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16-17




「……ん?ナナシさん、何だか汚れていませんか?」
「あ……さっき煙幕みたいなのをかぶっちゃったので、それだと思います」
「え……誰かいたんですか?怪我は?」
「いえ、大丈夫です」

大きな手が、私がかぶるキャスケットの汚れているであろう部分をぽんぽんと軽く叩いた。わ、と下を向いて、倒れ伏す警備員もどきが視界に入る。……上半身の衣服がやけに乱れている。何か吐かせようとしたのか。私を置いていったのはそれでか……。尋問はさることながら、きっと拷問も得意なんだろうなと考えてぞくりとする。これだけ強ければもう手を握られるだけで拷問が成立しそうだ。
ふと何か気配でも感じたのか、鋭く視線を横に向ける男の顔を間近で見上げる。この人が私の行きつけの店でバイトなんてしなければ、会話することは一生なかったんだろうなぁ。全国の数千人の公安警察の頂点。立場として抱える部下は大勢でも、彼の顔を知るのはごく一部だ。直接彼の命令を受けられる人間なんてほとんどいないんだろう。まさに雲の上の存在。こんな男が自分の上司だったら惚れるだろうな。何の関係もない私ですら、足手まといにならないようにしなければと妙な決意が芽生えてくるのだから。

……ずっと憧れの人だったのだ。

と、頭の中で誰かが嬉しそうに笑った。……いま、何て?唐突に浮かんできたのは誰の言葉だったか。
……引き抜かれてここで働くことになった。仕事でなかなか思うようにいかず、やりがいを見出せなくなっていた自分の能力を高く買ってくれて、手を貸してほしいと言ってくれた人の気持ちに応えたかった。

それは倉庫で発見された男の言葉だ。確か"八坂"は自分で貿易会社を経営していたが、うまくいかなくて嶋崎さんのところに引き抜かれてきたのだったか。どうして今、浮かんでくるのだろう?直接本人から聞いたわけでもない、顔も知らない男の声が。うっかり降谷さんの偽物に呼び出された私を叱咤するために、あの世から語りかけてきたのではあるまいな、と、何となく頭上を見る。そこは相変わらずの闇だ。

「ナナシさん、この奥はまだ調べていないんです。僕から離れないでください」
「あ、はい」

歩き出した安室さんの少し後ろに続く。

"八坂"か……。
刑事さんが降谷さんを知っているかもしれないと聞いてから、私は無意識に彼のことを深く考えるのをやめてしまっていた。
"八坂"という男は、異動してきてすぐにチームリーダーになっている。私は彼のことを協力者のような存在かもしれないと思っていたのだが、よく考えてみればそれは少々不自然だ。協力者には調査対象に近しい者を選ぶ傾向があるが、いくら能力があっても異動してきたばかりの男をスパイに仕立て上げるのは無理がある。周囲に溶け込むのに時間を要するし、何よりすぐにリーダーという、目立つポジションにつくというのは考えられない。
男は元からそう読める人間もいないであろう中東の言葉をさらに暗号化し、鍵を嶋崎家の娘にそうとは伝えずに託した。ただし暗号の本文は、一度は捜査対象になるであろう倉庫の中に堂々と残して。慎重だが、大胆な手口。ただ、そこまでしても、暗号を発見した人間……つまり私が、降谷さんの行方に見当が付かないのでは意味がない。もう一つくらい、ヒントを残していてもいいはずだ。倉庫にあったような暗号の形ではなく、日常的に周りに摺り込むことによって、のちに暗号を手に入れた第三者から"八坂"と"降谷さん"への道標になるような。それは自分が予期せぬ死によってこの世から姿を消す時のためのものでもある。ならば彼が残した言葉に無意味なものはひとつもない。あの言葉にも、真相とフェイクが織り交ぜられているはずだ。

「能力を買われて、元いた場所から引き抜かれた……」
「……え?」

安室さんがちらりと振り向いたが、思考の海を泳ぎ始めた私は止まらない。再び前を向いた安室さんのあとを遅れ気味に歩きながら、考える。
"八坂"はヘブライ語が堪能だった。父の跡を継いで、というからてっきり貿易の方の手腕を買われて引き抜かれたのだと想像していたが、能力とは言語能力のことで、貿易についてではなかったのかもしれない。むしろそう思い込ませるためだったのなら、会社を経営していた云々は嘘だった可能性もある。彼が入手した情報は何だったのだろう。中東の事情に堪能ならば、仕事をしていて誤って危険な情報を掴んでしまうようなことはないだろうに。なぜ、"八坂"は消されるほど重大な情報を手に入れてしまったのか。それにいくら語学が堪能でも、経験もないような男を嶋崎さんが引き抜いたりするだろうか。…………引き抜いたのが嶋崎さんじゃなかったら、どうだろう。どこからどこへ、いつ、誰が引き抜いたのか。嶋崎さんのところにやってきたのは、引き抜かれた後の話なのではないか。するり、複雑に絡まっていた糸が微かに緩む。

「……八坂って……」

私の言葉に反応したように、安室さんがピタリと立ち止まった。その動かない背を見つめながら、私の思考は加速する。
誰かの協力者ではない。ましてや偶然情報を掴んで、不運にも消されたわけじゃない。彼は……。

「……公安の人……?」

"八坂"はまさに狙ったその情報を得るために、新規に中東の事業を展開する嶋崎さんの会社に潜り込んだ。そして重要な情報を入手できる立場になり、実際に情報を手に入れたが、何者かに殺された。犯人が遺体を倉庫に遺棄した理由は、"八坂"が情報を外部に漏らしたかどうかを確認するためか。外部、といっても、犯人側はそれがどこなのか知らない。あれほど頭のきれる男だ。自らが公安であるという痕跡は一切残さなかったに違いない。犯人は遺体を遺棄した後、捜査のために倉庫を訪れる人間を陰で見ていたのだろう。そして同時に、嶋崎さん周辺を調べ始めた。情報が漏れていないか。もし"八坂"が情報を漏らすとしたら、それはどこなのか。あのキャシーという秘書や、メイちゃんを誘拐しようとした男達がそうだ。
安室さんもまた、ずっと嶋崎さんの周辺を調べていたようだった。メイちゃんの写真を持っていたり、嶋崎さんに接触しようとしたり。あくまでもそれは組織の人間としてだ。それはきっと、"八坂"を殺した犯人の目を欺いて活動するため。"八坂"の死の真相を調べるためだ。

思考の海に溺れる私の目の前に、男がゆっくりと歩いてきた。その目はただ驚きに見開かれて、私を見下ろしている。
普通の公安の人間ならば、安室さんとは接触できない。顔も名前も知ることはできない。それに言い方は悪いが末端の警官が殺害されたところで、この人は動ける立場にはないだろう。つまり……"八坂"をいずこかの部署から自らの元へ引き抜いたのは。能力を見込んで、重要な潜入捜査の任務を直々に与えたのは。

「憧れの人……」

私が呟くと、驚いた表情のまま、目の前の人が少しだけ首を傾げる。
私の頭の中で再び、不思議な声がそう言って笑った気がした。

さっきこの人は何と言っていた?

「…………安室透でもない、自分を殺してやりたいと思う日が来るとは思わなかったな」

……自分って?
もう答えは出ているのに、気付かなかった私に知らしめるように、何度も駐車場でのやりとりが頭を巡る。
唇を開いても、息が漏れるばかりで声にならない。そうか、そうだったんだ。
"八坂"が死期を予感しながら、素性も知れぬ私のような人間に託してでも、最後のメッセージを届けたいと願った相手。

「あなたが……降谷さん…………」

その名を口にすると同時に、男の腕が伸びてきた。





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