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16-22




追ってくる銃弾を避けながら走るうち、私達は先程まで潜んでいた紳士服の店の対角線上にやってきていた。といっても、ひたすらに広いので紳士服の店は目視で確認できない。相手との距離が詰まったように感じないのはすなわち、向こうも移動しているからだ。相変わらずこちらを狙い撃ちするわけでもない弾道は、様子見をしているようでもある。安室さんに手を引かれて隠れた太い柱に背を預けて、少し先に見える非常灯を確認する。あそこから問題なく2階に降りられそうだが……なぜ、この位置に。隣にいる安室さんもまた、この状況を訝しんでいるようだった。すぐに階下に移動せず、その場に留まって様子を窺う。

「それにしても、妙ですね……さっきからこちらを誘導している人間は、あの刑事ではないようです」
「え、分かるんですか?」
「有川憂晴……警視庁捜査一課第3強行犯係。28才、警部補。今年だけで言えば、5月に行われた訓練以外で公式に銃を発砲したことのない男です。家族構成は、」
「ちょ、ちょっと待ってください……安室さん、そこまで調べてたんですか?」
「ええ、まあ……」

安室さんは一度だけ私を見て曖昧にそう返事をすると、辺りを警戒するようにすぐに別の方を向いてしまった。
安室さんが刑事さんのことを初めて認識したのが、あの商店街。次があの倉庫だ。たぶん、私が倉庫で刑事さんを呼んだのがきっかけで調べたのだろうが、正直そこまで詳細に調べ上げているとは思わなかった。だってあの時点では私が勝手に刑事さんを呼んだだけで、八坂と関係があるなんて一切分からなかったのだから。何が言いたいかというと、刑事さんは単に私と会っていただけの男だ。それだけでそこまで徹底的に調べたの?ということである。いや、まあ今こうして大いに役立っているわけだから、さすが公安と言うところなのだけれども。しかし、今のを聞く限り、確かに刑事さんが撃っているとは考えにくい。

「じゃあ、あれが降谷さんの偽物役?」
「それは分かりませんが、得体の知れない刑事を探すより、あちらに接触した方が何か分かるかも知れませんね……さっさと脱出したいところですが……問題は動く砲台にどうやって近付くか……」

安室さんが自らの顎に手を当てて思案する。得体の知れない。ということは、調べても刑事さんにおかしな部分はなかったということか。彼は本当に至って普通の警察官なのだろう、記録上は。大抵、悪いことを企むやつはうまく取り繕っていてもデータ上で設定が甘かったり、顔で失敗(失礼)していることが多いのだが、公安の安室さんが調べても何もないというのは……本当に得体が知れなくてびっくりである。
柱があって、更に背の高い安室さんがいるせいで何も見えない私は、彼の後ろからちょこっとだけ顔を出すようにして辺りを見回した。と、半歩ほど踏み出した左足のつま先に、何かがコツンと軽くぶつかる。

「……あ、これって……」

足元に転がる真鍮の小さなそれは、暗い中でも鈍く光って浮かび上がっていた。銃を撃った後に排出される、空の薬莢だ。見れば向かい側の柱の方から転がってきたらしく、そこかしこに点々と落ちている。きちんと回収する暇がなかったのか、そんなものは気にしていないのか分からないが。

「どうやら、最初に撃っていた地点はここのようですね」

安室さんがそう言いながら向かい側の柱に移動するのに合わせて、私もついて行く。ここから撃っていたのか……やはりさっきまで私達がいた場所からはかなりの距離がある。スナイパーでもない限りは不可能だろう。薬莢以外にも何かないか、ふたりで柱の影を覗き込む。変わったものはなかったが、この暗さで視覚以外の感覚が鋭くなっているのか、普段は気付かないかもしれないほど微かに、ふわりと特徴的な香りを感じた。

「この変な匂い……煙草……?」

私が呟くのと同時に、安室さんが勢い良く後方を振り返る。びっくりした私はつられて彼と同じ方向を見たが、そこはさっきまでと変わらず、暗がりの中でテナントがずらりと並んでいるだけだった。再び銃撃は止み、シンと静まり返っている。

「……まさか……ここに来ているのか……?」

驚愕するその声に珍しく緊張が混じった。ここに来ている、ということはあれが知り合いだということなのだろうか。それが分かったのはこの煙草、か?ゴロワーズ・カポラルは確かに特徴的な匂いがする、自販機でもなかなか見かけない銘柄だ。吸っている人間は多くない。けれどそれで気付いてしまうということは、結構頻繁に顔を合わせる相手なのか。
なぜ、と独り言をこぼす彼に、おそるおそる声を掛ける。

「し、知り合いですか?」
「……そうするとあの刑事は、……」

私の問いに答えることなく、というかそれどころではないのだろう、深刻な表情になった安室さんが散らばった薬莢のひとつを拾い上げた。指先で摘んだそれをポケットにしまうと、彼は闇の中を見据えながら静かに言う。

「……ナナシさん、僕が囮になるので、ひとりで1階まで降りられますか。恐らくここまで誘導されたのは罠です。階段は仕掛けがあるので、エスカレーターを下ってください」

その硬い声に、私は思わずこくりと喉を鳴らした。ただ事ではない感じだ。

「もしかして……あの人、組織の人なんですか?」
「……僕は奴に疎まれているので、姿を見せたら追いかけてくると思いますよ」

ようやくこちらを向いて、安室さんは自分がかぶっていたキャスケットを私にかぶせた。ということは少なくとも安室さんと同等かそれ以上の地位にある人間なんだろう。そのような相手にこんな場所で出くわしたらどうなるか。視線を横に流して、何やら頭の中で目まぐるしく思考しているらしい彼に、私は焦る。

「でも、あなたがここにいるってバレたら大変なことになるんじゃ……」
「大丈夫、どうにでもなります」
「だ、ダメですよ!どうにかしてバラバラに逃げた方が、」

2人でいれば目立ってしまうし、安室さんは自由に動けない。私も、堂々と動けない。ここは別れて全力でお互いに逃げるのが一番勝率があるのだが、それを説明している時間はなさそうだ。鬼ごっこが大得意なんです、などと言っても説得できないだろうし。私の言を遮って、いいえときっぱり首を左右に振る彼の横顔が、もう決定事項だと告げていた。

「あの男だけは危険なんです。応援は呼んでありますので、1階に降りたらすぐにここを出てください」

安室さんは銃をその手に、広い背を私に向けた。
組織のことをまるで知らない私は、この先にいる相手が誰なのか見当もつかない。安室さんは八坂の件を調べるために組織の人間として堂々と動いていたので、恐らくこの先にいる人物もそれは知っている。しかし、今日ここに安室さんがいることの理由にはならないだろう。疎まれているのなら、これ幸いと糾弾の機会を与えかねない。
とにかく、彼をひとりで行かせてはいけない。そう思って、すぐにでもいなくなってしまいそうな彼の黒いジャケットの袖を引っ張る。振り返った彼は、もう組織の男の顔をしていた。いつもと変わらないように見えて、どことなく冷えたその視線。冷めているのに、こちらをじっと見下ろして細められる双眸の奥には底知れぬ不可触の何かがあるようで。思わず指を引っ込めた私に、男が思い出したように瞬きをひとつして体ごとこちらに向き直る。

「……ねえ、ナナシさん」
「は、はい?」
「ナナシさんは"僕"に冷たいですよね」

僕、というのが今目の前にいる組織の人なのだろうというのはすぐに分かった。冷たくしているつもりはないが警戒はしている。何せこの物腰だけはいつもと変わらないが中身はわりと最低な組織の人と相対して襲われかけたことしかないし、悪の組織という響きが一般人の自分からするとそれはそれはよくない。前の世のこともあって肌で感じる、近寄ったら駄目な人オーラ。いつもより低い声は、意図してそうしているのだろうか。同じ人だと分かっていても、あまりにも雰囲気が変わるのですぐに元の人物を見失ってしまう。す、すごい。そういう作戦で私を遠ざけるつもりなのか。
答えるまでずっと見つめてきそうなので、私は濁しつつも口を開いた。

「えっと……そんなことはないで……、……」

屈められた長身と、さらりと流れる金色の髪。迫ってくるにつれて半分になった深くて青い虹彩が、やがてすべて見えなくなって。息遣いと、柔らかくて少し冷たい感触。私は目を見開いた。まったく予想もしていなかった行動をされると、指の一本も動かせない。かろうじて、ゆっくりと一度だけ瞬きをするが、瞼を上げても目の前の光景は変わらない。

そうするのが当たり前のように、自然に唇を奪われた。




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