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16-18



もとより確かに緊迫した空気ではあったのかもしれない。ただ、鋭く空を切る音が斜めすぐ上で聞こえて、その場は瞬時に冷たく凍り付いた。サッと青ざめるような、血が冷たくなるような感覚。息を飲んだのはふたり同時だ。伸ばされかけていた目の前の男の手が強引に私の肩を掴んで引き寄せる。

「っ伏せろ!」

咄嗟に右手で彼のネクタイ、左手でシャツをぎゅっと握り締めて、されるがままにその場にがくりと膝を付いた。どこからか飛んできた鉛玉はすぐ近くの柱に一瞬で着弾する。……発射音がまったく聞こえなかった。サイレンサー付きといえど近くで撃てばかなりの音がするはず。離れた位置から何者かに銃撃されたようだ。とはいえ、銃弾が通過してから反応した2人ともが無傷ということは、狙いは外れたらしい。

「立って」

周囲を警戒する安室さんに腕を引かれて、腰を低くしたまま移動する。いちいち詳細に確認している暇はないが、その間も壁やエスカレーターのどこかに銃弾が掠る硬い音がした。しかし、ここは3階なので恐らくは水平方向から狙撃しているのだろうが、逃げる私達の後を着弾地点が一定間隔を開けて追ってくる。発射音が聞こえないほど遠くから撃っているのに、水平射撃時の重力を物ともしない正確さ。これだけの腕なら体を狙うこともできるだろうに、どこかに誘い込もうとしているのか、それとも、別の目的があるのか。距離的に、スコープがあったとしても相手からこちらの姿は影くらいしか見えていないに違いない。
弾が飛んできた大体の方角を把握すれば死角を見つけるのは容易だ。あそこなら、と見つめたその地点。同じことを考えていたらしい男に体が浮くかと思うくらい力尽くで引っ張られて、紳士服売場に逃げ込んだ。……脚の長さが違うのでちょっと考えてほしい。引きずられるようにして、吊るされたたくさんのスーツの裏側に回る。しゃがみ込んで、ひとまずはそこで息を潜めた。銃撃はすぐに止み、フロアには再びシンとした静寂が戻っている。

「黒幕、でしょうか……」
「…………」

隣にいる安室さんに小声で話しかけるも、返答はない。その横顔も金色の髪で隠れていて見えなかった。私は再び正面を向いて小さく息を吐く。色々なことが一気に頭の中に溢れたので、少し体が熱くなっていた。おとなの知恵熱ってやつかもしれない。微妙な空気になってしまっているが、降谷さんがまさか目の前にいるとは思ってもみなかったのだ。考えが浅かった……自身の思考回路を残念に思う。

「すみませんでした……気付かなくて」
「ナナシさん……これが終わったら、話し合うことがたくさんありそうですね」
「うっ……はい……」

静かに呟いた安室さんに、私は思わず呻き声を上げてこくりと頷く。
ここまでたどり着いてしまった以上、もはや互いに隠し事をするのも馬鹿馬鹿しい。色々なことが秘密だったが故にこんなに大変な事態になっているのだから。私は遡ると専務の辺りから洗いざらい告白しなければならないのだろうか……想像するだけでしんどい。それを言うなら安室さんも宅配業者のあたりから吐いてもらわないといけないけど。暴露は苦手な性質故に、全部打ち明ける頃にはお互いに燃え尽きて灰になっている可能性大だなぁと思いながら、もう一度だけちらりと彼を確認する。

「僕も……あなたに明かせなくてすみませんでした」

するとこちらを見ずに前を向いたまま、安室さんがそう言った。名前……は、まあ下のは聞いていたのだが、今彼が言っているのは名字のことか、それとも公安のことだろうか。しかし、それは当たり前のことだ。告げることはとても許されることではない。私も今回のことがなかったら、彼の正体を知っているということを彼に告げる機会はなかっただろう。いや、まあ、今回だってあなたは公安の人ですね!とずばり言ったわけではないけど。

「秘密なのは当然ですよ……そういうお仕事だし……」
「もうとっくに気付いているでしょうが……安室透も、組織の男も、実在しない人間です」
「はい」
「偽りの名で、姿で……あなたに思わせぶりなことをたくさんしてきました」
「……悪い男ですね」

悪い男ネタを引っ張る私に、安室さんはふぅと肩の力を抜いて、背後の壁に背を預けた。さらりと揺れた髪の間からその横顔がやっと見えて、私はほっとする。こんな時なのに緊張した面持ちはなく、どこか気が抜けたような表情だった。

「でも、嘘じゃないんです」
「…………」

瞼を閉じた彼が独り言のように呟くのを、私も正面に向き直って静かに聞く。嘘つきが言う嘘じゃないほど信用できないものはない。それを誰より自分で分かっている彼がそう言うのを、黙って聞いていた。

「あの夜、あなたに矛盾していると言いましたが……本当に矛盾しているのは僕の方です」
「…………」

不思議だ。彼の声を聞いていると穏やかな気持ちになるのに、無心では聞けない。たくさん聞きたいと思うのと同じくらい、耳を塞ぎたくなる。もっと近くで聞きたくて、自分も壁に凭れるようにして、元からさほどない距離を詰める。腕と腕がぶつかった。すぐ横にある彼の肩に、ほんの少しだけ傾けた頭を預けて。

「僕は……僕を呼ぶ人が誰もいなくなったあの日から、名前なんてどうでも良くなったはずなのに」

どんな役柄でも、幾つでも。完璧に演じてみせる。名前とはそれらと本来の自分を区別するだけの、ただの記号。そう淡々と呟いた彼は、最後に、でも……と落とすように囁いた。

「あなたがその名前で他人を呼ぶことが、こんなに腹が立つとはね……」

声の聞こえ方で、前を向いていた彼が今度は私を見ているのが分かった。肩に頭を預けたままの私は、そんな彼を視線だけで見上げる。暗い中でいつもより深く青い虹彩が静かな海のようにそこにあって、ずっと見つめていると飲み込まれてしまいそうだった。
……意味合い的に違うのだろうが、怒られている気分になってきた。大切な伝言を危うく別の人に渡してしまうところだったのだ。未遂だからまだよかったものの、こうして彼のような立場の人を厄介ごとに巻き込んでしまったし、謝っても謝りきれない。そこは本当に反省すべきである。心からしゅんとして、寄りかかっていた彼からさっと体を離す。俯きながら私は、ごめんなさい、と小さく呟いた。

「許せないな」

腰に回された腕に素早く引き寄せられて、何が起きたか悟る頃には逞しい胸板に顔を全部埋めるはめになる。そのままぎゅっと強く抱き締められたので、窒息しないように慌てて顔を横に向けた。加減を知らない両腕が絡みついて、離さないとばかりに力を込めてくるのを、女の力では到底どうにもできそうにない。あったかくて、硬くて、痛い。彼の匂いがする。鼓動が聞こえる。う、と小さく声をあげた私の耳のすぐ上で、

「…………僕を見て」

低い声が囁いた。




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