「こんばんは」

とある晩、オレとチフユはいつものようにベランダで会っていた。チフユは軽い挨拶と共にベランダの柵から身を乗り出すと、壁越しにいるオレの顔をひょっこりと覗き込んだ。顔との距離が近いチフユから逃げるように、オレは一歩下がってチフユに問い掛けた。

「…風邪はもう大丈夫なの?」
「おかげさまで」

チフユの顔色は暗闇でよく見えないが、声を聞く限り、元気そうだった。

チフユと会うのはキスの一件以来だった。実のところ、オレはどんな顔をしてチフユに会えばいいか分からなかった。もしかしたら、チフユはオレがキスをしたことを知っているかもしれない。だとしたら、何て言い訳をしたらいいのだろうか。いや、そもそもチフユはオレのことをどう思っているのだろうか。考えれば考えるほど、悩みから抜け出せなくなり、堂々巡りになるだけだった。

ふとチフユの横顔を盗み見ると、チフユは真っ直ぐ前を向きながらあちこちに灯る住宅街の明かりを見つめていた。
チフユはオレに会っても嫌な顔をしなければ、怒る様子もない。至って普通の、いつも通りのチフユだ。…だとすると、気付かれていない?
オレはほっと息を吐きながら手摺りに肘を置いて、柵にもたれかかった。ひやりと金属部分の冷たさが布越しに伝わる。オレはすっと前を向いて、チフユと同じ景色を眺めた。

宵の空も、いつものように月が天高くから見守るように輝いていた。辺り一面に散らばる、震えるように揺れ光る無数の星は、今にも流れ落ちてゆきそうだった。

いつもの景色にいつもの会話。いつものチフユにいつものオレ。きっと、チフユにとってのこの時間は、何てことのない、いつものひと時なのだろう。

オレはやはり、チフユのことが好きだ。だけどこの思いは一生彼女に届くことはない。オレは、チフユに対する想いを胸の内にだけ秘めることにした。そう決意したはずなのに、胸を強く掴まれたように苦しいのは何故だろう。

このどうしようもない気持ちを恋と呼ぶなら、オレはやはりチフユに恋をしているんだと思う。

ふと、オレが見つめていた星の一粒が瞬く間に流れ落ちた。滅多に見ることのない光景に驚いて、オレは思わず「あ、」と心の中で呟いた。
彼女も見ていただろうか。咄嗟にチフユの横顔を見てみるが、チフユは先程と変わらず、住宅街に目を向けていた。何も反応がないということは、チフユはきっと見ていなかっただろう。なんだ、チフユと一緒に見たかったのにな。少しばかりがっかりしながら、しばらく彼女の横顔を見つめていた。

チフユの吐く白い息が、先程の流れ星のように一瞬にして夜空に溶け込んで消えてゆく。

一度好きと認めてしまうと、とても厄介なものだ。自分でも知らなかった感情が湧き出てきて気持ちを抑えようとしても、コントロールが出来なくなる。例えばキスをした、あの時のように。
チフユを見て思い出すのはやはり、チフユにキスマークをつけたあの男だった。あの男は、チフユとまだ繋がりがあるのだろうか、もしかして今でも体を重ねているのだろうか、そんな雑念ばかりが頭を巡ってしまう。
オレは現金な奴だ。好きになる前は気にも留めていなかったのに、今では気になって仕方ない。

「…そういえばチフユ、あの男とは大丈夫なの?」

出来るだけ平然を装い、チフユに問い掛けるとチフユはオレの声に「え?」と、反応した。

「あの男って?」

せっかく意を決して訊ねたのに質問で返されてしまった。オレとチフユが共通して知っている男といえば、アスマとアイツぐらいしかいないでしょ。察しが悪いチフユに勝手に苛立ったオレは、わざと聞こえるように盛大に溜め息を吐いた。

「だから、この前チフユの部屋から出てきた男」

少し刺のある言い方をすればチフユはようやく理解できたのか、「ああ、同僚のことね」と小さく呟いた。しばらくチフユの返答を待っていると、チフユはベランダを仕切る壁の反対側からひょい、と顔を覗かせた。
彼女の細い髪が風に吹かれて靡く。チフユはどことなく楽しげに笑っていた。

「え、もしかしてカカシ、気になるの?」

軽く声を上げながら笑うチフユに今度こそはっきりと苛立ちを覚えた。こっちの気も知らないで、気楽でいいよね。チフユは。感情に惑わされず、こうして普通にオレと話せるのだから。オレなんてチフユの表情ひとつひとつに一喜一憂してしまうのに。
未だ笑い続けているチフユに怒りが込み上げたオレはチフユをぎっと睨み付けた。するとチフユはオレの鋭い目に気が付いたのか、慌てて「ごめん、ごめん。冗談だよ」と謝った。

チフユはすっと大きく息を吸うと、肺に溜めた息を吐いた。変わらず夜気は凍てつくほど冷たい。

「カカシのおかげで同僚とは何もなく過ごせているよ。本当にありがとうね」

チフユの顔は嬉しそうだった。顔を綻ばせながら微笑むチフユの横顔を見ると、もっと好きになってしまいそうで辛い。だからオレは「そう、良かったね」そう言って、小さく頷いた。

チフユは身を乗り出していた体を戻すと、トン、と小さな音を立てて踵を地面に着けた。

「私ね、同僚とは体だけの関係だったの」

白い息と共に小さく吐かれた声は微かに震えていた。それは寒さのせいか、それとも男との関係を吐露するのが怖かったせいか。いずれにせよ、どちらでもいい。オレはチフユの顔を見た。チフユはただ真っ直ぐ夜の景色を見つめていた。しかしチフユの目の奥には星空でも住宅でもない、何か別のものが映っているような気がした。

「今思えば寂しさを埋めていただけみたい」

ふっ、とオレに笑い掛けるチフユはどことなく悲しげだった。月明かりに照らされたチフユの長い睫毛が頬を差して、余計に憂を帯びたように見える。オレは、チフユに何もしてやれない自分の無力さに辟易した。

「軽蔑した?」

か細い声でオレに問い掛けるチフユに「そんなわけないじゃない」とすかさず否定した。チフユが好きなオレがそんなことで軽蔑するわけがない。

「……今は?今はどうなの?」

問題は軽蔑だとかそんなのものではない。今がどうかだった。チフユに想いを伝えることができないのなら、せめて、オレに何か出来ることはないだろうか。そんな思いで、唇から漏れた言葉だった。

「今はカカシがいてくれるから寂しくないよ」

冬の空気と同じ、澄みとおったチフユの声を聞いて胸の鼓動が走った。どうしてチフユはそんなに真っ直ぐなのだろう。咄嗟にチフユの顔を見ると、チフユは手摺りに手を掛けながら夜空を仰いでいた。
その横顔から窺えた小さく薄い唇を見て、オレはその唇に口付けをしたのだと、あの日を思い出した。

「カカシは大切な友達で、隣人だから寂しくない」

夜空を眺めていたチフユは、ゆっくり視線を落としてオレを見た。朗らかに笑うチフユは、やっぱりいつもと変わらないチフユだった。

ああ、そっか。隣人、友達、ね。お前の目にはオレがそんな風に映ってるのね。
しかしオレが聞きたかった言葉はそれではなかった。では、オレはチフユに何を求めているのか。チフユに何を言って欲しいのか。考えれば考えるほど自分でも分からなくて、無性に腹が立った。

「そうだね」

気持ちを押し殺してオレは相槌を打った。『そうだね』の後に続く言葉が見つからない。

「どうしたの?」

チフユは急に黙り込んだオレを不審に思ったのか心配そうに問いかけた。それでもオレは答えられない。喉の奥に詰まらせている言葉を吐き出してしまえば、もう引き返せない、そう思ったからだ。

「カカシ、前にも言ったけど、何かあったらいつでも壁を叩いてね。」

チフユが明るい口調で話す。違う。オレが欲しいのはそんなことじゃない。ねぇ、チフユ、オレを好きって言ってよ。チフユから言ってくれれば、オレの中の何かが変わるかも知れない。オレの、凝り固まった思想が、解けるかも知れない。

そんなことを望んでしまうオレの愛は勝手。そして我儘だ。

「…それよりも、夜風に当たって平気なの?」

話題を変えようと、発した声は自分でもわかるくらい情けない声だった。けどチフユは気にする素振りを見せない。なぜならオレに気がないから。ただの隣人で、ただの友人だからオレの些細な変化なんて気にも留めない。

「もう元気になったし大丈夫だよ」

ほら、ね。チフユは何も変わらない。さっきのチフユのままだ。煙幕を張ったのは自分なのにいざ違う答えが返ってくると、どうしようもない気持ちが押し寄せて胸に詰まる。勝手に期待をして、勝手に落ち込む。そんな自分が嫌で仕方なかった。

「もう部屋に戻りなよ」
「来たばっかりなのに?」

チフユは驚いた声を上げる。けどオレはこれ以上、チフユと話す気にはなれなかった。

「いいから」

追い討ちを掛けるように言うとチフユは納得のいかない顔をしながらも「分かった」と、頷いた。

「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」

当たり前の挨拶を口にすれば、チフユも当たり前に返す。その当たり前を今は失いたくない。次もチフユに会えることが楽しみな自分がいるのなら、やはり気持ちを伝えるべきではない。そう思わせる瞬間だった。先ほどまでチフユに向けていた怒りの感情が、手に取るように薄れていくのが分かる。

「病み上がりなんだから気を付けなさいよ」
「はいはい」

オレの忠告を聞いたチフユはあからさまに嫌な顔を浮かべて眉間に皺を寄せた。だからオレもチフユを真似て同じくらい嫌な顔をチフユに向けた。

「じゃあまたね」

これ以上ここにいるとまたオレに小言を言われると思ったのか、チフユは小さく手を振るとオレに背中を向けた。オレはその背を見て、当たり前のように返した。

「じゃあまたね」と。


***


すさまじい大粒の雨が地面を叩きつけ、横殴りの雨で目も開けていられないような豪雨の日だった。

ザーザーとけたましい雨音が鼓膜の奥で鳴り響かせながら、鬱蒼と茂った森をなんとか抜けてゆく。雨で濡れたベストがさらに動きを鈍くさせた。
新しい下忍担当に就くまでの間、オレは三代目から別の任務を言い渡されていた。内容はツーマンセルで他国へ機密文書を運搬する重要な任務。難易度が高い任務だったが、ツーマンセルの相手が優れた忍であったことを幸いに、無事に遂行することができた。
しかしほっとしたのも束の間、里へと戻る途中に突然の豪雨に見舞われたのだった。殴りつけるような雨のなか、ただひたすら里を目指して森を駆け抜けていた。

「すごい雨だけど、大丈夫?」

凄まじい雨音に負けぬよう声を張り上げて、背後にいる仲間に問うた。

「…っ、ええ、なんとか」

必死に答える彼女の歪んだ顔を見れば、明らかに疲弊していると見て取れた。休憩しようにもこの豪雨では、休む場所もない。だったら我慢して走り続けるしかない。幸い、あともう少しで里まで辿り着く。走る速度を上げればあと一時間もかからないで帰路に就くだろう。

オレはもう一度振り返り、「もう少しスピード上げるけど大丈夫?」と、質問を投げた。
彼女もオレと同じ考えだったらしく、頷いて「ええ」と答えた。

今日のツーマンセルの相手はかつて、オレの頬を引っ叩き、自分を罵った女だった。正直に言えば、彼女と組むのはすごく嫌だった。しかし火影から組む相手を言い渡されたのなら、命令に背くことはできない。オレは黙って指示に従った。

彼女は優秀な上忍だった。プライドが高く自尊心が強いが、だからこそ任務中は私情を挟まない立派なくノ一だった。チフユと出会ってからなんとなく彼女と距離を置いていたが、その事を突き止められずに済んで良かったと心底思った。

無事に里に着き、びしょ濡れのまま不備のないよう報告書を書いて提出する。受け取った係はオレの姿を見るなり気の毒そうな顔を向けると、「お疲れ様でした」と声を掛けた。

報告書さえ提出すればあとは帰るだけだ。オレは彼女に「じゃ、お疲れ様」と声を掛けると背を向けた。ポタ、ポタ、と衣類に染みこんだ雨水が床に落ちて小さく音を立てる。冷たい雨に打たれ続けたせいか、体が冷えて風邪でも引きそうだ。一刻も早く家に帰って熱い風呂に浸かりたい。そんな思いで、この場から去ろうと足を踏み出した。

「ちょっと待って」

背後からオレを引き止める声がした。振り向けば、先ほどまで一緒にいたツーマンセルの相手、彼女が立っていた。

「なに?」

彼女も雨に濡れて、爪先から頭まで全身びしょ濡れだった。お前も早く帰って風呂にでも入った方がいい。そう口にすれば彼女は自分から声を掛けたのにも関わらず、俯いて黙り込んでしまった。

「どうしたの?」

逡巡した様子の彼女を見兼ねて、苛立った声で問い掛ければ、ようやく彼女は顔を上げた。不意に、彼女の長い髪から雫が垂れて、床を濡らした。

「私の家のお風呂壊れてるの。だから、カカシさんの家で借りてもいい?」

そう言って、オレのベストの裾を掴んだ。オレは咄嗟にその手を払い退けて振り払う。冗談じゃない。隣の部屋にはチフユがいる。女を部屋に連れているなんて、チフユには絶対に知られたくなかった。

「銭湯にでも行けばいいでしょ」

言うと、彼女は先程の態度とは打って変わって、目をキッと吊り上げるとオレを睨みつけた。

「けど私、カカシさんに話さなくちゃいけないことがあって」
「話?ここじゃダメなの?」

なかなか食い下がらない彼女に段々嫌気が差してきて、半ば投げやりに問うと、彼女は「大事なことなの」と、声を荒げた。まぁ、オレもチフユを好きと認めた限り、彼女との関係を終わらせないといけない。…これは良い機会かも知れない。

「…分かった。貸すから、そしたら帰ってね」

オレの返答を聞くなり彼女はパッと顔を輝かせて頷いた。そしてオレたちはアパートへと向かった。


***


「お風呂ありがとう」

約束通り彼女に風呂を貸して、バスタオルまで渡してやった。おまけに着替えがないというから自分の部屋着も貸した。彼女の濡れてしまった服も部屋に干してやったし、乾くまでの間、「寒い」と訴えるから温かいコーヒーまで淹れてやった。

だから、さっさと話をして、彼女には早く帰って欲しかった。

「…で?話ってなんなの」

わざと急かすような口調で問い掛ければ彼女はオレの目を見るなり「冷たいのね」と、自嘲気味に笑った。

「別に、いつもと同じだけど?」

彼女の馬鹿にしたような物言いに苛立ちを覚えたが、とにかく今は彼女にこの部屋から出て行って欲しい。オレは事を荒立てぬよう、なんとか気持ちを落ち着かせた。彼女は、口につけていたカップをテーブルの上に置くと、妖艶な笑みを浮かばせながらオレに近付き、ゆっくりとオレの首に腕を回した。

「話があるなんて嘘よ。こうでも言わない限り部屋に入れてくれないでしょう?」
「お前ねぇ…」

わざと猥がわしい声で耳元で囁く彼女にオレは溜め息を零した。

「単刀直入に言う。もうオレはお前とはこうして二人きりで会わない」

オレは回されていた腕を振り払い、彼女との距離を置いた。オレに向ける彼女の目は射るような鋭い視線だ。

「へぇ、ずいぶんと勝手ね」

明らかに彼女の声には怒気が入り混じっていた。

「悪いとは思ってる」

少なからず彼女を弄んでいた気持ちはあった。人恋しい気持ちを彼女の体を使って埋めていた事もあったし、オレは彼女を利用していた。

「すまない」

もう一度、頭を下げると彼女は冷たい目でオレを見下ろした。

「好きな人でもできたの?」

その問いに心臓が跳ね上がった。他人に自分の気持ちを知られたくなくて咄嗟に否定しようとしたが、それをしてしまったら、何も変わらない。オレはゆっくり頷いて、「そうだ」と、答えた。彼女のオレを見る目がますます刺すような目つきに変わってゆく。

「そう。またあなたのせいで、大切な人を失わなければいいわね」

頭上から降り注がれた言葉は一瞬にしてオレの心を凍てつかせた。高い断崖から突き落とされ、深い海に沈んで息が出来ずに溺れてゆくような。そんな、捉えようのない気持ちになった。

「とりあえず、今日は疲れたから泊まらせてもらうわね」

何も言えず黙り込んでしまったオレを横目に彼女は寝室に向かった。バタン、寝室の扉が閉まる音が耳に入る。足が地面に張り付いたように動けない。オレは、しばらくその場に立ち竦んだ。彼女が発した核心を突く言葉はオレの胸の内の深い場所へと落ちていった。

『またあなたのせいで、大切な人を失わなければいいわね』

言われなくても分かっていた。だからオレはチフユに想いを伝えないと決めたのだ。腹立たしい気持ちと行き場のない、複雑な思いが胸に止めどなく溢れていった。
ポタ、水気を帯びた髪の雫が肩に落ちた。濡れたベストにまた雨水が染み込んで浸食してゆく。冷たさが、体だけでなく心までも迫り上がってくる。オレはどうしようもない、やり切れない気持ちを部屋に残したまま風呂場に向かった。



明くる朝、目覚めたらオレはソファの上で寝ていた。なぜこんなところで?疑問を抱き記憶を蘇らせると昨日、彼女に風呂を貸し、さらには寝床まで貸したことを思い出した。
それにしても狭い場所で寝ていたせいか体が痛い。オレは被っていたブランケットを剥ぐと、上半身だけを起こして窓を眺めた。カーテンの隙間から窺えた今日の天気は昨日と打って変わって、晴天だった。しばらくぼうっと青い空を眺めていると、ふと、隣のベランダから聞き慣れた声で歌う鼻歌が聞こえた。

チフユだ。

その鼻歌が耳に入るなり昨日からオレの胸に募らせた、黒いわだかまりがとけてゆく。オレは目を閉じて、そっと自分に寄り添ってくれるような優しい歌声に耳を澄ました。

「鼻歌?」

背後でそう問い掛けたのは昨日、寝室に泊まらせた彼女だった。彼女が現れたと同時にコーヒーの香りが鼻につく。どうやらは彼女はオレに断りも入れずに勝手にコーヒーを淹れたらしい。昨日といい、図々しい彼女の行動を目にして朝から気が滅入った。

「隣のベランダから?」
「そ、お隣さん」

オレの返答を聞くと彼女は「へぇ」と呟いてテーブルにマグカップを置いた。その深緑色のマグカップはオレのものだった。恐らく彼女はオレの分のコーヒーも淹れたのだろう。

「やけに嬉しそうね」
「そう?気のせいじゃない」

なるべく表情を出さないように気を張っているつもりだったが、優秀なくノ一の彼女にはオレの些細は変化に勘付いたらしい。

彼女を見れば、オレとは別のカップに口をつけようとしていた瞬間だった。それは、オレがかつて、チフユに貸した紺色のマグカップだった。

咄嗟に彼女が手に持つマグカップを奪った。力強く強奪したものだからカップの中身が飛び散って、マグカップはゴロンと鈍い音を立てて床に転がった。黒い液体が茶色の木目のフローリングの上に、乱雑とした吹き絵のような染みが広がる。

「…っごめん、大丈夫だった?」

慌てて彼女に謝れば、彼女は驚いているのか黙り込んでいる。オレが見る限り、彼女にコーヒーは掛かっていなさそうだ。ほっと息を吐いて、オレは使い古したタオルを手に取ると、床に無残にも飛び散ったコーヒーを拭いていった。転がったマグカップを手に取って確認すれば、マグカップにはヒビ一つ入っていない。
このカップはチフユとオレを繋ぐ大切な物だった。割れていないと分かれば、良かったと安堵した。

「…私、もうしばらくここにいようかしら」

ぽつり。頭上から聞こえたのは感情も何も入っていない冷淡な声をした彼女の言葉だった。彼女の顔をゆっくりと見上げると、彼女は冷めたような目でオレを見下ろしていた。その刺すような視線に背筋がぞくりと凍りつく。

「…お前、今日は任務があるんじゃなかったの」
「今日は夕方からなの」

先程の表情とは打って変わって、彼女はにっこりと微笑んだ。心が読めない彼女にオレは当たり障りない言葉を選んで「そうなんだ」と答える。

「朝食食べる?まぁもう遅いから朝食ではないけど。何か作るわよ」
「…いい。もう一寝入りする」
「そう」

これ以上、彼女と関わりたくなかったオレは逃げるように寝室へ向かおうと足を踏み出した。背を向けたオレに、彼女は「ああ、そう」と何かを思い出したように呟く。

「任務に行く前にもう一度シャワー借りるわね。私、任務に行く前は綺麗にしとかないと嫌なの」

彼女はそう言うと、キッチンへと向かい、姿を消した。恐らく朝食でも作る気でいるのだろう。相変わらず厚かましい彼女を横目にオレは、

「どうぞご勝手に」

そう言って、今度こそ寝室へ向かった。


***


どれくらい眠りについていたのだろう、不意にインターフォンが部屋に鳴り響いた音が聞こえて目が覚めた。誰だろうか。玄関に向かおうとベッドから降りて寝室の扉を開けた。

廊下に出ると、玄関先で話し声が聞こえた。どうやら彼女がまた勝手に玄関先まで出たようだ。…まったく。アイツは何考えているんだ。

怒りを通り越して呆れたオレは溜め息を吐いた。来客を確認しようと見てみるが、彼女の背に隠れて窺えない。ならば聞いた方が手っ取り早いと思い、オレは彼女に問い掛けた。

「だれ?」

彼女はオレの声に反応してビクリと肩を震わせると、振り返って笑みを向けた。

「新聞の勧誘だった。断っとくね」

言うと、すぐにオレに背を向けてしまった。
新聞の勧誘?そんなの滅多に来ないのに珍しいな。さほど気にも留めず、オレは水でも飲もうかとキッチンへと向かおうとした。

『カカシ』

ふと、オレの名を呼ぶ声が聞こえた。チフユ?急いで振り返り、玄関へと目をやるが、そこに立っていたのは彼女だった。

「どうしたの?」

彼女の髪が微かに濡れている。そういえば任務へ行く前にシャワーを借りると言っていたっけ。彼女はオレと目が合うと、先程と同様、にっこりと笑った。

「いや、別に…」

チフユの声が聞こえた気がしたが、気のせいか。オレは合わさっていた彼女との視線を逸らした。よく考えれば、チフユがオレの部屋に訪ねるなんて、あるわけないよね。

「お風呂ありがとう。私、これから任務だから、じゃあね」

そう言うと、彼女は背を向けてあっけなく部屋から出て行ってしまった。パタン、玄関の扉が閉まる音を聞いて、ようやく帰ってくれたと安心する。

キッチンへ向かい、コップに入れた水を飲み干したあと、コトンと調理台の上にコップを置く。オレもそろそろ任務の準備をしなくちゃな。そんなことを思いつつ、ふとコップを置いた調理台に目をやれば、まだ洗われていないコーヒーの茶色が残った紺色のマグカップが視界に入った。

ホント、割れていなくて良かった。

マグカップをしばらく眺めていると、必然的にチフユの顔を思い出した。チフユは今頃何しているだろうか?風邪はぶり返していないだろうか?このマグカップで飲んだ梅酒割り、美味しかったな。また飲めたらいいな。

…チフユに会いたいな。

マグカップを見ただけだと言うのに、オレの頭の中はチフユのことでいっぱいで。こんなにもオレはチフユのことが好きなのかと苦笑いを浮かべた。

オレはマグカップを手に取ると、流し場に置いてあるスポンジに食器洗剤をつけて、丁寧に洗った。最後に布巾で水気を拭くと、今度は見つからないようにと食器棚の奥に入れた。

次に使われるのはいつだろう。ひっそりと佇む紺色を見て、オレは無意識に口角が上がる感覚を噛みしめた。

「じゃあまたね」

あの日、当たり前のように『じゃあまたね』と言って、笑ったチフユの顔を思い出しながらオレはそう呟いた。そして、高鳴る気持ちをマグカップと共に棚のなかに仕舞い込むと、静かにそっと、扉を閉めた。


のこしてきた約束





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