらず赤いままだ。いや、先程よりも赤みを帯びているのは気のせいだろうか。オレはパタンとドアを閉めて、「熱は?」とチフユに訊ねた。

「…分からない。朝に測ったきりで」
「じゃあ、測った方がいいよ」

チフユはオレの言葉に頷いて、枕元に置いてあった体温計を脇に挟んだ。しばらくしてから体温計の電子音が鳴り響き、チフユは体温計を取り出して確認すると、肩を落として項垂れた。咄嗟にチフユが手に持った体温計を覗き込む。体温計に浮かび上がった数字は、自分が予想していたものよりも遥かに超えていた。

「39.0度…」

オレの呟きを聞いたチフユはますます落ち込む素振りを見せる。

「とりあえず熱が下がるまで寝ていた方がいい。…はい、これ」

言って、チフユに粥と風邪薬が乗ったおぼんを渡した。しかしチフユはそれを見るなり険しい表情を浮かべた。

「食欲ないのにな…」
「それでも食べるの。空腹時に薬を飲むのは良くないでしょ」

チフユの小さな独り言を聞き漏らさなかったオレは、溜め息混じりにチフユを咎めた。

「…そうだね。ありがとう」

礼を口にしながらも、チフユは変わらず気乗りしない表情で上半身を起こすと、おぼんを受け取った。しかしチフユは粥を一瞥しただけで、すぐにベッド脇にあるサイドテーブルへ置いた。再びベッドに横になったチフユの瞼は閉じられていて、今にも眠りにつくようだった。
…嘘でしょ。これだけ言ったのに食べない気なの?チフユの行動に驚きつつもオレは、チフユが目を開けるまで執拗に視線を送った。流石にこれだけ見つめていれば一般人のチフユでも気付くでしょ。案の定、チフユはぱちっと目を開けて、見下ろすオレの顔を見た。

「…えっと、何?」
「チフユがそれ食べて薬を飲むまで見届けようと思って」
「…あ、そう」

オレの視線から逃げるようにチフユは自分の手へと視線を落とした。それでもオレは『ほら、早く』と、鋭い目をチフユに向ける。
ようやく観念したのか、チフユは上半身を起こしておぼんから粥の入った皿を手に持つと蓮華で粥を掬った。チフユは三口まで粥を口に運ぶと、コトンとまだ半分以上も粥が残っている皿をおぼんの上に置いた。それを見たオレは厳しい口調でチフユを責め立てる。

「それだけじゃ、食べたってことにならないでしょうよ」

チフユは、しかめっ面をしながらオレを睨みつけた。何か言いたげに口を開くが、早く寝たい気持ちの方が大きいのだろう、皿を持つと、掻き込むようにして粥を胃に流し入れた。
最後に風邪薬を口に含めて一気に水を飲み干すと、打ち付けるようにコップをおぼんの上に乗せた。
これでいいでしょ。先ほどよりも射るような目でオレを見るチフユは涙目だった。初めて目にしたチフユの表情に楽しくなったオレは、口布の下で笑ってしまった。

「じゃ、おやすみ」

その言葉を合図にチフユは今度こそ、ベッドに沈んだ。重たげだった瞼はようやく閉じられ、規則正しい呼吸をし始める。オレはチフユが寝たのを確認すると、ほっと安堵の息を吐いた。風邪薬も飲んだことだし、一晩寝ていれば回復するだろう。

…さて、オレも任務に行くとするか。

もう一度チフユの顔を覗き込むと、チフユの熱っぽい顔がオレの目を奪った。肌の白いチフユの頬が今日は熱があるせいか、淡紅色に染まっている。汗ばんで濡れた前髪を手で払ってやると、いつもと違う色香を纏ったチフユに目が離せなくなった。
もっと間近で見ようとぐっと距離を詰める。チフユの薄く開いた唇からは温かい吐息が漏れて、オレの肌を撫で付けた。額に置いていた手をするりと下ろして頬を撫でる。擽ったいのかチフユは小さく声を漏らして身動いだ。それを見るなり、守ってやりたいとオレの中の庇護欲が芽生える。

オレはすっと口布を下げて、吸い込まれるように顔を近付けた。晒された頬にチフユの吐息が掛かる。唇と唇が触れ合いそうになるギリギリの距離で、オレはようやく理性を取り戻した。

オレは、何をしようとしてるのか?

今なら間に合う。顔を離せばいい。しかし、どうしてもチフユから離れられない。頭の中で葛藤を繰り返すが、焦燥に駆られて思考が上手く回らない。その間もチフユの寝息がオレを誘う。それだけではない。長い睫毛。白い肌。薄い桃色の唇。ーー全て、自分のものにしたい。

気付けば、オレは自身の唇とチフユの唇とを重ね合わせていた。力の抜けたチフユの唇が余計に柔らかさを引き立たせる。
距離が完全に無くなったことで、チフユから放たれる甘い香りが一層、濃くなった。
軽く触れ合うようなキスだけでは物足りなく、もっと深く交わしたいと欲が溢れ出る。
しかしそれを阻止しようと、僅かに残っていた理性がオレを踏み留まらせた。
目を開けてそっと唇を離すと、先程まで感じていた唇の熱があっけなく消えて、何とも言えない歯痒さが胸に込み上げた。

オレはなんてことをしたんだ。

見下ろした先には先程と何も変わらず眠っているチフユの顔がある。
ごめん、チフユ。心の中でそう呟けば、自分がチフユにしたことの重大さに気が付いて、嫌気が差した。
ふと指先で自身の唇に触れてみると、指先から伝わったのは、先程の唇の熱とは違った自分の冷えた指先。オレは何故こんなことをしたのか。この気持ちは一体何なのか。自問自答を繰り返しても答えなど出てこない。

しかし、たった一つだけ分かったのはチフユを自分のものにしたいと思ったことだ。他の男に指一本触れて欲しくない。チフユを独占したい、と。

それはつまり、オレはチフユのことが、

ーー自分の気持ちを知るのが恐ろしい。オレは続く言葉を隠すように口布を上げると、急いで部屋を出た。冷たいサンダルを履いて玄関のドアノブに手を伸ばそうとするが、硬直したように手が動かない。
これからどんな顔をしてチフユに会えばいいのだろう。力が抜けて、だらしなく垂れ下がった手を見れば、この手でもう一度彼女に触れたい、抱き締めたい、きりのない貪欲な気持ちばかりが胸に押し寄せた。

この感情を認めてしまえば、取り返しのつかないことになるだろう。しかし自制心を必死になって働かせてもチフユに対する気持ちは収まらない。オレの頭の中に浮かぶのはチフユの笑った顔。怒った顔。泣いた顔。それ以上にもっと、チフユの全てを知りたい、そう思った。
オレにとってチフユは、かけがえのない存在。それは、友人としてではない。
では、なんなのか。…ホントは考えずとも、すでに答えは出ている。

オレはチフユが好きなんだ、と。

不器用ではなく、ただ臆病なだけ。大切だと気付いた時にはいつも遅い。触れようと伸ばした手の先からあっけなく消え去ってゆく。誰かを好きになって、大切な人をこれ以上失うのは嫌だった。誰もオレの前からいなくならないで欲しかった。

オレはなんとか力を入れた手でドアノブに手を掛けた。無機質で冷たい金属がオレの手の熱を容易く奪ってゆく。

胸に宿ってしまった、このどうしようもない気持ちは、一生溶けることのない氷で閉じてしまおう。…大丈夫。時が経てば、火照った感情も消え失せるだろう。

ドアノブを持つ手に力を入れて、オレは扉を開いた。アパートの廊下と屋根の間から窺えた景色は、厳しい寒さにより葉が枯れて、寂しげな色をした木々達が、曇り空の下でざわつくように揺れていた。


まとわりつく枯茶





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