パンケーキ男子



ふんわりと優しい色に焼き上げられた二枚のパンケーキに、こんもりとデコレーションされたホイップクリーム。ふんだんに乗せられた真っ赤な苺と、アクセントのミントの葉っぱが一枚。ナイフなんて必要がないくらいふわふわの生地を切り分けてフォークを落とし、クリームと一緒にぱくりと口に入れる。弱火でじっくりと焼いた、しっとりと吸い付くようなもちもちの食感となめらかなクリームが幸せだけを運んできた。甘さ控え目の生クリームは無限に食べられそうなほどあとを引く美味しさだ。苺の切り口に触れていたところがちょっとだけ甘酸っぱくなっていて、それも味わうように食べる。シンプルな素材しか使用していないのに、パンケーキはすごい。フォークに苺を刺して、つやつやと新鮮そうな果実を見つめる。ケーキにおける苺は適度に酸味があるのが望ましいが、私はどんな苺でも好きだ。酸っぱければその後のパンケーキがとても甘く感じられるし、元から甘ければ一緒に口に入れることでケーキももっと甘くなるから。ぱくりと苺を食べて、その絶妙な甘さと酸味のバランスに溜息が漏れる。
幸せだ…………最後に鼻から抜けていく瑞々しい香りに浸るようにうっとりしていると、私の向かい側のテーブルの上にコトリと湯気のたつ皿が置かれた。
思わずフォークを口に入れたまま視線をあげる。私はパンケーキしか頼んでない。

「……安室さん」

椅子を引いて向かいに腰掛けたのはこの喫茶店の店員さんだった。私はそこそこの頻度で来店しているので、まあまあ常連といっても良い。パンケーキしか食べない、パンケーキ常連。以前は挨拶を交わすくらいだったが、いつからだっただろうか。こんな風に店員さんが私の向かい側に勝手に座るようになったのは。

「あ、休憩です。ここ、いいですか?」

もう座ってる……。私は半分呆れながら無言で店員さん……安室さんをじとっと見つめた。彼の皿には色の薄いパスタが盛られている。オリーブオイルと塩胡椒だけの、メニューにはないものらしい。調理も担当していて何だって作れるだろうに、彼はいつもコレばかり食べている。女子高生に騒がれ、お姉さんからは頬を赤らめられる安室さんは本当にカッコいい男の人だ。果ては普段無口なおじさんにまで「安室くん」と親しげに呼ばれているから、いわゆる人たらしなんだろうと思う。

「ナナシさん、お味はどうですか?」
「今日もすごく美味しいです」

答えると安室さんは嬉しそうに笑った。もともと少し若く見えるのだが、その笑い方をすると余計に幼く見える。とてもかわいい。この可愛くて美味しくてとてもすばらしいパンケーキを作る人なのだから、かわいくても不思議ではないけど。でも、次の瞬間には彼の表情は変わっていて、じーっと真顔でこっちを見てくるから顔が良すぎてドキッとしてしまう。

「どうしてパンケーキしか食べないんですか?」
「他のメニューはいかがですか?」
「ここ、座ってもいいですか?」
「僕のパスタを一口食べてみますか?」
「そんなに美味しいですか?パンケーキ……」

彼はパンケーキしか食べない私が不思議だったのかもしれない。同じものを頼む常連さんなんて他にもいるだろうに。いちいちそんなことを気にして尋ねてくる安室さんがおかしかったのと、彼は向かいに座りながら楽しい話をたくさんしてくれたので、拒めないまま今日に至るのだった。それに安室さんはパンケーキみたいにキラキラしているから、まあいいやと思った、というのも理由としてはある。それを話したら彼は「判断基準がそこなのか……」と独り言のように呟き、「……キラキラ……?」と首を傾げて黙ってしまったけれど。

安室さんはいつものようにしばらく私を観察してから自分のお皿に視線を落とす。一回だけ味見させてもらったことがある安室さんの特製パスタ。甘いクリームの後に食べたそれはちょっとしょっぱく感じたけれど、自分で作ってもこうはならないんだろうなぁという味だったことを覚えている。

「安室さん、最近聞いてこないですね」
「何がです?」
「どうしていつもパンケーキを食べるのかって」
「……ああ」

彼はくるくるとパスタを巻きつけていたフォークを止めてふっと笑った。青い瞳と視線が交わって、いつもと違う笑い方だ、と思う。男の人みたいだ。いや、元からすごくカッコいい男の人には違いないけど、なんていうかそういうことじゃなく、男性だということを意識させるような。上手く言えない。

「僕はあまり食事に執着が無くて、好きなものを定期的に食べ続けるということがなかったんです。だからナナシさんの真似をして、賄いを毎回同じメニューにしてみたんですけど……」
「……え、私のせいだったんですか?そのパスタ」

少し太めの麺を上手に巻きつけたフォークをパクリと食べる安室さんを、私は驚いて見つめた。私だったら大きく口を開かないと入らないだろうな、という麺の束を軽く口の中に収めている。
私があまりにも美味しそうにパンケーキばかりを食べているので、軽い気持ちで真似をして賄いを毎回同じメニューにしてみたのだという。不思議なことをする人だ。そもそも元からの好物を食べている私と、口に入れるものに拘りがあまりない安室さんではどうにも比べようがないのに。その結果、当然のことながら「好きで好きで常に食べたい」という私の気持ちを理解することはできなかったそうだ。

「けど、気付いたことがあるんです。同じものを食べていても毎回味が違うんですよ」
「あ、それはわかります!やっぱりその時の果物の新鮮さとか、生地への火の入り方が……」

思わずグッと拳を握り締めた私の言葉を遮って、安室さんが苦笑する。

「いえ、そうではなくて」
「?」
「あなたが目の前にいると格段に美味しい、最近そのことに気付いたんです」

安室さんはすごいことを何でもない風にサラッと言った。そして、「同じメニューを食べ続けていなかったら、こんなに早く気付かなかったかもしれません」と。

「……あなたはどうですか?」

パンケーキみたいにキラキラした安室さんが、ちょっとだけ首を傾げてそう尋ねてきた。何回見ても顔が良すぎる。今までカッコいいなと思っても強く意識することがなかったのは、どこか別の世界の人だと思っていたからだ。夢みたいな食べ物を作る、自分からは遠い人だと思っていたからだ。
女の子に人気の安室さん。声を掛けられているところも何度か見ているけど、彼はとても上手に、穏やかに誘いをかわしていた。だから余裕たっぷりなのかと思えば、その青い瞳はどことなく自信なさげで、私の言葉をじっと待っている。……え?っていうか……え!?あなたはどうですかって、だって、私はパンケーキを食べに来ているだけだし。最近、お気に入りだったお店に行っても何だか物足りないなぁなんて思ってポアロにばかり来てしまうのは、単純にここのパンケーキが……一番美味しいからで……。心臓がドキドキとうるさい。鏡を見なくたって分かる、私の顔は真っ赤だろう。安室さんが私を見て、珍しいものを見たとばかりに瞬きをしてからその目を細めたから。
心の中に明かりが灯るような感覚は、初めてパンケーキを口に入れた時みたいだった。突然横からにゅっと伸びてきた褐色の腕が、火をいれたばかりの灯りを持って、今まで見えなかった隅っこの暗い部分を柔らかく暴いていく。……どうしよう、何だか苦しくなってきた。カラン、お皿にフォークを落としても、それを拾うために視線を下げることができない。

「どうしました?」
「いえ……な、なんか急にドキドキして……」

正直に言ってからものすごく後悔した。さっきよりも余計に顔が熱くなって、こちらを見つめる安室さんがもうひと押しとばかりに笑う。

「そういうの、なんて言うか知ってますか?」
「……」

いきなりやってきて、胸が苦しくて、これから何かが起こりそうなこの予感の名前は……。

「む、虫の知らせ?」
「不吉なもの呼ばわりはやめてください」

ガタッ、と向かいに座っていた彼が立ち上がって私の方に近付いてくる。ひっ、と思わず背を反らせると、安室さんは私が背中をピタリと押し付けている背もたれに手を突いて、逃げ場のない私を見下ろしてきた。にこりと笑う、早く言えという無言の圧力に、私は震えながら口を開く。

「わ……私終了のお知らせ……」
「違う」

いえ、ある意味あってます。だって、だって……ぐるぐると混乱する頭でこの状況をどうしようかと考えている私に、安室さんは身を屈めて、ちゅっとキスをしてきた。それが自然の流れとばかりにしてきた。手を握るとか、抱き締めるより先にしてきた。ちょっと塩味のするキスはいつか食べたパスタの味。あまい、彼の唇がそう動く。ちらりと覗いた赤い舌がこの場所に不釣り合いすぎてゾクゾクした。あ……私、終わった。


このキラキラしたイケメンが、パンケーキなどという可愛くてふわふわなものではないと気付くのはずっと先の話だ。




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