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02-2


定時を30分ほどオーバーして会社を出た私は、家の方向へ曲がったところで驚いて足を止めた。
夕暮れの駐車場に停められた白い車に背を預けるように立っていたのは、数時間前に別れた安室さん。もう宅配業者の格好ではなく、黒い長袖シャツにカーキ色のパンツという普段着のような格好になっている。
スマホを操作していた彼はすぐにこちらに気付いて片手を上げた。

「お疲れ様です。ご自宅の近くまでお送りしますよ」
「え?でも」

予想外すぎてとりあえず遠慮の言葉が出かかったが、「事件のこともあるので」と先に言われてしまった。
正直、不届き者が国際手配中の殺し屋とか、米海兵隊の凄腕スナイパーとかでない限りいっさい負ける気はしないのだが、それは言ってはいけないルールである。

停めてあったのはフォルムの美しい白のスポーツカーだった。値が張りそうだ。アメリカでは探偵というとかなり高所得である場合が多いのだが、日本もそうなのだろうか。
ものすごい自然に助手席のドアを開けてくれたのでお礼を言って車に乗り込む。スマートか。普通の車と比べると、車高がかなり低いのでちょっと怖い。運転席に乗り込んだ安室さんがエンジンを掛けてギアを入れ、アクセルを踏み込むと同時にロータリーの独特なエンジン音が低く響いて車体を震わせた。回転が高くなるとともに弾む音が車好きには堪らないだろう。
家の大まかな住所を告げると、ゆっくりと発進した車は見慣れた道を進んでいく。シフトレバーを握る褐色の手が視界に入った。これ、横見たら惚れてしまうやつでは?と思いつつ見てしまうのは救いようのない人間の好奇心である。

私の視線を感じたのか、安室さんが口を開く。

「ナナシさんも気をつけてくださいね」
「何がでしょう?」
「例の事件ですよ。若くて綺麗な女性が狙われているみたいですから」
「やだ、お世辞言っても何も出ないですよ安室さん!」
「お世辞じゃありませんよ」

ちらりとこちらを見て、安室さんは何故か困ったように笑った。
私は照れながらも、はいはい、と思って窓の外に視線を向ける。毎日通る道でもこうも雰囲気が違うものかな、と流れる景色を見つめた。

「……本当にそう思っています」
「!?」

少し間を置いて落とされた独り言のような呟きに、思わず安室さんを見てしまった。会話終わりだと見せかけて追い打ちかけてくるパターンだ!こんなかっこいい男に褒められたらドキドキしないはずがない。ので、さっきからちょっと鼓動が早い。別のことを考えて気を紛らわそうとして、そういえば、と思い出した。……ターゲットの女を褒めそやしながら次の手を考えていたかつての自分自身を。いや、今この安室さんが私をターゲットしてるわけじゃないと思うけど。性格というか、性質だろう。短時間で相手の懐に入る方法をよく知っていて、それが目標以外の相手であってもこうして自然に出るのだ。きっと。まあ、根がフェミニストじゃないと嘘で他人を褒めるというのは苦痛が伴う。元から女性に優しい人なんだろうなぁ。
信号が赤になり、車は静かに停止する。

「安室さん、さらっとそんな事言って……たくさんの女の人を誤解させてそう」
「僕は思ったことを言っているだけですよ」
「そういうとこですよ!」
「よく分かりませんが、分かりました」

分かってないじゃん?と思ったがこれ以上突っ込むのはやめた。こっちが余計に火傷しそうである。こういったやりとりはドキドキして楽しいは楽しいのだが、どうしても過去に騙し……もとい仲良くした女性のことを思い出してしまう。
こちらが容姿を讃えるような言動をした時に、もちろん一切動じない女もいたが、大抵の女は満更でもない様子だった。女とはそういうものだろうと深く考えてはいなかったのだが、実際に女になった今、私は感じることがある。なにも本当に自分が世界一美しいとか、可愛いとか思って照れているわけではない。人からの言葉を素直に受け止め、頬を染めた少女のような頃は誰しもあって、その時の気持ちを薄っすら思い出すのだ。その頃、少女は自分自身に恋をしていた。いま私がこんなことを思うのは、今の私は、私に恋をしているからなんだろう。この素晴らしい世界が好きだ。そこに生きる私の存在も愛おしいと思っている。

普通の恋がしたいと、以前の私はそう思っていた。しかし、今の場所から抜け出して他人を愛するにはまだ時間がかかりそうな気がして。

思わず笑ってしまった私を、彼は赤信号のあいだ不思議そうに見つめていた。



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