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16-23




静まり返った空間で、ちゅ、と、小さなはずのリップ音がはっきりと耳に届いた。唇が離れても目を丸くしたままの私を見て、男が微かに笑う。その表情はどこか満足げだ。そういえば、前にこの男のキスを拒んだことを思い出した。そんな私の記憶の扉をこじ開けるように、長い褐色の指が自分のネクタイを緩めてシャツから引き抜く。黒いそれがぱたりと床に落ちるのを見て、私は一歩後ずさった。ふ、と男の唇から息が漏れる。

「あなたは僕のことを、安室透じゃないほうの男くらいに思っているのかもしれませんが……僕は諦めませんよ」
「え!?」

唐突に謎の宣言をされて、私は意味が分からずに瞬きを繰り返した。……未だに名前を知らないからそんな言い方をするのだろうか。けど、それは聞いたら最後大変なことになりそうだからであって、どうでも良いと思っているとかそういうわけではない。というか目の前の人に対して「安室透じゃないほう」とか絶対に思えないのだが、今は黙っておこう。

「今日、あなたは言ってましたよね。普通はそんなにころころ変わらない、統一してくださいって」

私は黙ってこくりと頷いた。私の前では安室透で大丈夫です。何度そう思ったことか。何回も言うけれど、ひとりの人間に対してずっと同じ顔で接しないと使い分けている意味がないではないか。しかもミスをして別の顔を見せてしまうというわけでもなく、意図的に色々な顔を見せてくるこの人が掴めなくて、私はこうして振り回されている。
男は手にした銃を胸辺りまで持ち上げて、そのシルバーの銃身を見つめた。明確な光源がなくとも、鈍く光を湛えたそれが男の両目に写り込んでいる。虚ろにも見えるその目線。無機物を瞳に宿したまま、薄い唇が動く。

「……確かに僕は公に存在しない人間です。命令でどんな非道なことでもする組織の犬を、ひとりの男が演じているに過ぎない」

でも、と、男が続ける。瞬きをひとつ、銃を持ったまま視線だけをずらして、今度は私を見た。こちらを射抜くようなそれにどきりとする。

「さっきも言った通り、僕は……僕らは矛盾しているんです」

言いながら一歩だけ開いた距離を男が詰めてくる。その腕が伸びてきても、背後に柱があるせいでもう後ろに下がれなかった。掴まれる、そう思って身構えたが、男の左手は私の頭の上を通り越して柱に触れる。右手の銃はあの時のように悪さはせず、銃口を床に向けていた。……初めてこの人に壁ドンされた時は、もう一生こんなチャンスないんじゃないかって思ってまじまじと観察したっけ。こうも何度もされるとさすがに何も感じなくなって……いや、やっぱり無理だった。むしろ今の方がドキドキする。なぜ。見上げた先の男の顔はあの時と変わらない、そのはずなのに。困って俯き加減になった私を、男がじっと見下ろしている気配がする。

「まあ、本当の自分を見てほしいというのも嘘ではありませんが……」

視界に入る黒いジャケットをひたすら見つめていると、ふわりと、顔の横あたりに何かが触れた。はっとして顔を上げた私の耳元に、男は既に唇を寄せている。その息遣いを感じて間もなく。

「ナナシさん、僕は…………、……」

落ち着いた低い声がそっと、私に言葉を囁いた。それは私を動揺させるには十分な言葉と声音だった。ぴくりと肩を跳ねさせた私を、男が覗き込む。

「……な、」
「だから……あなたの前で統一するなんて無理なんですよ」

何も言えずに口を開いたり閉じたりしている私を見て、男がほんの少し口の端を持ち上げた。姿勢を戻し、柱から手を離して首を傾げるその男。この暗さでも気付かれてしまうのではないかと思うほど、私の顔は一気に熱くなる。未だ至近距離に立つその男へ何を言ったらいいか分からない。

「…………安室さ」

どうしようもなくて名前を紡ぎかけた私の口を、大きな手が素早く塞いだ。

「んっ……」
「……あなたが見ているのは本当は誰なのか、僕らはずっと気にしているんです」

不用意な発言はやめろとばかりに遮られ、私は眉間に皺を寄せて不満を訴える。まあ確かに目の前の人は安室さんじゃないんだろう。それは前から分かっている。分かっているが、その、名前を知らないしそうなるのは仕方がないではないか。それよりも私はさっき言われたことを引きずっていてとても恥ずかしいので、今は触らないでほしい。

「んん……っ……な、なん……好き勝手言って、何なんですか!」

口を塞ぐ手を引き剥がしつつ、私は柱と男の間から一生懸命抜け出した。熱くなった頬を冷ますように両手で覆う。今まで迫られて、こんなに女らしいというか普通の反応をしたことがあっただろうか。けど、もうそうせざるを得ないというか、他の反応が見つからないというか、ただの女になってしまう。この男、本当に何なんだ。安室さ……悪の組織の男はそんな私の反応を面白そうに見てから、フラグか……などと呟いて、顎に指を当てて何やら考え始めた。

「ナナシさん、これが終わったら僕の名前を教えますよ。……こうかな」

……自分もフラグの会話したかったの?っていうか、組織の人と安室さんとついでに降谷さんって普段どういう状態になってるの?私はてっきり……。降谷さんの名前を知ってだいぶ本質が見えたと思ったのに、さっきの台詞でまた見失った感が強い。なぜこうもいちいち翻弄してくるのだろうか。また腹が立ってきた。もう追いやられないように背後に気を付けながら、私は男と距離をとる。

「こ、この……女たらし」
「僕が女誑しのはずないじゃないですか。本当にそうなら、あなたはとっくに僕のものですよね」

罵倒する時は、見当違いなことを言っても意味がない。今現在、私が知る限りの男の素行から導いた最大の悪口を言ったつもりだったが、こっちが恥ずかしくなることを言われてあっさり切り捨てられてしまった。間髪入れずに返してくるのが頭の回転の速さを物語っていて、更にむかついてくる。
大体、女性に接すること自体少ないっていうのに……と心外そうに言う金髪のひと。心底訝しげな顔をするんじゃありません。そんな顔をしたって私は知っているんだからな。

「嘘つき……女の人と一緒にいたじゃないですか」
「……そうでしたっけ?」

それはポアロで私にも接触してきた、あの女性。見るからに警察関係者とか、組織の人ではなかった。レストランでは聞けなかったが、何かあるのは間違いないのだ。しかも女性は安室さんと付き合っているという嘘を持ち出してきていた。実際に今は何もないのだとしても、そういう方法で迫ろうとした可能性はあるし、安室さんのことだから探るために色々やったかもしれない。私とこの人は恋人でも何でもないので、問い詰める資格もない。けど、気にはなる。ずっとなっていた。いや、一緒に車でどこかに走り去るのを見て不安になったとか、ちょっと妬いたとかそういうことではない。決して。
ムッとした私は自分から近付いて行って、とぼけている男をじいっと見上げた。

「あ……あの女、だれ?」

よもや自分がこの台詞を口にする日が来ようとは思わなかった。言われた覚えはあるのだが。女にこんなことを言わせるなんてやはりこいつは最低な男だ。同時に過去の自分をわりとディスっているが気にしてはいけない。
私がそんなことを言うとは思わなかったのだろう、男は少しだけ目を大きくして驚いた表情になる。そしてすぐ、フッと笑って私に背を向けた。

「僕が行ってしばらくしたら、向こうのエスカレーターから1階に下りてください」
「え、」

そう言い残して、銃を手にした男は私の返事も待たずに走って行ってしまった。
残された私はぽかんと口を開けて、既に黒に溶け込んで見えなくなった男の消えた方向を見つめる。急すぎて引き留められなかった。

って、結局言わないのかよ!!悪の組織、そういうとこだぞ!
込み上げる悔しさと恥ずかしさをどうにか発散しようと叫んだ言葉が、私の心の中だけでこだましていた。


「…………」

行かなきゃ。あの人をひとりで行かせてはだめだ。
数歩進んだところで、低い声が耳元に囁いた気がして、私はぴたりと足を止める。思わずバッと自分の耳を手のひらで覆って、はぁ、とため息を吐いた。
そんな風にされたわけではないのに、背中から抱きすくめられているような感覚が体に纏わりついている。冷たいのにどことなく甘やかで、らしくもなく余裕を無くしたように掠れていて、縋るような声で。
囁かれたあの言葉が蘇ってきた。

ナナシさん、僕は……手に負えないことに、作り物のはずの心まであなたを求めてやまない。






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