「ねぇ、カカシ。チフユから何か聞いてない?」

待機所に入るなり、オレに質問を投げ掛けたのは同僚の紅だった。真っ黒な前髪から覗く形の良い眉は潜んでおり、赤を引いた唇は真一文字に結んでいる。その顔は明らかに誰かを心配している顔だった。

「チフユがどうかしたの」
「昨日の夜にチフユの部屋に行ったんだけどあの子、居留守を使うのよ」

窮した声で話す紅の言葉は、オレの耳を疑うものだった。チフユが居留守を?そんなまさか。オレに居留守を使うならともかく、同性で、何よりオレよりも仲の良い紅を無視するわけないじゃない。そう口にすれば、藤紫を引いた瞼の中にある真っ赤な瞳が揺れた。

「そうなの。だから隣人のカカシなら何か知ってるかと思って」

なるほどね。それでオレに訊ねたってわけだ。腕を組みながら納得すると、最近のチフユの行動に思い当たる節があるかどうか、頭の中で探ってみた。チフユとはベランダでたびたび会っていたが、最近は生活時間が違うせいか、会っていなかった。隣の部屋から物音も聞こえていたし、至って普通の、いつも通りの生活音だった。別に気に留める程でもないはず。
ーーあ。でも、あの日、チフユは何かを頑張ると言ってたっけ。それが何に対してなのかは知らないが、もしもその頑張りが報われていなかったとしたら。チフユのことだ。絶対に落ち込むに決まっている。肩を落としながら落胆する彼女の横顔が頭に浮かぶと、無意識に溜め息が溢れた。

「…心当たりあるかも」
「本当?」
「まあ、それが定かとは言えないけど」

オレの曖昧な返答に紅はますます不安げな表情を浮かべる。いつの間にチフユと紅はこんなに仲が良くなったのか。オレよりもチフユとの友情を深めている紅に少しだけ羨ましく思いつつも、未だ眉間に皺を寄せている紅の不安を拭う言葉を掛けた。

「後で聞いてみるよ」

オレの言葉に「ありがとう」と礼を口にすると紅は笑顔を溢した。殺風景な待機所の空気が、紅の纏う雰囲気によって、一気にパッと華やぐ。前にも思ったが、これほどの器量を持ち合わせた女をアスマはよく落とせたなと、アスマの手腕に心底称賛してしまう。ま、オレには関係のないことなんだけど。

「じゃ、これから任務だから、またね」

言いながら、紅に背を向けた。待機所から去ろうとするオレに、すかさず「何かあったら教えてね」と紅は念を押した。

「はいはい」

オレは後ろ手で右手を振りながら、待機所を後にした。



今日は晴天だった。遠慮なしに降り注ぐ太陽光が眩しくてつい、目が眩んでしまう。オレは目を細めつつ、光から遮るように右手をかざした。
いつの間に秋から冬になったのか。左目を手にしてから取り残されたままのオレは移ろう季節に追いつけていけず、時が止まったままだった。
冬の澄んだ空を仰ぐと、目いっぱいの淡青色が視界を埋め尽くした。はぁ、小さく吐いた白い息は、空の青と混じり合いながら消えていった。

今日の任務は身辺護衛だった。三代目の計らいで、いまだにオレは下忍担当以外の任務を遂行していた。大戦の傷が癒え始めた今、以前と比べて要人暗殺や忍者殺害、人を殺す任務はぐんと減っていた。それは里にとって、オレ達にとって、喜ばしいことだと思う。しかし正直に言えば、素直に受け入れられない自分がいた。いくら時が流れても、平和な時代になろうとも、この手でたくさん人を殺めた事実は変わらない。

ふと火影岩に視線を向ければ、岩肌に彫刻された4代目が白々とした陽の光に照らされながら里を見つめていた。凛とした顔付きで里を見守る4代目は、明るい未来を切り拓くべく人だった。
チームワークを大切に。その言葉を信じて今までオレは生きてきた。しかしそれは、独り善がりの持論をただ子供達に押し付けているだけではないだろうかと、今さらにして不安になっている。だが、この信念はどうしても曲げられなかった。同じ過ちを繰り返さないためには、誰かが伝えていかないといけない。それが唯一、オビト、リンのためにできることだった。

『オレのやり方は間違っているのでしょうか、ミナト先生』

火影岩に問い掛けても無論、答えなど返ってくるはずもなく、ただ切なさが込み上げるだけだった。ふと見上げた空には、筆で払ったような筋状の雲が広がっている。冬によく現れる雲を見て、寒い季節がやはり来たのだなと改めて感じさせた。


「先生!」


威勢の良い子供の声が聞こえて思わず目を向けると、満面の笑みをしたアカデミー生が手を振っていた。
先生……?近くにアカデミーの教師でもいるのだろうか?辺りを見渡してみるが、道を歩く者は自分しかいない。戸惑うオレに、幼い顔をした子供達が遠慮なしに近付いて来る。

「カカシ先生!」

その呼び名でようやく確信した。どうやらオレを呼び止めたみたいだ。しかし先生って…何かの間違いじゃないの?疑問に思いつつも、目の前に並んだアカデミー生を見やった。
そのなかには一際大人びた顔をした、見覚えのある三人組がいた。そいつらは以前、下忍試験の際にオレが不合格を告げた者たちだった。
…アカデミーへ出戻りさせたオレに文句でも言いにきたのだろうか。それなら納得だ。オレは無意識に身構えて、放たれる言葉をじっと待った。

「オレたち、カカシ先生には感謝しているんです!」

感謝?オレに?その言葉に思わず肩透かしを食らった。何も言えずに固まるオレに三人は笑みを浮かべている。

「あの後、チームワークが大切だとカカシ先生に気付かされたんです」
「アカデミーに戻されて最初は腹が立ったけど、時間が経つにつれ、気付かされました。チームには誰一人欠けてはいけないって」
「オレたち、不合格を言われた頃より仲良くなってるんですよ」
「今はオレらよりも年下のコイツらにチームワークの大切さを教えてるんだよな」

なっ、と三人の内の一人がまだ幼いアカデミー生に語り掛けると皆同時に頷いた。その顔は三人と同様、満面の笑みだ。
未だ何も言えないオレに三人は「では、失礼します」と頭を下げると子供達は瞬く間もなく走り去って行ってしまった。え、なんだったの。一人取り残されたオレはただ呆然とその場に立ち尽くす。
ひゅっと、冷たい風が熱くなった頬を撫でて、オレの体を吹き抜けていった。

『チームワークが大切だとカカシ先生に気付かされたんです』
『カカシ先生には感謝しているんです』

言われた言葉を思い返せば喜んでしまう自分がいて、つい口元が緩んでしまった。…アイツら、オレに感謝してるの?ていうかオレが一番に伝えたかったことを気付いてくれてたの?じゃあなに、オレがしてきた事は正しかったってこと?間違っていなかったってこと?

ーーなんか、嬉しい。

高ぶった気持ちを落ち着かせるように、先程まで眺めていた火影岩に視線を向けた。いくら質問を投げかけたって答えてくれやしないのに、今日だけは昔と変わらない、あの懐かしい声が聞こえた気がした。


***


任務も無事に遂行し、ようやくアパートに着いたのは夜が明ける前だった。
なんとなくアパートの前で足を止めて、チフユの部屋に視線を向けると、暖色を帯びた照明の明かりがカーテン越しから漏れていた。まだ出勤時間でもないのにチフユは起きているのだろうか?疑問を抱きつつも、止めていた足を踏み出して自室へと向かった。
ドアを開ければ、相変わらず殺風景な部屋がオレを待ち構えていた。部屋の鍵を玄関の棚の上に放り投げるとチャリンと高い金属音が静寂な空間に響き渡った。
リビングに向かい、手探りで照明の明かりをつける。暗闇に慣れていた視界が急に明るい光を目にしたものだから、まぶしくて思わず目が眩んだ。

…それにしても腹が減った。

こんなに帰りが遅くなるとは思っていなかった。何も食べずに任務に向かったのが間違いだったと後悔して、とりあえず何か食べるものをと思い、キッチンへ向かった。
冷蔵庫の扉を開けて、一通り冷蔵庫の中を漁ってみたが、あいにく中途半端に余らせた調味料ぐらいしか見当たらない。昨日の内に買い出しをしとけば良かったと、溜め息を吐いてパタンと扉を閉めた。…もういっそのこと、寝てしまおう。空腹を満たすことを諦めて、キッチンを後にした。

ーーそういえばチフユ、起きているんだっけ。

ふと視界の隅に映ったのは隣の部屋を隔てる白い壁だった。…部屋の明かりがついていたけど、こんな夜更けにチフユは何してるんだろう。軽く疑問を抱いて思考を巡らせてみるが、隣人兼、友人といえども彼女の事をほとんど知らないオレに答えなど出てくるはずがなかった。

『あの子、居留守を使うのよ』

頭に浮かんだのは昼間に聞いた紅の言葉だった。チフユだって成人した立派な大人だ。寝ずに朝を迎えることだってあるだろう。…心配しすぎなのよ、紅は。
そうは言えども、徐々にチフユのことを心配する自分がいて、雑念を振り払うように壁を見つめた。…まさか、ね。止めていた足をゆっくり動かしながら壁に近付く。じっと隣人の気配を感じ取ると、微かな物音が耳に入った。どうやら死んではいなさそうだ。ほっと安堵の息を吐いて、胸を撫で下ろす。

…そもそも何やってんのよ、オレは。

コソコソとしていないで堂々とチフユに声を掛ければいい。別に悪いことなどしていないのだから。ぐっと拳を作って、壁を軽く二回叩いた。コンコン、冷たい静かさのなか、オレが鳴らした軽快なノック音が部屋に鳴り響く。
オレはチフユからの返事をじっと待った。
しかし、いくら待てど彼女の声が聞こえない。…おかしい。気配はちゃんとあるはずなのに。どうやら紅の言う通り、チフユは居留守を使っているらしい。

「…生きてる?」

少しばかりの皮肉を込めて問い掛ければ、壁の向こう側にいる彼女がはっと息を呑んだような気がした。それでも居留守を決め込むチフユに痺れを切らしたオレは溜め息と共に言葉を吐いた。

「…あのねぇ、いるの分かってるんだよ。オレ、一応忍だからね」

ここまで言えば観念するだろう。しばらくすると思った通り、チフユは「生きてるよ」とひどく嗄れた声で返事を返した。その声を耳にして、やはりチフユに何かあったのだなと確信する。
オレはいつも通りチフユの悩みを聞くべく、ベランダへと彼女を誘導する言葉を投げ掛けた。すると彼女は暫しの間を空けたあと、「少しだけなら」と先ほどと変わらない掠れた声で返した。オレはチフユの返事を合図に、ベランダへと向かった。

外に出れば、自然に肩がぐっと力が入るほど、夜気は冷たかった。オレは二つのベランダを仕切る薄い壁まで歩み寄り、柵に寄り掛かりながらチフユが来るのを待った。ガラガラと戸を引く音が聞こえて反射的に壁の向こう側を覗き込めば、余りにもこの寒空の下に相応しくないチフユの格好を見て、思わず呆れた言葉が口から溢れた。

「何、その格好」

サンダルに履き終えたチフユはオレの声に一瞬だけ驚いた素振りを見せたが、すぐに苛立った表情に変わり、俯いてしまった。まるで親に叱られて不貞腐れた子供のようだ。彼女の態度に呆れつつ、いつまで経っても動かないチフユを見兼ねたオレは「ちょっと待ってて」と彼女に指示をすると、部屋に続くサッシ窓を引いた。サンダルを脱いで、リビングのソファに無造作に掛けてある毛布を手にし、ベランダへと戻る。
壁の向こう側を覗き込めば、変わらず下を向いて突っ立っている彼女の姿が窺えた。明らかに落ち込んでいる彼女を見て、オレは小さく溜め息を零す。

「これ、貸してあげるから。そんな格好じゃ、風邪引くでしょ」

言いながら、落とさぬよう毛布を受け渡すとチフユは戸惑いながらもそっとオレの手から毛布を受け取った。ふいに彼女の冷たい手がオレの手に触れて、やっぱり渡して良かったと自負した。

「…ごめん。ありがとう」
「後で返してね」

呟くように礼を口にしたチフユの声はやはり掠れていて、部屋から漏れる照明の光で窺えたチフユの顔はオレの予想した通り、泣き腫らした目をしていた。

「で、どうしたの。それは」

チフユの腫れぼったい目を指差して問い掛けると彼女は「え、」と小さく声を漏らした。
まさかオレに指摘されると思っていなかったのだろう。薄く開かれた唇はぐっと結んで、また閉ざしてしまった。

「言いたくないなら良いけど」

明らかに言いたくない。頑なに拒む表情のチフユを見て、オレはチフユから目の前の景色へと視線を移した。
朝焼けの色は夕日に似ているが、どこが違う。目が覚めるような真っ赤な薔薇色の太陽と暗い深海のブルーの夜空が混ざり合い、広い空に見事なコントラストを描いていた。こんな美しい景色を泣いて見ることが出来ないなんて、チフユは勿体ないなぁとぼんやり思う。
オレは柵にもたれ掛かり、手摺りに肘を置いて頬杖をついた。音一つしない夜と朝の狭間にはまるで、オレとチフユしかこの世に存在していないよう。それはそれでいいかもなぁ、なんて、思ってしまう自分に思わず苦笑した。

「…っ、」

壁越しに佇むチフユの咽び泣く息遣いが耳に入った。チフユはまた涙を堪えているのか。誰にも見せずに、一人で抱え込もうとして。
オレは静かに彼女の名を呼んだ。しかし、チフユはオレの声に反応しない。どうしたものか。仕方なく柵にもたれ掛かり、身を乗り出してチフユの顔を覗き込めば、チフユは顔を両手で覆いながらオレに背を向けていた。そんなにオレに泣き顔を見られたくないの?少しばかりの苛立ちが込み上げて、突かれたように胸が痛くなった。

「…ごめん。違うの。直ぐに止まるから。私、今、情緒不安定なの。おかしいの。だから関わらない方がいいよ」

嗚咽を必死に殺しながら辿々しく話す彼女の言葉は『一人にして』そう告げている気がした。…チフユはいつもそうだった。涙を決して人に見せようとしない。こうして今までも、彼女は躓いて転んでも自分の足で立ち上がりながら強く生きてきたのだろう。誰の手も借りず、たった一人で。
それならチフユの好きにさせてあげるしかない。オレは頷いて、彼女の望み通りの言葉を投げ掛けた。

「あ、そう。じゃあ、関わらないでおくよ」

自分でもひどく冷たい声だったと思う。だが、チフユがオレを拒むのなら仕方ない。オレがここにいるから彼女は思い切り泣けないのだ。
ーー世話が焼けるよね、ホント。
さすがにチフユを寒空の下に一人で残すわけにもいかなかったので、オレはチフユに背を向けて、二つのベランダを隔てる薄い壁に寄り掛かった。冬の空気に冷えた壁がオレの背の体温を奪ってゆく。
とりあえずチフユが泣き止んで落ち着くまで本でも読んでいようと、ポケットに忍ばせた本を取り出して表紙を開いた。が、今はまだ日が登り切っていない薄暗い状況だ。当然、文字など見えるわけがない。
背後にはチフユが鼻を啜る音が微かに聞こえる。チフユはオレが自室に戻ったと思っているだろう。泣き止むまでの待つ間、手持ち無沙汰だったオレは読めないと分かりつつも、気休めに次のページを捲った。

「…帰らないの?」

オレの気配に気付いたのか、チフユは静かに問い掛けた。

「ここで本を読もうと思って。…言っておくけど、チフユの為ではないからね」

言いながら、オレはまたページを指で捲る。変わらず外は薄暗くて字が読めない。なんとなくチフユが気になり、振り返ろうとしたが、恐らく今の状況ではチフユの顔はまだ泣き顔だろう。泣いてる顔を見られるのが嫌だと言うチフユの気持ちを汲んで、オレは敢えてチフユの顔を見なかった。

「…私、カカシに依存しそうだ」

ぽつりと呟いたチフユの言葉は独り言なのか、それとも俺に語り掛けているのか。
依存、ねぇ。何事にも無頓着になりたいと憧れるオレにとっては『依存』という言葉は無縁だった。しかし、自分が依存しなくとも、相手が自分に依存する分には良いかもしれない。ましてや友人であるチフユがオレを必要としてくれるのなら、構わなかった。

「…いいんじゃない。依存しても」

チフユと同様、独り言のように呟くとチフユにはちゃんと聞こえたらしい。てっきり喜ぶと思ったが、彼女は困ったような声で「いや、駄目だよ」と即座にオレを否定した。…なにそれ。自分から依存しそうだって言ったくせに。理不尽なチフユに呆れて、オレは溜息を零した。オレの吐いた白い息はゆるりと舞い上がり、夜気に溶け込みながら消えていった。
ふいに、とん、と小さな音を立ててオレの背中に振動が伝わった。訝しげに思い、チフユのいるベランダを覗くと、壁に背を預けて、オレが貸した毛布に包まっているチフユの後ろ姿が目に映った。
オレはチフユに気付かれないよう、元にいた場所に戻り、ゆっくり薄い壁に寄り掛かった。チフユは何を思ってオレの背中越しにいるのか、不思議で仕方ない。

「…泣かないの?」
「さっき枯れるほど泣いたから」

さっきまで泣いていた時と打って変わって、チフユの清々しい声が背後から聞こえた。あれだけ泣いてたのにもう気が済んだのね。チフユの気持ちの切り替えに驚きつつも、オレは適当に相槌を打った。
背中に触れているのは冷たい壁の筈なのに、じわりと身体に浸食するように熱が溶け込む。
パタン、用がなくなった本を閉じて、無造作にポケットへと仕舞い込んだ。そのまま悴んだ手をポケットに忍ばせていると徐々に指先から温かくなってゆく。

チフユはやはり面白い人間だ。落ち込んで、泣いて、怒って、笑って。感情豊かなチフユを見るとやはり羨ましい気持ちになる。
感情を押し殺して生きる忍とは違う、人間らしいチフユと、これからもこうして話したい。そして、ただ横目に見ていた、止まったままの季節をチフユと楽しみながら感じたい。そんな身勝手で貪欲な願いが胸から止めどなく溢れ出た。

「引っ越さなくて良かった」

唐突なチフユの言葉に驚いて、「そんな事思ってたの?」と問い掛けると、彼女は振り向きもせず、はっきりと「前にね」と口にした。オレはそれを聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。こうしてチフユとベランダで話をするのが楽しみの一つになっていたからだ。

「でも、今は思っていないよ」
「…それは良かった」

本当に思ったことが口から出た。オレは慌てて口元を手で押さえた。今度はチフユが驚いて、オレの顔を確認しようと振り返る。オレは赤くなった顔を見られないようにと前を見続けた。チフユの前だと何故、頬が熱くなるのか、心臓が高鳴るのか。自分でもよく分からない。

「話し相手がいなくなるとつまらないからね」

咄嗟に頭に浮かんだのは当たり障りのない言葉で。それでもチフユは納得してくれたのか、「私も」と頷いて同意した。オレは何度目か分からない安堵の息を吐いて、視線を景色へと移す。
太陽は先ほど目にした時よりも赤色から橙に染まっていた。もうすぐ朝が来る。今日が始まる。そう告げるかのように日の光が段々と強くなってゆく。朝が来たらオレたちは別々の世界に行かなくてはいけない。オレは里を守る忍の世界に。彼女は庇護を受ける平和な世界に。
だからこそチフユがあの景色を見ていないことを願って、思いを募らせた。

まだ夜と朝の狭間にいたいと。背中の温かみをまだ感じていたい、と。

「…カカシ、ありがとう」
「別に。何もしてないけど」

チフユが柄にもなく礼を口にするものだから、少しだけ驚いてしまった。礼を言われるほどチフユに何もしてやれてないのにな。言葉が詰まるオレに構わず、彼女は爛々とした弾むような声で言葉を続ける。

「カカシ、いつでも壁を叩いてね。話し相手ならいつでもなってあげるから」

何気なく言われた率直なその言葉が嬉しく思った。どうしてチフユはいとも簡単にオレの心に入り込んでくるのか。あの夜もそうだった。チフユは何も聞かずにただ隣にいてくれて、オレの思い出の歌を優しく口ずさんでくれた。あの歌声をもう一度聴きたい。そんな風に思ってしまうのは、オレの方が彼女に依存しているのだろうか。

「そんなに寂しがり屋じゃないよ、オレ。…でも、ありがとう」

ようやく捻り出した言葉はそれで、言葉足らずの自分につくづく呆れてしまう。ホントはたくさんチフユに伝えたいことがあるのに。

「もう大丈夫」

チフユは自分に言い聞かせるようにはっきりとそう口にすると、寄り掛かっていた壁から身を引いた。背中に伝わっていた温もりが消えて、少しばかり寂しく思ってしまうオレは一体、彼女に何を求めているのか。

「毛布、ありがとう。汚れちゃったから後でちゃんと洗って返すね」
「…別に気にしてないけど」
「私が気にするの」

チフユの澄んだ声が清々しい朝の空気に響き渡った。凛と弾むその声はもう迷いなどない。チフユの表情はきっと、満面の笑みを浮かべているのだろう。
チフユは誰の力も借りず、自分の力で立ち上がった。だったら、オレもチフユみたいに前に進まないといけない。


『カカシ先生』


ふと、そう呼んだアカデミー生達を思い出した。聞き慣れないその呼び名に擽ったいと思う気持ちは変わらないが、『先生』と呼ばれるのも悪くないかもなぁと、マスクの下で口元を緩ませながらオレは空を仰いだ。
日も登り切った、燦々と輝くミナト先生のような太陽を見て、オレは大きく息を吸った。

「チフユ」

手摺りに手を掛け、隣接したベランダを覗き込みながらチフユの名を呼ぶと、チフユは驚いた顔でオレを見つめていた。
太陽が眩しいのか、目を細めてオレの言葉を待つチフユに、オレは目いっぱいの笑顔を浮かべた。

「チフユはよく頑張ったと思うよ」

ふわっと、チフユの柔い髪が風に揺られて、なびく。彼女はゆっくり頷いて、朗らかに笑った。

「ありがとう」
 
止まっていた時計の針は動き出した。オレたちは日が昇ったのを合図に別々の世界を生きる。

しかし、同じ空の下、同じ日差しを浴びるオレたちが生きている限り、どんな場所にいたって変わりはしない。

輝いた彼女を一番近くで見てたからオレも変わろうと思った。オレはぐっと背伸びをして一歩、足を前へ踏み出す。すん、と朝焼けの澄んだ空気を吸い込めば、陰鬱な気持ちが少しだけ、消えてゆく気がした。


朝陽(あさひ)に咲く





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