???な安室さん



薄ぼんやりと浮かび上がった月が、不思議な色をしている……。
遠くで霞む桜のようなピンク色だ。ストロベリー・ムーン。不意にそんな単語が頭に浮かんで、ナナシは足を止めた。
どこで目にしたのだったか……確か数日前の新聞の片隅に載っていた記事だ。ピンク色に見えるからその名が付いているわけではない、という内容だった気がする。なるほど、知らなければ少し不気味に思ったかもしれない。この辺りは街の中心部からは離れており、民家ばかりだ。夜の人通りは少ない。一定間隔で点在するガス灯は歩行に問題ない程度には辺りを照らしているが、それがかえって人の姿が消えた石造りの建屋を無機質な塊の羅列として浮かび上がらせ、薄気味悪さに拍車をかけている。
この街は他の街に比べて、頑丈な建物が多い。……人ならざるものが多く暮らしているためだ。比率でいえば人間が圧倒的に多いが、大抵の人以外の種族は非凡な力を持って社会に溶け込んでいる。凶暴化するなどの理由から、届け出なければ街に住めない場合もある。しかし、費用がかかるということで正体を隠して人間に紛れている例もあった。石造りの家はそんな街全体の特色だ。夜に人がいないのは当たり前のことで、これで事件でも起きれば女の自業自得だと、そう言われてしまうだろう。
そんなことをぼんやり考えて、ナナシはハッと我にかえった。再び歩き出そうとしたところで、

「こんばんは」
「ひぁぁっ!?」

閑静な夜の住宅街の真ん中で飛び上がった。

「あ……すみません、驚かせてしまいましたか」
「……安室さん……?」
「はい」

声を掛けてきたのは知り合いの男だった。「姿が見えたので」と申し訳なさそうに眉を下げながら、少しだけ笑っている。金色の髪に青い瞳、それに褐色の肌が特徴的な長身の男だ。黒っぽい服を着ているからなのか、気配が夜の空気に溶けているように薄い。薄暗い中で出会えば誰でも驚くだろう。

「なんだ安室さんかぁ……私の方こそ、すみません。ちょっとびっくりしてしまって」
「こんなに遅い時間にひとりで出歩いては危ないですよ。……どなたかとお出掛けだったんですか?」
「いえ、仕事の打ち合わせが長引いたんです。いつもはこんな時間にはならないんですけど」
「そうですか……では、家までお送りします」
「でも、安室さんもお仕事帰りですよね?」

疲れているところを送ってもらうのも気が引ける。断ろうとすると、男はにこりと笑ってナナシの荷物を取り上げた。

「大丈夫。今日は早めに店仕舞いして買い物に出ていたんです……夜にしか開かない店もありますから。これからもう一軒寄るところがあって、通り道なので送って行きますよ」
「そうだったんですか……じゃあ、お願いします」

実をいえば心細かったため、好意に甘えることにした。正直にいえばありがたい。特に夜は、凶暴化する住人もいる。もっとも彼らが襲ってきたとき、安室が太刀打ちできるかは疑問だが。

「安室さんのお店、大人気みたいですね。今日仕事で会った人もポアロのことを話されてましたよ。美味しいお店ができたって」
「ええ、みなさん良くしてくださいます。……あなたのおかげですね」
「そんな……」
「あの時は本当にありがとうございました」
「私は当然のことをしただけですよ……」

今からちょうど二ヶ月前の正午過ぎのことだ。街外れの森へ続く小道に、この男が倒れていたのは。偶然通りかかって介抱したのが初めての出会い。別の場所に住んでいたという安室はそれ以来街に住むようになり、一ヶ月経った頃にはなんと喫茶店をオープンさせていた。つまり開店してからまだ一ヶ月なのだが、その味はあっという間に街の人の心を掴んでいる。

「でも、大丈夫ですか?」
「何がです?」
「その、この街って色々あるでしょう?私はここに長く住んでるからもう気にならなくなったけど……」
「ああ…………」

どんな街でも、村でも。大なり小なり事件は起きている。けれどここは特色でもある多種族が集まる街だけに、その中身はショッキングなものが多い。
最近街を騒がせているのは、人ならざるもの……特に吸血鬼による騒ぎだった。彼らは基本的に紳士的で、人を無理に襲うことはないが例外はいる。この二ヶ月で血を抜かれて死亡した若い女の遺体が連続で見つかっているのだ。狙われるのは女ばかりとはいえ、住んで早々にそんな事件が連続したら嫌な気分にもなるだろう。

「それにしても……おかしいと思いませんか?安室さん」
「……何がです?」
「吸血鬼が必要とする血はごく少量のはず……わざわざ彼らにとっての栄養源を殺してしまうなんて……」
「へえ、詳しいんですね」
「あ……今度、吸血鬼のお話を描くんです。私が絵本を描いているって言いましたっけ……?」
「ええ、子供向けに図書館などにも寄贈されているんですよね」
「そうなんです。ある人に頼まれて、小さな子にもわかる吸血鬼の生態を描く予定で……自分でも色々調べてるんです」

人間が多い街といっても、その他の種族が迫害されているわけではない。商売の才能があったり、特殊な力を駆使したりしてそれなりの地位についている者もいる。今回のような依頼は大抵がそういった権力者からのものだ。
隣を歩く男が「例えば?」と言うので、ナナシは本で読んだ吸血鬼の特性を思い起こすようにうーんと唸った。

「まず……十字架に触れない!」
「……個体差があると思います」
「ニンニクが大嫌い!」
「好きですけどねぇ……ホイル焼きとか」
「日光がダメ!」
「軟弱ですね」
「あとは、えーっと……あ。家主に招かれないと家にあがれない?」
「…………」

ピタリと、男が立ち止まった。どうしたのかと一歩先に進んでいたナナシが見れば、そこはもう自分の家の前。会話に夢中になっていて気付いていなかった。律儀に門にも入らず手前で立っている安室を見上げて、礼を述べる。

「ありがとうございました、送っていただいて」
「いえ、このくらいは。あなたは僕にとって特別な人ですから」
「えっ、な、何言ってるんですか?そんな助けたくらいで、」

あわあわとしていると、本当だよ、とその唇が動いてみるみるうちに弧を描いた。いつもの男の雰囲気ではない、どこか妖艶で、ぐっと視線が惹きつけられる笑み。
ナナシはドキドキして何も言えなくなって、家に入るまで見ているという男の視線から逃げるように、駆け足で玄関へと走った。




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